2015年11月30日月曜日

史記 呂后本紀 第九(9)



その後も史記には呂后は呂氏の便宜を図るような人事をいろいろやります。大臣が進言したとかいう登用もある訳ですが、所詮は呂后の意を察して出した呂后の望む案で、大臣のゴマすりであり保身であります。

しかし人はいずれ寿命が来ます。呂后の病が篤くなったころ、趙王呂禄(呂后の弟だと思うのですが)が上将軍として北軍を統べさせ、呂王呂産(呂后の兄の呂周の孫)に南軍を統べさせていました。呂后が彼らにいうには
「高帝已定天下,與大臣約,曰『非劉氏王者,天下共擊之』。今呂氏王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐為變。必據兵衛宮,慎毋送喪,毋為人所制。」
です。野口さんの訳によれば、
“高帝がさきに天下を平定されたとき、大臣たちと「劉氏以外のものが王となったら天下は協力してこれを撃て」と盟約なさいました。いま呂氏が王となっていますが、大臣たちは心中平らかではありません。わたしがもし死んだら、帝は年少のことですし、大臣たちはおそらく変乱を起こすでしょう。そなたらは、必ず軍隊を掌握して宮廷を衛り、わたしの喪送にかまけて人に制せられることのないように慎みなさい。”
ということです。
現実を直視した卓見の様にも見えます。前回に書いた劉澤も諸般の事情によりまだ片づけられなかった一人で、そのほかにもまだまだ潜在的敵が残っていますから。

しかしこの時の呂后の立場や考え方からすれば;
呂氏を劉氏を凌いで繫栄させたい。→劉氏の天下を奪う必要がある→これには呂氏以外は敵に回るだろう→だから呂氏以外は全部片づけたかった→しかし寿命の関係で間に合わなかった→あとは呂禄、呂産がしっかりしろ
ということになります。共存、即ち名門臣下としての繫栄、という選択肢がない方向で進んでしまいました。大臣たちはみんな敵と見做さないといけないのです。
ところで中国の王朝で盛んになった外戚がみんなこんな抜き差しならない状況になるとは限りません。“自分の親族以外はみんな敵”という路線にはまり込んでいったのは呂氏自身の責任であるということです。
あとはその路線を支えるだけの度胸と能力がある跡継ぎが出るかです。だめなら一族滅亡となります。だから危機感をもって呂禄、呂産に遺言した訳でしょう。

では呂后は真の意味の卓見をもっていたのでしょうか。そうではなくて単に了見の狭い残酷な性格な人が、大きな権力を握ってすきなようにやって最終的に呂禄、呂産への遺言のような見解にいたっただけで、偉くもなんともないのではないかと思います。

司馬遷は恵帝、呂后の時代は君臣は無為の治世で休息したいと望んだ。それにあわせて天下は安泰であった。と好意的な言い方をしています。
天下は安泰であったとしてもそれは呂后の手柄ではありません。高祖劉邦とあとを継いだ大臣たちのお蔭だったのではないでしょうか。





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2015年11月23日月曜日

史記 呂后本紀 第九(8)



呂后はちゃくちゃくと呂氏一族の勢力を伸ばしていきます。具体的には以下の話が出てきます。
魯元公主(呂后の娘)の子供→魯王
悼恵王の子の章→朱虚侯(呂禄の娘を妻とする。)
呂禄(呂后の次兄呂釋之の子)→胡陵侯
呂台(呂后の長兄呂澤の子、酈侯)→呂王
呂台の死後太子の嘉→呂王
(呂后の妹、樊噲の妻)→臨光侯(女性で初めての侯)
その他にも呂種、呂平、呂他、呂更始、呂忿とか何だかわからない呂氏がぞろぞろと侯に昇格します。

趙王の友(ユウ)のような哀れな例が出てきます。彼は呂氏一族の娘を后にしていましたが、この押し付け后は好きではなく、他の婦人を愛していました。そこで呂氏の女はおこって趙を去り、太后に讒言します。夫である趙王は以下のように言った、というのです。
「呂氏安得王!太后百後,吾必擊之」
“呂氏がどうして王になり得るのか。太后が百歳を超えたら、必ずおれが撃ってやる。”
ここで、野口さんの訳では“太后が死んだら”とあります。「太后百後」というのは死んだら、の意味なのか、あるいは違うテキストを使ったのかわかりません。

軽率かも知れませんが、何かの腹たち紛れに趙王は奥方にそういったのかも知れませんね。しかし奥方も夫の言葉をそのまま呂后に伝えたとは恐ろしいですね。呂后にそんなこと言えば夫の死は避けられないこと位はさすがに分かっていた筈です。
趙王友は都に召還され、都の邸に幽閉されたまま食事を与えられず、餓死させられます。

その結果趙王が空席になり、梁王劉恢(高祖と諸姫の間の子)を趙王とし、呂王の産を梁王とします。たしか前には呂台を呂王としたように書かれて、上にそのようにかきました。また呂台の死後は太子の嘉が呂王になったと書いてあります。
一方、呂后本紀の初めの方で呂台の子供として呂産が挙がっており、交侯としたとあります。何がどうなっているのか素人がざっと読んだだけではわかりませんね。

この新しく趙王となった劉恢の運命も似たようなものになります。呂后に呂産の娘を后として押し付けられ、その呂産の娘の従者はみな呂氏で趙王の監視役、という有様。劉恢が本当に寵愛した婦人は呂后により毒殺され、劉恢自身も前途を悲観して自殺するという体たらくです。どうも策もなく気の弱い男のようです。劉恢の家は呂后により廃絶となります。

さて(呂后の妹、樊噲の妻)に娘がおり、営陵侯の劉澤の妻になっていました。史記の記述によれば
「澤為大將軍。太后王諸呂,恐即崩後劉將軍為害,乃以劉澤為瑯邪王,以慰其心。」
つまり
“澤は大将軍となった。(野口さんの訳だと"大将軍であった。"です。)太后は諸々の呂氏を王にしたが、自分が死んだあとで劉将軍が、これらの人に危害を与えることを恐れ、劉澤を瑯邪王としてその心を慰めた。”
となっています。呂后の権勢をもってすれば、後難をきたすおそれありと思うなら、罪をなすりつけて大将軍からひきずりおろして殺してしまえばよさそうに見えるのですが、なぜかこのようなことをしています。



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2015年8月31日月曜日

史記 呂后本紀 第九(7)



呂后は着々と呂氏の勢力を伸ばします。そして建国の重臣たちの保身も呂后の専権を助けます。

恵帝が死んだとき、張良の子供である張辟彊が陳平に説きます。「恵帝が死んだとき、呂后は泣くことは泣かれましたが、悲しんではおられません。恵帝には成人した子供(=後継者)がなく、呂后は大臣が権力を専らにするのではないかと恐れているからです。今、呂台、呂産、呂禄らを将軍に任命し、南北軍におらせ、呂氏一族が皆宮中にはいって政務にたずさわるようにと請願されませ。そうすれば太后は安心され、あなた方(重臣たち)は禍を逃れることができましょう。」
この策は呂氏一族の専横を招くもとです。バカだったら権力をにぎれば国家の運営に支障をきたすし、能力があったら簒奪者になる可能性があります。陳平たちのやったことはほんの目の先の保身だけです。一旦権力を呂氏一門に持たれてしまったら、彼らのうちの誰かに嫌われたらそこでもまた命が危なくなります。
それでも目の先の危険を避けて陳平は張辟彊の献策を容れます。

さらに呂后は呂氏一族のものを立てて王にしようとします。この時も王陵という者が逆らったにもかかわらず、陳平、周勃は賛成して通してしまいます。王陵が陳平、周勃を詰ると、彼らは次のセリフを吐きます。
「於今面折廷爭,臣不如君;夫全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」
野口定男さんの訳にしたがえば
“現在面と向かって欠点を指摘し、朝廷において諌争する点では、臣らは君に及ばない。だが、漢の社稷を全うし劉氏の子孫を安定させる点においては、君は臣らにおよばない。”
このセリフが吐かれた時点での見通しはどうだったのでしょう。“自分達が粛清されなければ、いずれ呂后は死ぬし、呂氏のその他の有象無象は有能ではないから呂氏を打倒して劉氏を盛り返すことができる。”ということでしょうか?こう書けば、実際陳平たちは後日呂后の死後に呂氏を滅ぼしてしまうので、それなりのしっかりした見識と見えないこともないです。
しかし、現実問題としては一寸先のことさえ分かりません。呂氏が一段と力をつけ、有能で危険な陳平や周勃を先に殺してしまうかも知れません。呂后が生きているうちでも、早いうちに決戦にでて呂氏を滅ぼす策もあったのではないか、と思います。だけどそれが怖くて先送りし、呂后の死後運よく呂氏を滅ぼせたと取れないこともありません。

結局のところ呂氏の専横は、呂后と呂后を恐れる重臣たちの合作によりもたらされたものと思えてしまいます。

史記にしばしば出てくる、富と権力の階段の頂点を究めようとする人に、そんな栄耀栄華は却って一族皆殺しの危険を招きますよ、ほどほどにしておいた方が安全ですよ、という忠告をしてくれる人物が呂氏に対しては出てきません。
呂后はあまりにも怖い人で、誰もそんな進言ができなかったか、あるいは忠告する人はいたけれど呂后が聞き入れなかったのか




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2015年8月2日日曜日

史記 呂后本紀 第九(6)



恵帝は二十四歳でなすところなく亡くなったのはすでに書いた通りです。呂后はこのひ弱息子の早世は読んでいたのかもしれません。恵帝が死んでも自分の影響力を残せる跡継ぎを確保しておく必要があります。
ここから先は呂后の陰謀がどろどろしたものである結果(?)、記述もどろどろしたものになります。

呂后の娘で恵帝の姉である魯元公主の娘、即ち恵帝の姪を皇后に立てます。史記にはなぜか
「宣平侯女為孝惠皇后時,無子」
“宣平侯の女(ムスメ)が孝恵帝の皇后であった。子がなかったので。。。”
とかかれています。これだけ読んだのでは皇后の正体はわかりません。
しかし史記でその前の方を読むと
「魯元公主薨,賜謚為魯元太后。子偃為魯王。魯王父,宣平侯張敖也。」
“魯元公主が死んで、魯元太后と諡(オクリナ)を賜い、その子の偃(エン)を魯王とした。魯王の父は宣平侯の張敖(チョウゴウ)である。”
と書いてあるので、魯元公主の連れ合いが宣平侯張であることがわかります。よって“宣平侯の女”と書かれた女性は魯元公主の女(ムスメ)つまり姪だと分かるようにはなっています。

漢書高后紀(漢書での呂后の本紀です。)はもっと分かりやすく
「太后立帝姊魯元公主女為皇后,無子,
とあります。小竹武夫さんの訳によれば
“太后は帝の姉魯元公主の女(ムスメ)を皇后に立てたが、子がなかったので…”
となります。
自分の息子の恵帝に、自分の娘の娘である、恵帝にとっての姪をくっつけるとは随分強引だし、母の愛など感じませんね。
呂后は何がなんでも漢王朝の中で呂氏の血を濃くしたいようです。

ここまでで“子がなかったので”のあとを書きませんでした。
史記によれば、“いつわって妊娠したふりをして、後宮の美人(女官の位)の子を引き取って実子と称し、その母を殺してその子を立てて太子とした。孝恵帝が崩ずると太子が立って帝となった。”とあります。これもまた乱暴な話です。
因みに漢書では、子供を産んだ美人を殺したという記述が何故か省かれています。

この子供でっち上げ工作は、史記でも漢書でも魯元公主の娘が自分の立場の確立のために自発的にやったなどということではなく、呂后の差し金という話になっています。これだけのことをやる動機を考えると調達した子供が劉氏の子供ではなくて、呂氏に繋がる子供ではないか、という気がしてきます。

一方史記では、恵帝が女官に産ませた子として彊(淮陽王)、不義(常山王)、山(襄城侯)、朝(軹侯(シコウ))、武(壺関侯)が挙げられています。(ところがあとから否定の話も同じ呂后本紀の中で出てきます。)してみるととりあえず美人が生んだ子供の父は誰なんだということになります。もっとも呂氏が亡んだあとでは、恵帝の子とされる上記の王や侯達も恵帝の子供ではないとされます。これらもすべて呂氏の縁者だった疑いがあるわけです。

ところがなんでも自分の思う通りにいくものではなく、この美人が生んだ帝は、後宮の誰かから実母が殺されて皇后の息子にされた、ということを聞いてしまいます。大いに不満で、
我未壯,壯即為變」
わしはまだおとなになっていないが、おとなになったら変乱を起こしてやろう”
と言います。しかしこんなことを口にだすと、呂后にご注進する奴が出てくるに決まっています。話を聞いた呂后は心配になり、この帝を病気ということで幽閉し、その後廃位し、殺します。この帝は子供ですが、呂后は情け容赦はしません。
その結果、常山王の義(不義が死に、襄城侯の山が名前を義にかえて常山王になっていました。)をたてて帝とし、名を弘と改めさせます。そもそも殺された(美人が生んだ)帝が劉氏でないのなら、あとの帝である弘はとても劉氏とは思えませんね。
なお史記では確かに「常山王」とあります。しかし漢書ではこの王は恆山王と書かれています。しかし名前は弘で同一人物には間違いありません。






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