2014年3月26日水曜日

三国志 三国志演義、抱朴子 禰衡(5)



葛洪(284-363)は晋代の人です。父の葛悌の代に呉が滅び、父は晋に使えて地方官になっています。しかし幼いころその父が亡くなってしまい、葛洪は貧しい中で苦労して勉強したそうです。彼の代表著作である「抱朴子」は内篇と外篇に分かれていて内篇が道家、外篇が儒家に属するという書物です。
その外篇の巻四十七が弾禰(禰衡を弾劾する)となっています。

その中でまず、禰衡の驚異的能力が描かれています。

孔融が彼の才知にすっかり感心して推薦文を書いたのはすでに述べた通りです。議論をさせても、文章を書かせても優れていたのでしょう。

曹操が禰衡を太鼓敲きに任じたとき、前にも書きましたが彼は大変に上手に打ちました。漁陽参撾(ぎょようさんか)と言われる打法でした。一座のものはみな感動したそうです。その上、葛洪の記述によれば、柱に角笛をくくりつけて口をつけて吹いたと言います。彼は多芸の人だったようです。

後に禰衡は劉表のところへ行きました。そのころ劉表は孫権に手紙をやって曹操を撃たせたいと考えていました。ところが部下の孫権あての手紙の草案がどれもこれも劉表の気持ちに合わなかったのです。劉表はその草稿を禰衡に見せました。そうしたら禰衡はこんなのを張昭(孫権の配下の将軍、知識人)に見られたら恥さらしだとして、破いて投げ捨てたそうです。
劉表が草稿がもったいないのでむっとしたら、禰衡は直ちに紙と筆を貰い、もとの原稿十通あまりを再現したそうです。草稿を提出した者の中には清書の前の下書きを残していた者もいたのですが、一字の誤りもなかったそうです。すなわち、彼は一度目を通しただけですべて暗記してしまっていたのです。
超人的な記憶力です。

劉表は改めて禰衡に手紙を書かせてみました。禰衡は即座に書きはじめ、手を休めることなく手紙を仕上げました。劉表はこの文が大いに気に入り、これを採用しました。
これにより禰衡の文章力が相当すぐれていたことが推察されます。

しかし葛洪は、合わせて禰衡が傲慢不遜でみんなから憎まれたことも記しています。そして禰衡は内心出世を願っていたので田舎に隠れておれず、貴人の社会に出てきたが、人格破綻者で、人の気に障る振る舞いばかりやって身の破滅を招いたと説明しています。
当時の許都は人物の集まるところであり、孔融はその頭であったので、その孔融に認められればこれ以上の居場所はないと思われる。そこで出世できないならどこへいっても駄目、と評価します。

禰衡は栄達を望んでいたが、栄達はできない人間だった、栄達できる能力があったのに使ってもらえなかったという訳ではない、というのが葛洪の結論です。
つまり、 世間が間違えただけ、中身のない人間を持ち上げていたに過ぎない、というのです。

この、葛洪の禰衡観は、私には最終的に納得のいく禰衡の説明でした。

わざわざ葛洪は自著の一章を禰衡の批判に充てた位ですから、葛洪の時代でも禰衡の名は聞こえ、偉いと思っている人々が少なからずいた筈です。
私とても長いこと禰衡に何の意味があるのかわからないが、三国志演義でも出て来るし、正史の註にも言及されるし、何か意味があるかも知れないという思いがかすかにありました。でも何もなかったのです。

この章の末尾に付けたしがあります。
「嵇生曰:「吾所惑者,衡之虛名也;子所論者,衡之實病也。……
と突然に嵇なる人が出てきます。本田済さんの訳によれば
嵇君が言った、「わたしは禰衡の虚名に目が眩んでいました。あなたのおっしゃったことは禰衡の本当の欠点をついています。……
ということです。嵇君は私でもありました。





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2014年3月21日金曜日

三国志 三国志演義、抱朴子 禰衡(4)



禰衡はばかげた死に方をしましたが、彼は彼を推薦した孔融の処断の口実にもなりました。孔融はつまらない男に関わって禍を招いたのです。

孔融を弾劾したのは路粋というものです。彼は当時文名がありました。
「典略」によれば
「及孔融有過、太祖使粹爲奏、承指數致融罪、」
とあります。今鷹真さんの訳によれば
“孔融に過失があったときに、太祖は路粋に上奏文を作らせた。[路粋は]太祖の意向を受けて孔融を責め、罪に陥れた。”
ということです。太祖は孔融を殺そうと思ったから、文章力のある路粋に弾劾文を作らせたのです。曹操は昔の同輩として不遜な振る舞いの多かった孔融が気に入らなかったので、おそらくは理由はなんでもよかったのです。
路粋の上奏文の中には
「又與白衣禰衡言論放蕩、衡與融更相贊揚。衡謂融曰『仲尼不死也。』融答曰『顏淵復生。』」
という文言があります。
今鷹さんの訳によれば
“白衣(平民)の禰衡と思いのままふるまいしゃべり、禰衡と孔融は互いに賛美称揚しあっておりました。禰衡は孔融に向かって「仲尼は死んでいない。」というと、孔融は「顔淵が生き返った」と答えました。”

ここで禰衡が出てきます。しかし、お互い勝手に褒めあっているだけで、これでは殺す理由にはならないだろうと思いますが、孔融が死んだあとの布告があり、もう少し踏み込んだことがかかれています。布告は孔融が名声があったので、刑死を不憫に思う人が多かったから出されたとのことです。

「魏氏春秋」によれば布告文には
……此州人平原禰衡受傳融論、以爲父母與人無親、譬若缻器、寄盛其中、又言若遭饑饉、而父不肖、寧贍活餘人。融違天反道、敗倫亂理、雖肆市朝、猶恨其晚
という内容があるようです。今鷹さんの訳によれば
彼と同じ州の者が述べていることだが、平原の禰衡は孔融の論説を伝授しているという。彼は父母が子と関係ないのは、たとえてみれば[水と]水がめのようなもので、[子は産まれる前]かりにその中に入っているのだと主張し、またもし飢饉にあった時、父親がくだらない人間ならば、むしろ他の人間を助けて活かせと申している。孔融は天に逆らい道に背き、人倫をそこない道理を乱した。市場に屍をさらしたものの、なおその遅すぎたことを残念に思っている。
ということです。

孔融は禰衡と仲良くなって、くだらない議論で時間を費やし、殺される口実の一つにされてしまったのです。

こんな議論が史書に残るのですから、禰衡もそれなりに才人と目されていたのでしょうか。この男についてもっとわかりやすい議論が葛洪の抱朴子にあります。





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2014年3月3日月曜日

三国志 三国志演義、抱朴子 禰衡(3)

正史では劉表へ降伏勧告の使いの人選で禰衡が挙がって来た、などという話はありません。
魏書 荀彧荀攸賈詡伝 第十の荀彧伝の註の中に引用されている禰衡は「平原禰衡伝」なる伝を引用して語られます。
孔融(2)のところでも書きましたが
「衡字正平、建安初、自荊州北游許都、恃才傲逸、臧否過差、見不如己者不與語、人皆以是憎之。」
という有様です。井波さんと今鷹さんの訳によれば
“禰衡は字を正平という。建安の初年、荊州から北方許都に出向いたが、才能を鼻にかけて傲慢、他人への批判は度をこし、自分に及ばないものとは口をきかなかった。このため人々はみな彼に憎しみを持った。”
 というのです。これではこの男の将来は前途多難です。

 そしてこれに続く文は、
 「唯少府孔融高貴其才、上書薦之曰……」
です。
 “ただ少府の孔融だけは、彼の才能を高く買い、上書して彼を推薦し…”
 ということです。これが禰衡(1)、あるいは孔融(1)でも触れた「禰衡を薦(すすむ)る表」で歴史に残る名文な訳です。孔融は歴史に残る名文を書いて禰衡を推薦したわけです。

 禰衡が認めているのが孔融と楊修だけで、その他をみんな馬鹿呼ばわりして威張っているのですから人からよく思われる訳はありません。 「平原禰衡伝」によれば、禰衡自身がみんなから憎まれていることを知り、自ら荊州へ行こうとするのですが、これには不思議な話がくっついています。
人々は送別会を開いてやったが、みんなは先に席につき、禰衡が日頃無礼をはたらいていたので、彼が遅れてきたときに席を立たないようにしようと決め、彼が来ても立たなかったのです。
これに対して禰衡は泣き叫びます。理由を聞かれると
「行屍柩之間、能不悲乎?」
すなわち
 “屍体と棺桶の間を通るのだから、悲しまずにいられようか。”
 と言ったそうです。

しかしそんな気に入らない男のために金と時間をかけて送別会を開いて、お互い不愉快でまずい酒を飲むなんて馬鹿げていますね。
 さりながら送別会をやるというからには、やはりそれなりの文名があったのでしょうか?今に伝わっている私の知る禰衡の文は 「鸚鵡賦」だけです。

 正史の裴松之註では張衡の「文士伝」も引用され、禰衡が劉表の所へ行くに至った別の話がかかれています。
この中では曹操はまず禰衡を侮辱しようとして、鼓を打つ小役人に任命したことになっています。
そのあとの話は三国志演義とほぼ同じです。大変に上手に太鼓を撃ったことと、曹操の前で裸になって着替えたことがかかれています。
 この後、孔融は禰衡を責めなじって、なんとまた曹操と会見させようとします。そして禰衡はまた曹操のところに行くことにします。一方孔融の方は予め曹操に面会し、禰衡がお目にかかりたいと申しております、と伝えます。
 ここのあたりの孔融の感覚は理解しがたいものです。これ以上禰衡を曹操と会わせてもよいことはないと判断し、禰衡とは縁切り、というのが普通の人の対応でしょう。どうみても関わりあいになってよいことはなさそうです。

 曹操の所へ出掛けた禰衡は馬鹿なことに曹操の営門の外に座り込んで、杖で地面を叩きながら曹操を罵倒したということです。これで禰衡のどこが偉いのかわかりません。どうみても心の病におかされた人です。 この騒ぎで曹操が怒って兵をつけて劉表のところへ連れて行かせたというのがその別の説明です。




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