2013年11月27日水曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(9)

前々回の張飛伝(7)に於いて、“さりながら厳顔の部下に堅く守って向こうの崩壊を待つ方がよい、と助言する者があり、”と書きましたが、この助言は重要な内容を含みます。

詳しく書くと、その者のいう事には、
 「彼軍無糧、不過一月、自然退去。更兼張飛性如烈火、專要鞭撻士卒。如不與戰、必怒。怒則必以暴厲之氣、待其軍士。軍心一變、乘勢擊之、張飛可擒也。」
です。即ち、
“彼の軍は兵糧不足です。(堅く守って取り合わなければ、)一か月もたたぬうちに、自分から退却いたしましょう。そればかりか、あの男は気性がはげしく、何かといえば兵を鞭で打ちます。こちらが取り合わずにおけば、きっと腹を立て、自分の兵にむごくあたりましょう。そうすれば兵士らも心変わりし、そこにつけこんでこれを撃てば張飛を虜にできます。”
というのです。
 ここで言われているような張飛の部下の扱いについては、類似の話が正史の張飛伝で劉備の言葉の記述の中にもみられます。
 「…飛、愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰「卿、刑殺既過差。又日鞭撾健兒、而令在左右。此、取禍之道也」飛猶不悛。」
という部分です。
井波さんの訳では
 “(関羽が兵卒を厚遇したが、士大夫に対しては傲慢であり、)張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった。先主はいつもこれを戒めて「君はあまりにも刑罰によって人を殺し過ぎる上に、毎日兵士を鞭で叩いている。しかも彼らを側近に仕えさせているが、これは禍いを招くやり方だぞ」といっていたが、張飛はそれでも改めなかった。”
 となっています。
 訳文では君子と小人という言葉について、わざわざ君子は身分の高い人、小人は身分の低い人と括弧で註がなされています。論語でいう君子、小人とは違うようです。
 張飛は、軍規を乱した、命令通り実行しなかった、約束の日時までに用事ができなかった、到着が遅れた、などの理由で部下を安易に斬ったのでしょう。
 その結果、最後に張飛は部下に暗殺されることになります。
 彼はいわゆる読書人ではなかったでしょうが、字は読めたし書物も読んだ筈です。また筋道の通った議論もできたはずです。三国志で字をろくに知らない大将も出てきまが、字を知らないことがわざわざ言及されています。呂布の主人だった丁原、あるいは蜀の将で王平などです。
しかし三国志の列伝にでてくる殆どの大将達は基礎的教養はある人達です。張飛もその一人だったでしょう。 そして張飛は自分の属する階級の人には丁寧だったのですが、下位のものには情け容赦なかったようです。

 するとどんな人が見えてくるでしょう。頭はきれて、作戦も的確、攻撃の指揮も積極的な猛将で当時の誰からも恐れられていた。呂布のように変な野心はなく、劉備に対して忠節で裏切りをするようなことはない。彼は上の人には礼儀正しく、下の人には厳しかった。
 つまり、どちらかというとあまりなじめない人のイメージが出てきます。

 実際上は、上司として張飛を使うのなら、当てにできる有能な大将ですし、部下として戦争にくっついていくなら、怖くても戦に強い将軍が指揮を執ってくれて勝ち戦になる方が、少々やさしくても無能で負け戦になるよりよっぽどマシです。 しかし物語の登場人物としてはあまりなじめません。
張飛については、三国志演義のように無教養な乱暴者で、しかし義理堅い人間として張飛を描いた方が、一般の人の人気が保てるから、そのようになったのだろう、と思います。




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2013年11月26日火曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(8)

張飛は一計を案じます。 兵士にたきぎ、柴刈りをさせつつ山路を調べさせます。そしてある日、兵士は陣で厳顔を罵倒していた張飛に、部下が巴郡を抜ける抜け道が見つかった、と言ってきます。

張飛はわざと大声で「そんな道があるなら、なぜ早く言わない。」と言い、早速間道を抜ける用意をさせます。
 実は厳顔も張飛の様子がおかしいので、自分の兵に張飛の兵と同じ服装をさせて紛れ込ませていたという記述があります。だから、張飛の間道を抜けようする作戦は厳顔が知ることになります。

しかし張飛からみて、厳顔が自分の計画を知るだろうと期待するためには、張飛は厳顔が間者を張飛の軍にまぎらこませたことを知っていないといけません。しかし張飛は知っていたとはどこにも書いていません。張飛が知らなかったのならこれは計略にもなりませんから張飛は自軍に厳顔の間者が入ったことを知っていた、ということを暗黙の了解として話はすすみます。

 なお、兵隊が「巴郡を抜ける抜け道が見つかった。」と上に書きましたが、この部分は 「這幾日打探得一條小路可以偸過巴郡」 で、立間祥介さんの訳では、
 “このほど人知れず巴郡を通り抜けることのできる間道を見つけ出してございます。”
 です。
一方小川環樹さん、金田純一郎さんの訳では、
 “この何日かの間に巴郡への抜け路が見つかりましてございます。”
 です。
張飛が押し寄せたのは巴郡のはずです。だから、小川さん、金田さんの、”巴郡への抜け路”が見つかった、という訳は変で、立間さんの、”巴郡を通り抜ける間道”が見つかったというのが正しいと思います。

さて、厳顔は張飛が巴郡を通り抜ける間道を行こうとするのを知り、間道に兵を出して、逆に張飛の罠にはまりとらえられます。とらえられてからのやりとりは正史と同じです。 こう書けば、この部分は普通の話になりますが、この間ずっと張飛は常に無暗に腹を立て、罵詈雑言を吐いているごろつきのような人として描写されています。




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2013年11月23日土曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(7)



さて厳顔との関わりを三国志演義でみれば次の回に記述があります。
第六十三回 諸葛亮痛哭龐統 張翼德義釋嚴顏
しかし、正史と異なり張飛はもっと程度の悪い人間に描かれます。諸葛亮と張飛
は同日に別の進軍路で出発しますが、張飛と別れるときに、諸葛亮は、蜀には剛の
者が多いので敵を軽んじてはならない、軍律を厳しくして、領民から物をとったり
して民心を失なわぬよう、むやみに兵士を鞭で打ったりしないこと、などとその辺
の乱暴者にするような注意をあたえます。
別の進軍路を任せられるような将軍とは思えぬあつかいです。
 
そしていよいよ蜀へ侵攻します。
途中降伏した者には危害を加えず、巴郡に至ります。太守は厳顔です。これが万夫
不当の強者で降参しないというのです。人をやって向こうに口上を伝えるように指
示します。
 
與老匹夫、早早來降、饒你滿城百姓性命!若不歸順、卽踏平城郭、老幼不留!
 
即ち
“おいぼれにそう言え。早く降参しろ。すれば城じゅうの住民の命を助けてやる。もし帰
順しないというなら、即座に城を踏みつぶし、老幼一人も生かしておかないぞ。”
です。諸葛亮から敵を侮るな、と言われたのにこの始末です。
それを聞いた厳顔も乱暴で
『匹夫怎敢無禮!吾嚴將軍豈降賊者乎!借你口與張飛!』喚武士把軍人、割下耳鼻、
 却放回寨
“「下郎めが、無礼な奴だ。この厳将軍が敵に降参すると思うか!お前の口から張飛にそう言え」と、その兵士の耳と鼻を切り落とさせて陣へ帰らせた。”
という有様です。


さりながら厳顔の部下に堅く守って向こうの崩壊を待つ方がよい、と助言する者があり、厳顔はそれを聞き入れ防備を固めます。

部下がひどい目に会わされて追い返されてきた張飛の方は激怒して早速押しかけます。即ち、
張飛大怒、咬牙睜目、披挂上馬、引數百騎來巴郡城下搦戰。」
“張飛は大いに怒り、歯を食いしばり、目をいからせ、鎧を着るなり馬にまたがって、
数百騎を従えて巴郡の城下へ来て戦いをいどんだ。”
ということです。やることが単細胞的です。
しかし敵に罵倒されたうえ、相手にされず、張飛のやったことと言えば腹を立てただけでした。三国志演義での張飛はこんなものです。






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2013年11月20日水曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(6)



張飛伝で当陽長阪の件の次にでてくる話柄は、劉備が益州に入り、漢中征伐から引
き返して劉璋を攻撃した時、張飛は諸葛亮とともに、攻め入るところです。
ここの表現はちょっと興味深いです。
先主入益州、還攻劉璋、飛與諸葛亮等、泝流而上、分定郡縣。」
井波律子さんの訳では
“先主が益州に入り、(漢中征討から)引き返して劉璋を攻撃したとき、張飛は諸
葛亮とともに、流れをさかのぼって攻め上り、手分けして郡県を平定した。”
となっています。張飛は諸葛亮と手分けをして郡県を平定しているのです。
三国志に出てくる、あまり頭のよくない乱暴者のイメージとは程遠い役割を担当し
ております。
 
そのあとに三国志演義にも出てくる厳顔を許す有名な話がでてきます。厳顔がどの
ような経緯で捕虜になったのかは正史ではわかりません。とにかく捕虜の厳顔が引
っ張って来られたあとは次のような話になります。
 「飛呵顏曰「大軍至、何以不降而敢拒戰?」顏答曰「卿等無狀、侵奪我州。我州但有斷
頭將軍、無有降將軍也」飛怒、令左右牽去斫頭。顏色不變、曰「斫頭、便斫頭。何爲怒
邪」飛、壯而釋之、引爲賓客。」
 
“張飛は厳顔をどなりつけ、「大軍がやってきたのに、なぜ降伏せずに抗戦したの
か」というと、厳顔は「あなた方は無礼にも、わが州を侵略した。わが州には首をは
ねられる将軍がいるだけで、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛は立腹して、
側近の者に引っ張って行かせ、首を切らせようとしたが、厳顔は顔色一つ変えず、
「首をきるなら、さっさと切ればよい。どうして腹をたてることがある」といった。
張飛は見事だと感じ、彼を釈放し、招いて賓客とした。”
 
この話は三国志演義にもでてきまして、厳顔をどなりつけるなど、演義にある張飛の
人物像とつい重ねてみてしまうかも知れません。
しかしここだけをみて人物像を考えるならば、張飛は勇猛でありながら義気のある
将軍として描かれていると思います。





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2013年11月19日火曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(5)



正史を見ると、張飛は当時猛将としてすでに令名が高かったのだろうと推測されます。
 
郭嘉伝(魏書 程郭董劉蔣流伝 第十四)の註に「傅子」(三国・晋時代の傅玄の書)
の引用があります。これは劉備が徐州を失って曹操のところに身を寄せている時の話
です。すなわち当陽長阪の事態の起こる前の話です。その「傅子」の中で郭嘉は
備有雄才而甚得衆心。張飛、關羽者、皆萬人之敵也、爲之死用。」
と言っています。井波さんの訳によれば、
“劉備は人並みはずれた才能をもっているうえに、人々の心をたいへんよくつかん
でおります。張飛や関羽は、皆万人を相手とできる英雄でして、彼のために決死の
はたらきをします。”
ということです。
 
劉備の当陽での大敗のすぐあとに次のような話がでてきます。
程昱伝(魏書 程郭董劉蔣流伝 第十四)の中で、曹操が荊州をとり、劉備が呉を頼っ
た時、諸将が孫権は劉備を殺すだろうと判断したのに対しての、程昱の見解がかかれ
ている部分があります。その中で、 程昱は
劉備有英名、關羽張飛皆萬人敵也。權必資之以禦我。」
と言っています。訳は
“劉備は英名があり、関羽と張飛はいずれも一万人を相手に立ち向かえる人物だ。
孫権は彼らをたすけとしてわれわれに抵抗するにちがいない。”
です。
 
郭嘉も程昱も張飛(関羽もですが)を「萬人敵」と言っています。これは物語ではな
く現実世界の話ですから、「萬人敵」は個人的武勇の話ではなく将軍として猛将であ
り優れていると評価しているはずです。
 
こう判断する具体的根拠は正史を読んでも見えにくいです。多分いろいろ戦はあった
でしょうが、その中で張飛は積極的で勇敢な作戦をとり成功を収めていたのでしょう。
 
三国志演義だと、一人で一万人にも当たれるという大げさな表現は、彼の示す個人的
武勇で保証されている形になります。実際の話ではありえないですが、演義の中では
張飛は手並みが人並み外れてすぐれ敵将を蛇矛で突き殺してしまいます。
 
しかし、頭と酒癖が悪く腕っぷしだけの男では大将はそもそも勤まらないし、程昱や
郭嘉が高い評価をする筈がありません。
 
その結果として、張飛という名前だけで彼が一軍を率いて現れたら恐ろしい、という
印象を人々がもっていたが故に、川を頼んで小人数で支えられたのでしょう。当陽長
阪での張飛の成功は彼のもつ猛将としてのオーラ(aura)だったと思います。





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2013年11月17日日曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 張飛伝(4)



張飛の官位の話で張飛伝では、
先主從曹公破呂布、隨還許、曹公拜飛爲中郎將」
となっています。
“先主が曹公に従って呂布を破り、ともに許に帰ると、曹公は張飛を中郎将に任命した。”
ということです。
中郎将は比二千石という身分で、比のつかない二千石である司隷校尉や郡太守よりちょっ
と下ですが立派な身分と言えましょう。つまり立派に評価されていた訳です。
 
次に張飛伝に出てくる話は当陽長阪での殿を勤める話です。
三国志演義の方では趙雲が獅子奮迅の働きで劉備の子、阿斗を救い、従包囲を抜けて長
阪橋まで来たのですが、人馬ともに疲れ切っていました。この時の趙雲と張飛のやりと
りは以下の通りです。
見張飛挺矛立馬於橋上、雲大呼曰、『翼德援我!』飛曰、『子龍速行!追兵我自當
之!』」
“張飛が鉾を小脇にして橋の上に馬をとめている姿をみて、趙雲は大声で「翼徳助けて
くれ」と言います。張飛は「子龍早く行け。あとは俺が引き受けた。」”
 
しかし、演義にあるような(どうみても不可能な)趙雲の活躍はなく、長阪橋での趙雲
と張飛の出会いはありません。正史では張飛はわずか二十騎をつけて殿を任されたので
す。しかも橋は切り落としてあります。すなわち、
 
使飛將二十騎、拒後。飛、據水、斷橋、瞋目橫矛曰「身、是張益德也。可來共決死!」
敵皆無敢近者、故遂得免。」
井波さんの訳では、
“張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落とし、
目をいからせ矛を小脇にして「わが輩が張翼徳である。やってこい。死を賭して戦おう
ぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。”
となっています。
なぜそれでなんとかなったのでしょう。曹操の将兵が川を渡るのを逡巡したのはなぜだろ
うか、という問題が残ります。 





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