2016年1月18日月曜日

史記 呂后本紀 第九(10)

呂后本紀には、呂后が死んで呂氏が滅亡するところまで書いてあります。つまり呂氏の滅亡は呂后の伝記に入れるべきストーリーと考えられているわけです。実は史記の呂后本紀の四割くらいは呂氏の滅亡話です。呂后本紀とは前半呂后の悪行、後半呂氏の滅亡が陳べられるという構成なのです。呂后はやくざ映画の悪い方の組長みたいなものです。

まず呂后が亡くなったところで諸侯王、官吏に下賜金が配られ、天下に大赦が行われます。そして帝(もとは常山王義、帝位に就く時、弘と改名させられる。)の后に、呂后の兄である呂釋之の子(つまり甥)の呂禄の娘を立てます。呂后の兄(周)の子、呂産が相国になります。そして審食其(シンイキ)を帝の太傅(帝の師という形だが実権はない?)とします。史記には新体制についてこう書いてありますが誰がイニシアチブを取ってこの呂氏体制を決めたのでしょう?予め呂后から指示されていたのでしょうか?

呂后死後の体制を上記の如く簡単に説明したあと、史記ではたちまち朱虚侯の劉章が呂氏の天下に不満があり、乱を起こす気だったことが書かれます。ここで問題があります。劉章は劉邦の子供である劉脂の子供でありますが、呂禄の女(ムスメ)を妻としているのです。もし陰謀が奥方から漏れたら何もしないうちに殺されてしまいます。そこで兄の斉王劉襄に挙兵して自分はこれに呼応しようとします。これだと劉章はちょっと意気地のない男に見えます。

漢書ではこのような話にはなっていません。呂禄と呂産は、劉氏にあらずして王になっていることが後ろめたく、大臣たちあるいは諸侯王に誅殺されることを恐れ、自分達から乱を起こそうと考えました。ところが劉章の妻は呂禄の娘だった結果、劉璋はその陰謀を知る事になります。ここで妻が陰謀を軽率に漏らしたか、夫に積極的に知らせたのか、あるいは挙動不審で勘づかれたかは書いてありません。劉章は兄の斉王劉襄に陰謀を連絡し、出兵を促します。
尤も史記でも、斉悼恵王世家の中では、“朱虚侯劉章は呂禄の女を妻にしていたので、(反乱の)計謀を知ったので兄の斉王にその由を報告させた。”という記述になっています。
逆に、呂氏は劉章の妻になっている女が陰謀を知ってしまうことの潜在的危険性についてあまり考えていなかったとしたら迂闊ですね。

いずれにせよ斉王は挙兵する気になります。しかし斉の宰相の召平というものが反対し、叛旗を翻し王を包囲します。これに対し、魏勃というものが召平を欺いて自分が王宮を包囲をするといい、兵を動員して相府(宰相官舎)を包囲してしまいます。その結果、召平は自殺することになります。
史記でも漢書でも、召平は斉国とか斉王の安泰を願って斉王を抑えような説明はありません。読んで推量する限りは、召平は呂氏から派遣されていたお目付け役のように見えます。

かくて斉王は兵を進めることになりますが、兵力が不足であることと、瑯邪王劉澤の去就に不安がある問題があります。瑯邪王は呂(呂后の妹、樊噲の妻)の女を妻としているからです。そこで瑯邪王をだましておびき出して抑留し、瑯邪の兵を斉王の兵を合わせてしまいます。どうだましたかと言えば、呂氏が反乱を起こし、斉王が誅滅しようと兵を起こしたが、斉王はまだ若くて戦なれしていないので、劉氏の長老である瑯邪王にご相談にあずかりたい、と言ったのです。

ここでは一応は斉王はうまくやったのですが、やはりこういうことをしてはあとからしっぺ返しを食うことになります。





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