2013年10月21日月曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 黄忠(4)

そして第七十一回 「対(ムカヒ)の山を占めて、黄忠 逸もて労を待ち、漢水に拠りて 趙雲 寡(スクナ)きをもて衆(オオ)きに勝つ」の話となります。

張郃、夏侯尚は、魏軍が負けて天蕩山を失い、夏侯徳、韓浩が討たれたこと、劉備が漢中攻略に乗り出したことを夏侯淵に報告します。夏侯淵はこれを曹洪に報告します。曹洪は直ちに曹操に自ら報告に行きます。その結果、曹操は四十万の大軍を起こして南鄭(漢中の一部)にまで出てきます。そして曹操は夏侯淵に御身の妙才(妙才は夏侯淵の字)を見せてもらいたい、という手紙を送ります。

黄忠は法正の策に従い、夏侯淵がいる定軍山の西側正面の山を占領します。そして法正が頂上で敵を監視し、黄忠は中腹で待機します。法正は黄忠に、攻めに来た夏侯淵の軍の士気が緩んだら山頂から知らせるから攻めるようにと言います。実際狙い通り夏侯淵はおびき出され黄忠たちのいる山を包囲します。
下から罵っているうちに鋭気が衰えて油断も生じます。それを見計らって法正が攻めるように赤旗で連絡します。夏侯淵はこのとき指図するひまもなく応戦の支度も整わぬまま黄忠の刀で斬られます。これが三国志演義の中での黄忠の一番華々しい場面です。

さらに黄忠は定軍山を攻めようとします。これを張郃が防ごうとしますが、支えきれず敗走です。退路に趙雲が現れます。張郃は血路を開いて定軍山へ戻ろうとしますが、すでに定軍山は劉封(リュウホウ)と孟達により取られてしまっています。

ここまでで漢中を取るという大目標を達成するために戦略的に重要であった定軍山の奪取に成功した訳で、主将たる黄忠は蜀志に残る大手柄を立てたのです。
次に漢中全体を奪取する戦いになります。



曹操は弔い合戦をして定軍山を取り返そうと考えます。しかしまずは米倉山に蓄えた兵糧、まぐさを北山に移してからにすべきだ、と進言され曹操はそれに同意します。

この情報は蜀に伝わり、諸葛亮が次のようにいいます。
「今操引大兵至此、恐糧草不敷、故勒兵不進。若得一人深入其境、燒其糧草、奪其輜重、
則操之氣挫矣。」
“曹操は大軍をようして来たことにより、兵糧の不足をおそれ、まだ兵を進めないのでしょう。もし誰か一人、敵中深くはいり、その兵糧を焼き、その輜重を奪えば、曹操の意気込みはくじけましょう。”

という訳で、敵中深く糧秣を焼きに行く話になりますが、またしても黄忠が出ます。今度は趙雲が副将として付きます。黄忠が敵中深く入り糧秣に火をかけようとするところで、張郃の軍勢が駆けつけ、更に徐晃の援軍がきます。黄忠は包囲されますが、後から来た趙雲の活躍により助け出されます。その後、いったん陣に引き上げた趙雲を曹操軍は追撃しながらもおそれて陣を攻撃しかねていたところを逆襲されて、総崩れになります。
劉封、孟達に北山の糧秣に火をかけられ、趙雲は曹操陣の陣屋を奪い、黄忠は糧秣を奪っています。なお戦はありますが、これで漢中奪取が決定的になります。

こうして劉備は漢中王になります。第七十三回で漢中王になった劉備が、臣下に爵位を
賜るのですが、関羽に使いがくると関羽が怒る話があります。
『漢中王封我何爵?』   
詩曰、『「五虎大將」之首。』
雲長問、『那五虎將?』
詩曰、『關・張・趙・馬・黃是也。』
雲長怒曰、『翼德吾弟也、孟起世代名家、子龍久隨吾兄、卽吾弟也、位與吾相並可也。
黃忠何等人、敢與吾同列?大丈夫終不與老卒爲伍!』
“漢中王は自分に何の爵位を賜ったか。”
“五虎将の筆頭です。”
“五虎将とは?”
“関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠です。”
“張飛は自分の弟、馬超は名門出身、趙雲は兄(劉備)に長く従っていて自分の弟同様だ。同列に文句はない。だが黄忠如きが自分と同列か。大丈夫たるものあんな老いぼれと並ぶことはできない。”
となっています。
しかし、第五十三回で黄忠は、関羽が一回見逃してくれたことへの恩返しとはいえ、射殺することができた関羽を助けます。三国志演義で見る限り、関羽がそれほどに黄忠を低く評価するのが奇異に見えます。

正史ではそうはなっていません。劉備が黄忠を後将軍にしようとしますが、諸葛亮が劉備に注意します。
諸葛亮先主曰「忠之名望、素非關馬之倫也。而今便令同列。馬張在近、親見其功、尚可指。關遙聞之、恐必不悅。得無不可乎」先主曰「吾自當解之」遂與羽等齊位、賜爵關。」
です。井波さんの訳によれば
“諸葛亮は先主(劉備)に申し出た。「黄忠の名声人望はもともと関羽・馬超と同列ではありません。それを今ただちに、同等の位につかせようとしておられます。馬超・張飛は近くにいて、自分の目で彼の手柄を見ておりますから、まだ御主旨を理解させることができましょうが、関羽は遠くでこれを聞いて、おそらく喜ばないに違いありません。どうもよくないのではないでしょうか。」先主は、「わしが自分で彼に説明しよう」と言い、かくて関羽らと同等の官位につけ関内侯の爵をたまわった。”
となります。しかし関羽に説明に出かけたとも書いてありません。お互い忙しすぎるし遠すぎます。手紙でも書いたのでしょうか。

なぜ関羽が黄忠と並ぶのを不平に思うと諸葛亮が考えたかといえば、五十三回の逸話は作り話で、黄忠は劉備に仕えるまでは何者でもなく、地位も名声もなく、劉表に仕え、曹操に仕え、劉備に仕えても人からどうこう言われるような立場ではなかったのです。
そして初老になって劉備に仕え、初めてその才能を振うことが出来て、歴史に名を遺したのです。劉備が蜀を取り、漢中をとり、大きく勢力を伸ばすその丁度よい場面に巡りあい、本人の能力もあって大きな功績を挙げたと言えましょう。

もし、劉表あるいは曹操にそんな必要もないのに義理立てしていたら、死ぬか、あるいは一生芽のでないままだったのではないでしょうか。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2013年10月13日日曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 黄忠(3)



三国志演義では定軍山で夏侯淵を斬り大勝利を得る話に前段がついています。第七十回「猛き張飛 智もて瓦口(ガコウ)の隘(カン)と取り 老いし黄忠 計もて天蕩山(テントウサン)を奪う」の物語で、すでに大活躍の始まりです。ここでは魏の将軍張郃が張飛や黄忠の引き立て役になります。

張飛がまず張郃の軍をさんざんに打ち破り瓦口關(ガコウカン)を取ります。張郃は自分から張飛をやっつけると言って出かけてボロ負けになったので、総大将の曹洪にひどく怒られますが、殺されずに済み、葭萌關(カボウカン)の攻撃に向かわさせられます。

このとき、この攻撃の相手をするのは黄忠と、黄忠に副将として付けられた厳顔です。張郃の軍とぶつかってこれを打ち破ります。曹洪はまた負けたのかと怒り、張郃を処罰しようとしますが、諌めるものがあって、夏侯尚、韓浩(黄忠(1)に出てきた韓玄の弟)に張郃の助力兼見張りをさせることにします。ところが、この張郃、夏侯尚、韓浩の軍は黄忠にボロ負けし、兵糧飼料を蓄えている天蕩山(テントウサン)を守っている夏侯徳のところに行きます。張郃はそこで固く守り黄忠の進撃を食い止めようと提案します。しかし急追撃して来た黄忠を韓浩は迎え撃ち、黄忠に斬られます。さらに夏侯徳も搦め手から攻め寄せた厳顔に斬り捨てられます。
仕方なく張郃と夏侯尚は天蕩山を放棄して夏侯淵の守る定軍山に逃げます。

ここで法正が劉備に、今が漢中を奪取する絶好の機会で、漢中をとれば進んでは兵を養い天下を窺うことも、退いては守るにも好適であると説きます。

この漢中攻略という戦略的に重要な戦いに劉備はみずから、兵十万を率いて漢中に向かい。葭萌關に至ります。定軍山が戦略的要衝でここを奪う必要がありますが、ここでまたしても黄忠が選抜されます。

この時、諸葛亮が口を挟みます。定軍山を守る夏侯淵はすぐれた将軍で、荊州へ関羽にでてもらうべきと言い出します。そこで黄忠は年寄り扱いされたと起こります。諸葛亮は法正を付けるから相談してやってほしい、と言い黄忠に承知させます。

あとで諸葛亮は劉備に説明します。すなわち
「孔明告玄德曰、    
『此老將不着言語激他、雖去不能成功。他今去、須撥人馬前去接應。』」
です。
“あの老将軍には強く言ってやらないと大功を立てませんからな。出かけたからには、早速加勢をおくらなければなりません。”
ということです。加勢をおくれ、というのはよいですが、演義の話の中で黄忠が敵を侮って失敗したとか、年の所為で息が切れてだめだったとか一切ないのですから、“強く言ってやる必要”がなぜあるのかは納得できない話です。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2013年10月6日日曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 黄忠(2)



しかし、それからあとの黄忠は大活躍をします。益州を劉備が取るときの黄忠は正史によれば
自葭萌受任、還攻劉璋。忠、常先登陷陳、勇毅冠三軍。」
とあります。井波さんの訳では、
“葭萌(カボウ;地名)より任を受けて、引き返して劉璋を攻撃した。黄忠は常に真っ先駆けて陣地を落とし、その勇敢さは三軍の筆頭であった。”
です。
このあたりの正史の記述に対応するのは、三国志演義では第六十二回「涪関を取りて、楊・高首を授(ワタ)し、雒城(ラクジョウ)を攻めて黄・魏功を争う」から、第六十三回、第六十五回にわたって述べられています。

第六十二回では、黄忠は魏延がそれぞれ鄧賢、冷苞と戦い、どちらが先に相手を破るかの競争になります。魏延が黄忠の軍の出発時間をこっそりしらべ、黄忠よりも早く出発し、まず冷苞を打ち破り、その上で鄧賢を打ち破ってすべて自分の手柄にしようとします。しかし、冷苞は手筈を整えて待ち伏せし、その上に鄧賢に挟み撃ちされます。危なかったところをあとから来た黄忠に助けられます。この時鄧賢は黄忠に殺されますが、冷苞はのがれます。しかし魏延の待ち伏せに遇って捕えられます。これは最初の失態で軍令違反の罪は逃れられないと考えた魏延が残兵をかき集めて、冷苞をとらえて申し訳にしようとしたものです。

第六十三回の雒城攻略の際も魏延が前後から挟まれた時に、黄忠が助けます。
更に第六十五回で黄忠は李厳と激しく戦います。

しかし何と言っても彼の最も華々しい手柄は定軍山で夏侯淵を斬ったところです。正史によれば
建安二十四年於漢中定軍山、擊夏侯淵。淵衆甚精、忠推鋒必進、勸率士卒、金鼓振天、歡聲動谷、一戰斬淵、淵軍大敗。」
です。井波訳によれば、
”建安二十四年、漢中の定軍山において夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精悍であったが、黄忠は鉾を突きたて、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鐘と太鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かすほどで、一度の戦闘で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗北を喫した。”
となっています。この戦いは戦略的に重要な意味をもち、これに勝利することにより劉備は漢中を手に入れ、漢中王になることができるのです。よって黄忠は非常な大手柄を立てたことになります。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2013年10月2日水曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 黄忠(1)



魯迅の「風波」という短編小説に酒場の主人で、清末の混乱にすっかり世の中が嫌になった遺老的雰囲気の趙七爺(チャオチーイエ)という男が出てきます。この小説によれば、彼は金聖歎(この歎の字を魯迅は使っています。)批評本の「三国志」を読んでいて、黄忠の字が漢升であり、馬超の字が孟起であることまで知っている、と紹介されます。
してみれば黄忠や馬超の字はさほどにはポピュラーではなく、彼ら二人は関羽、張飛、趙雲に比べてマイナーな存在なのでしょうね。

因みに現在の翻訳の三国志(演義)の原本の最終形は、毛宗崗が批評を加えた毛本というものらしいですが、現在出回っているものは、これに金聖嘆(こちらの嘆が本当らしい)の序がくっついているそうです。しかしその序は本を権威づけて売るための、全くの贋作だというのが定説です。三国志演義について独立の金聖嘆批評本というのも聞きませんので、魯迅の「風波」で趙七爺が読んでいるのは、多分この金聖嘆の贋作序文つきなのでしょう。

それはとにかくとして、三国志演義では黄忠は第五十三回に初めて登場します。劉備が赤壁の戦いの収穫として荊州攻略を始めます。この時、長沙には太守の韓玄がいたのですが、長沙攻略を関羽が担当することになります。
そしてこの韓玄の部下として黄忠がいたのです。
なお、韓玄は短気でやたらと人を殺すので誰からも恨まれていたことになっています。

三国志演義では大将の強さは個人的武勇で表現されますので、関羽は黄忠と切り結ぶことになります。しかし、勝負がつきません。そこで関羽は、翌日は逃げるふりをして追いかけてくるところを後ろに払ってやろうと考えます。そして翌日逃げるのですが、振り向きざまに切ろうとしたところ、黄忠の馬が前足をつかえて、黄忠が馬から投げ出されたのでした。この時、関羽は黄忠に、ここは見逃してやる、といって斬りませんでした。見逃された黄忠は、その翌日の戦いの時には弓をつかいますが、二度空引きをし、三度目に油断していた関羽の兜の緒を射抜きます。ここで関羽は初めて、黄忠が昨日の恩義に報いてくれたと気づきます。
ところが韓玄はこれを見ていて、黄忠は裏切り者と思い込み、首を斬らせようとします。あわや処刑、というところで、韓玄のところに身を寄せていたが、韓玄に重く用いられていなかった魏延が叛乱を起こし、黄忠を助け、韓玄を斬ります。
これにより黄忠は劉表に属するようになります。

正史ではどうでしょうか。荊州の劉表は黄忠を中郎将に任じ、劉表の甥の劉磐と共に長沙の攸県を守らせます。曹操が荊州を取ると、黄忠を仮に裨将軍とし、もとの任務につけ、長沙太守韓玄の下に置きました。裨将軍は中郎将より上ですが、将軍の中で最下位のものです。劉備が荊州の南方の諸郡を平定すると黄忠は臣下の礼をとり、付き従って蜀に入国した、とあります。
黄忠は特段の抵抗をせず降参し、劉備の臣下となり、劉備の蜀攻略に従ったのです。もっともその地位からして、郡の態度についてどうこう言える立場でもなく、また郡に対してもそんな義理もなかったのでしょう。つまり黄忠はここまでは何者でもなかったに等しいのです。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村