2015年1月26日月曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(2)


廉頗に代わった趙括は将軍としては凡庸だったのでしょう。(秦に、秦は趙括を恐れている、という噂を流されたくらい凡庸ぶりが知られていたのです。)趙軍は廉頗が堅守していたのをやめて、直ちに撃って出ます。秦は伏兵をおいて偽って敗走します。趙軍は追撃し、秦の塁壁に迫ります。秦軍は塁壁は堅守し、趙軍は突入できません。
ここで次のような事態となります。
而秦奇兵二萬五千人絶趙軍後,又一軍五千騎絶趙壁閒,趙軍分而為二,」
野口さんの訳では
”秦の伏兵の一手の二万五千人が趙軍の背後を断ち切り、また一手の五千騎が趙軍とその塁壁の間を遮断した”とあります。

趙軍を二分したのですから、分割されたのは、誘いだされて秦軍の塁壁に迫った趙軍と、塁壁に残った趙軍なのでしょう。
しかし、飛び出した趙軍の後を二万五千人の兵が遮断したとすれば、趙壁間を遮断した五千騎は何をしたのでしょう?野口さんは”趙軍とその塁壁の間を遮断”としておられますが、塁壁から飛び出した趙軍と、塁壁に残った趙軍の間ならすでに二万五千の兵で遮断したはずです。ここでは”趙軍”とは書いてなくて”趙壁間”なので、塁壁と趙国の間なのでしょうか。
それならば趙括率いた全軍が分割され秦軍に挟み撃ちになったことになります。

飛び出して孤立した趙軍はそこで塁壁を築いて頑張り、援軍を待ちます。一方秦王は自ら出馬して趙軍の援軍、糧食の補充を遮断します。孤立した趙軍は糧食が枯渇し、内部で互いに喰い合うしまつとなります。そこで遮二無二包囲脱出を図るも不成功で、大将の趙括も射殺されました。その結果、
「括軍敗,卒四十萬人降武安君(=白起)。」
となります。すなわち、趙括の軍は破れて四十万人の兵が白起に降伏したのです。文だけからはよくわかりませんが、塁壁に残ったのもまとめてみんな降伏したのでしょうか。
白起はまたも大手柄を立て、武将として勝れていることを示しました。しかしそのあとがすごいです。

「武安君計曰:「前秦已拔上黨,上黨民不樂為秦而歸趙。趙卒反覆。非盡殺之,恐為亂。」乃挾詐而盡阬殺之,遺其小者二百四十人歸趙。前後斬首虜四十五萬人。趙人大震。」
野口さんの訳によれば、
”武安君(白起)は考えた。「さきに秦は上党を攻略したのだ。ところが、上党の住民は秦の民となることを悦ばず、趙に帰属した。趙の士卒は反復常ない実情だから、ことごとく殺してしまわなければ、おそらくは反乱をおこすだろう。」そこで謀略にかけて、ことごとく阬(あなうめ)にしてこれを殺し、小児二百四十人だけをのこして趙に帰らせた。前後を通じて首を斬った者およびとりこにした者は、四十五万人であった。趙の人は震え恐れた。”
なぜか小者(野口さんの訳では小児)が出てきます。塁壁にいたのでしょうか?よくわかりません。

降伏した敵兵をみんな殺してしまったのです。これまでも彼は敵を破ったときに大量殺戮をやったことは前回に書いた通りです。
項羽や曹操もこの手の殺戮をやっていますから、古代では異常とも言えないのでしょうが、彼が追い詰められて自決するときに後悔の弁を述べているところをみると、古代人の彼もやはり気がとがめることをやっていた、ということでしょう。





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2015年1月18日日曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(1)


史記にはこじれた君臣関係の結果有能な臣下が命を落とす例がいくらもあります。
そして多くの場合、その陰に嫉妬して成功者の邪魔をしようとする人、人を讒言して陥れようとする人が立ちまわっています。

白起もそうした悲劇に見舞われた例です。とは言いながら古代人だから彼自身のやったことも乱暴です。秦の昭王に登用されてまもなくの大手柄が次の通りです。
「白起為左更,攻韓、魏於伊闕,斬首二十四萬,」
野口さんの訳によれば
”白起は左更になり韓、魏を伊闕(イケツ)に攻め、首を斬ること二十四万”
だそうです。その結果
「又虜其將公孫喜,拔五城。」
”また敵将公孫喜をとりこにし、五城市を抜いた。”
ということです。そのあとの将軍としての能力は素晴らしいもので、
韓の安邑(山西省)から乾河(山西省の河ですが、今はありません。)の地をとる。
魏を攻略し六十一の城市をとる。
垣城(エンジョウ、山西省)を抜く。
趙の光狼城(山西省)を抜く。
楚の鄢、鄧(いずれも湖北省)など五城市を抜く。
楚の郢(エイ)を抜き,夷陵を焼き払い、東の方、竟陵(湖北省)までいたる。
その郢結果楚王は郢から逃げ都を陳(河南省)に移した。
秦は郢を南郡とする。
さらにすすんで楚をとり巫郡(四川省)、黔中(ケンチュウ)郡(湖南省)を平定。
魏の華陽(河南省)を抜き、三晋(韓、魏、趙)の将をとりこにし、斬首が十三万!
趙の將、賈偃(カエン)と戰い,其の士卒二万人!を黄河に沈めた。
韓の陘城(ケイジョウ)を攻めて五城市を抜き、斬首五万!
向かうところ敵なしです。軍事的才能は大したものだ、ということがわかります。ただし現代人からみれば(あるいは古代人が見ても)蛮行とも思われる殺戮を繰り返しています。
なお、古代ローマ時代の話だと軍事的知識、興味のあった歴史家の記述もありますので、基本戦略、兵の構成、採用した戦術、武具などがわかりますが、司馬遷はそうしたことに知識も興味もなかったのか、戦についての詳細はわかりません。よって白起の戦略、戦術がどう勝れていたのかはわかりません。ちょっと残念ですね。


さて、白起が韓の野王(河南省)を伐ち、野王は秦に降ります。
その結果、韓の上党と韓本体との通路が途絶えてしまいました。上党を守っている馮亭(フウテイ)は秦の侵攻を恐れ、しかも韓は守ってくれないと考えました。そこで上党を趙に献上して趙に帰属すれば、秦は趙を責めることになるだろうし、そうならば韓も趙と連合して秦と対抗できるだろうと判断しました。
馮亭の判断はちょっと不思議です。確かに秦が攻めてくるのは怖いですが、韓からみれば、韓を裏切った上党をそのまま受け入れてしまった趙とわだかまりなく連合できるのでしょうか?

一方、趙の孝成王は平陽君、平原君と相談します。平陽君は、受け入れることによる災難は得るところより大きい、と反対し、平原君がなにもしないで一郡が手に入るのだから受け入れるべき、と言います。結局受け入れることにして、馮亭を華陽君とします。

秦はまず韓を攻めます。ここからは白起でなく、まずは王齕(オウコツ)に上党を攻略させます。その結果、上党の民は趙に逃げます。そして趙は上党の民を保護すべく長平に布陣します。これにより王齕は趙を攻撃することになります。上党を受け入れることは秦との戦争を招くことになった訳です。ただし、受け入れなければ趙が平和に暮らせた、という保証もありませんが...

さてここで趙は名将廉頗(レンパ)を将軍に任じます。


廉頗は塁壁を堅固にして頑強に守ります。趙王はこの防戦一方の戦いが気に入らず廉頗を責めます。この事態を秦の宰相の応侯に付けこまれます。応侯は趙に金をばらまいて、”秦が警戒しているのは馬服君の子供の趙括が将軍になることだけだ。廉頗は与し易い。いずれ秦に降るだろう。”という噂を流します。
趙王は廉頗が戦わないことを怒っていましたので、この反間の言を聞いて廉頗に替えて趙括を将軍にします。人の能力を見る目がない結果、愚かしいことをしたのです。

これを聞いた秦は白起を上将軍とし王齕を副将とする体制にします。そして陣中に白起が赴任したことを漏らすものは斬罪にするというおふれを出します。
誰がこのおふれを出したのでしょう?応侯なのか秦の昭王なのか。
とにかく相手が警戒を強めることを心配した訳です。もしかしたら白起のこれまでの残虐行為が知れ渡っていて、名前をきいただけで趙兵が死にものぐるいの戦闘をすることになるのでしょうか。





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2015年1月4日日曜日

史記 楽毅列伝 第二十(6)


次に楽毅はなかなか尤もなことを書いています。
「臣聞古之君子,交絶不出惡聲;忠臣去國,不絜其名。臣雖不佞,數奉教於君子矣。」
とあります。

貝塚さんの訳では、
”君子は絶交したあとで相手の悪口をいわぬもの、忠臣は国をさったあとで自分の宣伝はいたさぬもの、と申します。それがしふつつかながら、これをしばしば君子より教えを受けたものであります。”
です。
ここで”不潔其名”の訳、”忠臣は国をさったあとで自分の宣伝はいたさぬもの、”の意味するところがよくわかりません。

野口さんの訳では、
”わたくしは、「むかしの君子は、人との交際が絶えてもその人の悪口をいわず、忠臣は国を去っても、咎を君主に帰して、身の潔白を言い立てたりはしない」と聞いております。わたしは不才ではありますが、しばしば君子に教えを仰ぎました。”
となっています。これなら”不潔其名”の意味がよくわかります。ただし”交絶不出惡聲”のところは貝塚さんの訳の方がわかりやすいですね。
双方の訳とも、君子から教えを受けた、という表現についてとくに噛み砕いた言い回しにしていません。わざわざ誰かに教わったと書いてあるのだから、一体誰に教えを受けたのだろう、と知りたくなりますが。

楽毅が趙の軍を率いて燕に攻めこむのではないか、と恐れるなどは下衆の勘ぐりでした。一度仕えて禄を食んだ国ですので、少なくも先王には恩義があります。また燕の国の中には彼と親しかった人もいるはずで、その人たちへの信義もあります。趙の軍を率いて燕に攻め込みたくはなかったでしょう。
彼は常識人であり、恵王に対しては側近を信じられない(つまり恵王自身を信じられない)といいつつも、趙あるいはその他の国の人に向かって恵王の悪口を言い立てるなどのことはしなかったでしょう。
今の世の中だって、会社員だった男が辞めた会社の悪口を言いふらすのは器が小さく見えて見苦しい事です。

その後燕王は、楽毅の子供の楽間をかつて楽毅を封じた昌国君に封じます。そして楽毅自身も趙から燕に行き来して燕とも交わります。趙も燕も彼を客卿に任じています。
子供の楽間が燕の昌国君に封じられても、楽毅にとって人質にはならず、楽毅が客卿として燕に行っても捕らえられたりしない状況であることを楽毅は読みきっていたのでしょう。
燕にとっても趙にとっても楽毅と関わりを作っておくことが相手から攻めこまれない保険になっている状況になっていたのだと推測します。
楽毅は趙で亡くなります。

結論として楽毅は諸葛亮が目標とするだけの軍人であり、外交官であり、政治家でありました。
昭王から斉を撃てといわれて機械的に燕軍を率いて攻め込んだのではなく、政治、軍事の状況を見極め、まず周辺諸国を外交手腕によって抱き込み、それから連合軍で攻めこんで勝利しています。その後、燕の単独軍で斉の七十余城をおとします。軍事的才能は抜群であったのでしょう。しかもこの間、敵国での活動で常に補給、調達の問題があったはずです。もろもろの事に対する対応には政治的手腕もあったはずです。
また恵王の書簡に対する返書を見れば、人間として聡明で出処進退にあやまりなき人であることがわかります。





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2015年1月2日金曜日

史記 楽毅列伝 第二十(5)


楽毅の恵王宛の書簡の本論の流れは、中国式で飾った言い方でながながと書いてありますが、論旨は明瞭です。

まず
「故察能而授官者,成功之君也;論行而結交者,立名之士也。」
ということを言います。

ここのところの貝塚さんの訳では
”人の能力を洞察して官職を授ける者は、事業をなしとげうる君主であり、人の行為を判断して価値を認めた人と交際するものは、名を立て得る人物といえるのです。”
となっています。

一方野口さんの訳では
”人の才能を察知して官職を授けるものは功を成しとげる君主であり、君主の行いを正当に論じて臣事する者は名を立てる士であります。”
となります。

前段はほぼ同じですが、後段で「論行而結交者」の扱いがすこし違います。素人判断では貝塚さんの方が直訳的で、主旨は野口さんの方が理解しやすいと感じました。


その後で、楽毅は上記の論理にしたがって、先王(昭王)は功を成し遂げる君主であり、自分はその王の志を認め臣事するに値すると思い、努力して仕え、斉を打ち破る大手柄を立て、小国の諸侯と並ぶ身分にして頂いた、という事実が書かれます。
逆にいえば、もし王様がそれに値しない人物ならば、楽毅はその価値を認めず、仕えもしなかっただろう、ということになります。

次に
「臣聞賢聖之君,功立而不廢,故著於春秋;蚤知之士,名成而不毀,故稱於後世。」
と言います。

これは、賢い君主が功績を立てればそれは廃れず史書に記録される、先見の明ある士が名をなせばそれは壊されず後世にまで讃えられる、ということです。

そのあとで、先王(昭王)は大きな功績を挙げたことを説明します。だから先王は史書に残ると言いたいのでしょう。そのあと自分のことは言っていませんが、自分は先王に従って名をあげることができた。この名は不朽だ、とも言いたかったのでしょう。(確かに不朽です。2300年もあとの私でさえその名を知っていますから。)

そして自分の態度を明らかにする説明にまず次ぎの言葉から始めます。
「善作者不必善成,善始者不必善終。」
つまり
”よく事を起こす者は必ずしもよく事を成し遂げず、始めをよくする者は必ずしも終わりをよくしない”
です。
ここで伍子胥(ゴシショ)の例がでてきます。伍子胥は呉王の闔廬(コウリョ)に献策し、闔廬は楚に攻め込めました。しかし、あとを継いだ夫差は伍子胥が気に入らず、伍子胥に自殺させ、その屍を馬の革の袋にいれて揚子江に投げ込ませました。
ここで楽毅は
「子胥不蚤見主之不同量,是以至於入江而不化」
といいます。これは恵王に対して厳しい言葉です。しかしこの部分の訳が貝塚さんと野口さんでは違います。

貝塚さんの訳では
”伍子胥は先代の王といまの王では器量がちがうことを早く見抜かなかったために、揚子江に投げ込まれ、ついに成仏できない運命に落ちてしまったのです。”
ですが、野口さんの訳では
”子胥は二人の君主の器量が同じでないことを早く察知しなかったので、揚子江に投げ入れられるようになっても、自説を改めなかったのです。”
となっていて、”不化”の部分の意味が異なってとられています。浅学ということばにさえ値しない自分にはこれはどう訳すのがよいのかわかりません。しかし、野口さんの訳では”夫差の器量が劣ることを早く理解しなかったから、”に続くことばとしては論理が繋がらないと思います。

ここで、かなりはっきりと、あなた(恵王)は父親とは器量が違います。私は伍子胥のようにあなたに仕えてみすみす命を落とすようなことはしませんと言っています。

そのあとに更に、(もしのこのこと燕の恵王のところへ行って)自分が罪過にかかり、非難を被るようなことになると、(自分を用いて大功を立てた)先王の名誉を傷付けることになる、と継ぎ足しています。

楽毅は恵王を全く信用しておりません。関わるに値しない王と判定しています。

ただし、ここまでの手紙の記述では、なぜ司馬遷が書くように”斉の蒯通(カイトウ)と主父偃(シュホエン)は楽毅の燕王(恵王)への返書を読むたびに書を閉じて泣かないことはなかった、”ということになるのか理解できません。単なる猛将ではなく、非常に明瞭に置かれた立場、相手の器量を見切ることができる頭脳明晰な人生の達人であることは理解できますが、苦しみに共感して涙するような要素はないのではないか、と思ってしまいます。

この手紙の最後の部分がこのあとに続きます。





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史記 楽毅列伝 第二十(4)


恵王の手紙に対する楽毅の返事は長いものです。
この伝の末尾で司馬遷は、斉の蒯通(カイトウ)と主父偃(シュホエン)は楽毅の燕王(恵王)への返書を読むたびに書を閉じて泣かないことはなかった、と記しています。

しかしよく読んでみると初めの部分は意味が微妙にわからないです。
冒頭は
「臣不佞,不能奉承王命,以順左右之心,恐傷先王之明,有害足下之義,故遁逃走趙。」
となっています。貝塚さんの訳では

”それがしふつつかながら、ご命令を奉じて側近諸公の意に従いえざりしゆえんは、(御父君の見こまれたるそれがしが処刑されれば)御父君の聡明さに傷がつき、貴殿の御父君に対する道義的責任にも害をおよぼすことを恐れたからであって、さればこそ趙に亡命したのであります。”
となっています。括弧で補った部分は訳者が入れたものです。

これに対して野口さんの訳では

”わたくしは不才で、王命を遵奉し、側近の方々のお心に順うことができず、先主のお眼鏡を傷つけ、あなたのお徳義をそこなうのではないかと恐れましたので趙に出奔したのであります。”
です。

貝塚さんの訳では、王様(恵王)の命に従って、側近にいる諸公の意を満たすことができなかったのは、お父様(昭王)の聡明さに傷がつき、子供である恵王の道義も傷つけることになることを心配したからです。それゆえ趙に逃げました、ということです。
このままでは論理に飛躍があり、括弧で’処刑される危険がある’となっています。
ざっくり言ってしまうと、自分は処刑されそうであった。処刑されたら、先王の面子も潰れるし、子供の恵王も父の用いた臣を殺すという、道義的に問題のある行為をすることになる。だから逃げた、という説明です。

野口さんの訳では、自分は才がないので、恵王の命を遵奉し、恵王の側近の心に順うことができなくて、その結果先王(昭王)の眼鏡を傷つけることになり、恵王の徳義をそこなうのではないかと心配して出奔しました、となります。
こちらは、自分が才がないから恵王の下で十分な仕事もできない、その結果自分を用いた先王の面子をつぶし、先王の用いた楽毅の不才を明らかにした恵王にも(父の権威を傷つけて)徳義がないことになってしまうので逃げた、となります。

回答するなら野口さんの訳の方が無難に見えます。でもそれだと、なんで昭王の時は仕事ができて恵王ではだめになるのかの理由が必要です。あなた(恵王)は難しい人だから、自分はあなたの気に入るようにはできない、と言っているようでもあります。
また側近がなぜここに出てくるのでしょうか?問題なのは恵王と楽毅の関係なのに奇異に感じます。

次の部分は
「今足下使人數之以罪,臣恐侍御者不察先王之所以畜幸臣之理,又不白臣之所以事先王之心,故敢以書對。」
です。貝塚さん、野口さんの訳はほぼ同じです。貝塚さんの訳を挙げれば
”いま、貴殿は使者をつかわして、その罪を責められた。おそらく側近諸公は、御父君がそれがしに恩寵をかけられた理由を洞察せず、それがしが御父君に仕えまつった心情を理解されないであろうことを懸念いたします。そこで、あえて書簡をもっておこたえ申すしだいです。”
となります。
ここでまた側近が出てきます。先王と楽毅の関係について考えもせず、理解もしていないのは恵王ではなくて側近なのです。このあとの本論ではもう側近は出てきません。
側近を持ち出すのは恵王を直接非難するのをはばかったのでしょうか?それとも楽毅を讒言する側近がいて恵王がその側近のいうことを聞く、と暗にいっているのでしょうか?
”だから(故に)書簡を以って答える”、という論理もこのままでははっきりわかりません。会えば捕らえられて殺されるから手紙にする、といっているようですね。
以上は前置きで、これから本論に入って行きます。





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