2014年1月26日日曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(7)



高貴郷公の死に関して、気の毒な、あるいは馬鹿な目にあって一族皆殺しにされた人と、中途半端で愚かしい行動の結果、一族皆殺しにされた人がいます。

前者は成倅(セイ・サイ)、成齊(セイ・セイ)の兄弟であり、後者は王經(オウ・ケイ)です。

皇帝(高貴郷公)は実権がなく、いずれ退位させられそうな境遇に不満を抱き、準備もせぬまま数百人の下僕を率いて司馬昭を誅殺しようと討ってでます。司馬文王(司馬昭)の弟の司馬伷(シバ・チュウ)の部隊は帝の供回りのものに叱りつけられて四散し、ついで中護軍の賈充の部隊とぶつかります。「漢晋春秋」によれば次のようになっています。

「帝自用劍。衆欲退、太子舍人成濟問充曰「事急矣。當云何?」充曰「畜養汝等、正謂今日。今日之事、無所問也。」濟卽前刺帝、刃出於背。」

井波さんの訳によれば次のようになっています。
“帝みずから剣をふるって立ち向かった。軍勢が退却しようとしたため、太子舎人の成齊が賈充に「事態は切迫しております。どうしたらよいでしょう。」と言った。賈充は答えた、「お前たちに食い扶持を与えてきたのは、まさしく今日のためである。今日のことは、[あとから]問題にしはしない。」成齊はすぐに進みでて帝を刺殺した。その刃は背中までつき出た。”

ここでは成齊(成倅、成齊兄弟の弟の方)は賈充の指示を仰いだ上で、帝を刺殺したのです。
「晋紀」(干寶の書)、あるいは「魏氏春秋」でも同様の話になっています。

「魏末伝」の内容は以下のようになっています。
“賈充は帳下督成齊をそばへ呼んでいった、「司馬家がもし敗北しならばお前たちはいったい血すじが残るとでも思っているのか。どうして撃って出ないのか。」そこで成倅兄弟二人は部下をひきいて出撃し、後ろをふりかえっていった。「殺すべきですか、生け捕りにすべきですか。」賈充、「殺せ。」合戦がはじまると帝が「武器をすてろ」といい、大将軍(司馬文王)の将兵はみな武器をすてた。成齊兄弟はそのままつき進み帝を刺したところ、帝は車の下へ転がり落ちた。”

大体このような経緯ですが、そのあとで帝を殺害したのが反逆だ、という話になります。常識的に考えれば、これで誰かを処罰するなら賈充です。しかしそうはなりませんでした。

事件は五月七日に起こったのですが、二十六日に司馬文王(司馬昭)が次のような言上をします。
高貴郷公は供回りの兵士をつれて私(司馬昭)の所へ向かってきました。・・・騎督の成倅の弟である太子舎人の成齊が勝手に軍陣に突入して高貴郷公を傷つけ、ついに生命を奪うにいたったのです。・・・実際[私は高貴郷公に]身をゆだね死を覚悟し、ひたすらご裁断のままに従うつもりでした。・・・
と白々しいことを言っています。ではなぜ結局高貴郷公は悪者かというと、皇太后を傷つけ宗廟を転覆させようとしたのがわるい、という理屈になります。そして司馬文王のこの言上の最後の部分は次のようになっています。
「科律大逆無道、父母妻子同皆斬。濟凶戾悖逆、干國亂紀、罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬、付廷尉、結正其罪。」
“刑法の定めるところでは、大逆無道を行ったものに対して、その父母、妻子、兄弟姉妹をことごとく斬殺に処することになっております。成齊は凶悪非道な反逆者であり、国を乱し掟を犯した罪は誅殺をまぬがれません。即刻侍御史に命じ成齊の一族を逮捕させ、廷尉にひきわたして、その罪を裁かれますように。”
という始末です。

この件で賈充を斬れば、おそらくは司馬氏についている人間の司馬氏への信頼を危うくします。
と言って司馬昭が臣下の状態のままでは帝が死ぬことになったのを誰も処罰せず放置はできません。成齊たちはその結果トカゲの尻尾になったようです。






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2014年1月11日土曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(6)



曹芳の話を書いたついでに次に皇帝に据えられた高貴郷公(曹髦)について見てみます。彼は文帝(曹丕)の孫です。
正史の記録では曹髦は正始五年(244年)に高貴郷公に封ぜられ、嘉平六年(254年)十月に呼び出されて廃帝(曹芳)に代わって新皇帝として即位します。そして改元して正元元年とします。
しかし、もはや前皇帝曹芳(皇帝の称号はない)が廃されたところで、曹家は倒れ掛かっていました。潰れかけた会社を引き継いだようなものです。

「癸巳假大將軍司馬景王、黃鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。」
とあります。井波さんの訳によれば
“癸巳の日(10月8日)、大将軍司馬景王(司馬師)に黄金の鉞(まさかり)を貸し与え、参内のさいには小走りに走らず、上奏するさいは名前を称さず、剣をたばさんだまま上殿してよい、とした。”
です。すでに司馬師が圧倒的な力を持っていました。司馬師は正元二年二月に亡くなりますが、あとを継いだ司馬文王(司馬昭)もなかなかのやり手です。

甘露元年(256年)に次の記事があります。
「夏四月庚戌、賜大將軍司馬文王兗冕之服、赤舄副焉」
“大将軍の司馬文王に兗冕の服(天子が着用するきもの)を賜り、赤い靴をこれに添えた。”
ということです。とうとう着るものまで天子なみになって来たのです。

そして正元五年(260)には次の記述があります。
「五年春正月朔、日有蝕之。夏四月詔有司、率遵前命、復進大將軍司馬文王位爲相國封晉公加九錫。」
“正元五年春正月朔日、日食がおこった。夏四月、当該官庁に詔勅を下して先に出した命令を実施させ、ふたたび大将軍司馬文王の位を引きあげて相国とし、晋公に封じて、九錫の礼を加えた。”
ということですから、司馬昭はこのころもう天子と肩を並べるくらい偉くなっている訳です。

そのあと唐突に以下の記述があります。
「五月己丑、高貴公卒、年二十。」
即ち
“五月の己丑の日(7日)高貴郷公が亡くなった。享年二十。”
正史ではその後には‘皇太后令曰’とあって、皇太后が、高貴郷公は親に逆らい、殺そうとし、大将軍(司馬昭)を殺そうと兵を起こしころされた。平民の礼式埋葬するのが妥当だ、と宣言しています。

高貴郷公は助ける者もないまま一人で怒りにまかせ、少人数で司馬昭誅殺の兵を起こし、失敗して殺されたのです。
無為無策で流れに任せてだらしなく退位させられた曹芳とは異なり、高貴郷公は自分の意思で曹家の挽回を試みた訳です。





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2014年1月5日日曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(5)



嘉平六年二月の二月の李豊達の事件のあと、秋九月に大将軍の司馬景王(司馬師)が帝の廃位を計画し、皇太后にその旨申し上げました。皇太后はこれに逆らうことは出来ず、皇太后は甲戌の日(十九日)は以下の命令を下します。
「皇帝芳春秋已長、不親萬機、耽淫寵、沈漫女德、日延倡優、縱其醜謔。迎六宮家人留止房、毀人倫之敍、亂男女之節。恭孝日虧、悖慠滋甚、不可以承天緒、奉宗廟。…」
井波さんの訳によれば、
“皇帝芳はすでに成年に達しているのに、政治にたずさわらず、気に入りの婦人に耽溺して、女色に沈淪し、毎日毎日役者を引き入れ、醜悪な戯れをほしいままにしている。後宮の女たちの縁戚の婦人を迎えて、内殿に留め置き、人のふみ行うべき秩序をうちこわし男女の節度を乱している。孝養と恭順は日々に失われ、道理にもとる傲慢さはますますはなはだしくなってきている。これでは、天の命じたもうた大業を受け継ぎ先祖の霊廟をいただいていくことは不可能である。
という前置きのもとに、
「遣芳歸藩于齊、以避皇位。」
すなわち
“芳を斉に帰藩させて、皇位にいることをひかえさせる。”
と指示します。曹芳は皇帝を廃位され、斉の国に帰らされるわけです。

かくて曹芳は○○帝と呼ばれる事はなく、斉王と呼ばれるだけになります。
「魏書」によれば、この皇太后の命令書を受けて、今度は群臣が帝の女に関する醜行愚行を具体例をもって数え上げ、曹芳はとても皇帝としていただけないから退位させるべきです、という上奏文が出され、これが受け入れられます。曹芳は政治のことは何もせず、女と淫蕩な遊びに耽っていただけのように決めつけられて終わったわけです。情けない退位です。


裴松之が信用できないとして却下している話ですが、司馬景王(司馬師)が廃位を決意した直接原因となるエピソードが「世語」と「魏氏春秋」にあります。司馬文王(司馬昭)が姜維征伐のため、許昌から都に召還されます。この時、許允と側臣の小者たちは司馬文王(司馬昭)があいさつに来るのに事よせて、かれを殺害し、さらに兄の司馬景王(司馬師)を追放しようと企んだのです。そしてすでに詔勅を御前で書き上げておきました。司馬文王が参内して来た時、帝は丁度栗を食べていたところだったのですが、その場面は以下のように書かれています。
「優人雲午等唱曰「青頭雞、青頭雞。」青頭雞者、鴨也。帝懼不敢發。文王引兵入城、景王因是謀廢帝。」
すなわち
“役者の雲午らが、「青い頭の鶏、青い頭の鶏」と歌った。青い頭の鶏とは鴨のことである。帝はおじけづき。思い切って事をおこそうとはしなかった。司馬文王は兵をひきいて入城した。司馬景王はこれが原因で、帝の廃位を計ったのである。”
となっています。ここで鴨の音が押に通じていて、それは司馬文王を殺害する詔勅に玉璽を押すことを要請していた、とのことでした。そして曹芳は最後には怖がって何もしなかったのです。

かりにこのエピソードが本当だったとしても皇帝は意気地がなくて、司馬氏と戦おうなどという気概はありません。

曹氏をないがしろにする司馬氏をうらんで、これを滅ぼそうとして、忠臣に詔勅をだし、却って忠臣が難にあう、という因果応報の形にはどうしてもなりません。
 





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