2016年2月28日日曜日

史記 老子韓非列伝 第三 老子(1)

老子というのは中国史上の著名人であることは間違いないでしょう。しかるにあまり論じられることが無いように感じます。

そもそも老子なる人が存在したのかが問題にされたりします。しかし史記の老子韓非列伝 第三の冒頭に
「老子者,楚苦縣厲曲仁里人也,姓李氏,名耳,字耼,周守藏室之史也」
と書いてあります。すなわち
“老子は楚の苦(こ)縣の厲曲仁里(らいきょうきょくじんり)の人。名は耳、字は耼(たん)、姓は李氏。周の蔵室を管理した史官であった。”
ということです。
当然ながら史書に伝を挙げる以上実在した人として扱われています。

この伝の少しあとの方で、老子の子孫の記述があります。老子の子は宗、その子が注、その子が宮、宮の玄孫が仮(か)、仮の子が解とあります。仮は文帝(呂氏滅亡の直後の皇帝で、武帝の二代前の人)に仕えたそうです。そして解は膠西王の太傅になったそうです。つまり相当司馬遷に近い世代の子孫についての記述がある訳です。ということで私は、老子という人の存在が根も葉もないことではないという印象をもっています。

なお、老子の出生地について貝塚茂樹さんの訳本では註に
“苦県は河南省鹿邑県にあたるとされる。この県の厲曲仁里の生まれというが、その地名も、老子という世をすねた賢者の故郷だという伝説にこじつけたものらしい。”
と書いてあります。そもそもこの註は日本語としてもおかしな文章で、主旨明瞭ではありません。
さらに“世を拗ねた”という評価は、もし老子が隠者だったから、というのでは不公平です。隠者で何も書物も名も残さなかった人は遥に沢山いでしょう。それに引き替え彼は書を表わし、自分の意見を述べております。また子孫がいる位ですから妻子を養っています。人並みの世俗の苦労をしている訳です。
では評価は書物の内容に基づいたものとだったとしたらどうでしょう。無為自然を説いているから拗ね者決めつけたことになり、これまた飛躍があると思います。

ところで、この伝では冒頭で分かり切ったように“老子は”とあります。この出だしは孔子世家の「孔子生魯昌平邑」と同じです。あるいはこの老子韓非列伝 第三の合伝の中に入っている荘子も名を書かず「莊子者,蒙人也,名周」も同様の例です。
しかし、同じ伝に合わさって記述のある韓非子については韓非子者と書き出さず、「韓非者」となっています。


史記の列伝では、普通ならば「管仲夷吾者」のように姓と字を書き、その後に名前を言う筈です。○○子とはなかなか言ってくれません。耼は老子という思想家として司馬遷の頃にすでに名のある人だったのでしょう。





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2016年2月8日月曜日

史記 呂后本紀 第九(13)

さて、灌嬰が寝返って斉、楚と連合して呂氏討伐をすることになったから速やかに自衛するように呂産に連絡がはいります。反呂氏の挙兵は呂産もすでに知っていることです。ここでの報告の中心は灌嬰の寝返りでしょう。
その時そばにいた平陽侯が丞相陳平と大尉周勃に連絡します。しかし大尉は兵権を一手に握る立場なのに北軍をどうにもできません。そこですでに北軍の軍権を譲る気だった呂禄に、酈寄と劉掲に説かして将軍の印綬を返還させます。

そして周勃は北軍の兵権を握って、兵士に有名な命令をだします。
「為呂氏右袒,為劉氏左袒。」
すなわち
“呂氏に着くなら右袒、劉氏に着くなら左袒せよ”
です。左袒の語源になっています。今更こんな要求は兵にとっては改めて誓わされた意味しかありません。ここで右袒した日にはすぐ殺されてしまいます。

しかしまだ南軍は呂産が抑えています。まだ周勃は呂氏に勝てないのを心配して、あからさまに呂産を誅滅せよと言いかねて、朱虚侯劉章を派遣します。周勃という男は案外意気地がないです。朱虚侯は未央宮に入って呂産を殺します。あとは時の勢いで、呂氏の老若男女皆殺しになります。呂禄も呂も結局殺されます。

呂氏が滅亡したところで新体制の相談になります。まず現皇帝の弘(もとの常山王義)は恵帝の本当の子供ではない、梁王、淮陽王、常山王も恵帝の種ではない、ということで除かれる(=この世から除かれる)ことになります。

では誰を皇帝に立てるかです。そこで(10)で書いたようにうまく斉王に騙されて兵を奪われた瑯邪王が口をだします。“斉王の母の実家の駟鈞は悪逆暴戻な男だ、(外戚の)呂氏が暴虐で天下を乱そうとしたのに、また斉王を立てたら呂氏の二の舞になる、それにひきかえ代王の母の実家の薄氏は君子であり仁徳者である。また代王はまさしく高祖の子供で存命、最年長である。”と巧妙に斉王が皇帝になる芽を潰し、代王を擁立させます。これが文帝です。

かくて折角の呂后の努力もむなしく呂氏は根絶やしにされます。

私には、呂后の時代というのは、呂后という我の強いサイコパス女性が思い切り権力を振り回しただけの時代に見えます。それでも呂后の視野に対応して、ひどい目にあったのは宮廷人だけです。呂后の専横から最後の呂氏一族の滅亡まで一般人には関わりのない話です。呂后の時代、天下は太平だったといいますが、それは高祖により兵乱が収まって落ち着いたからです。それが証拠に呂后がいなくなってから混乱が起こったり、一般人が暮らしにくくなったりはしていません。文帝の時代もよい時代だったのです。





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史記 呂后本紀 第九(12)

すでに書きましたように趙王の呂禄、梁王の呂産がおのおの北軍と南軍の兵権をにぎっていました。国家の軍を統べる立場である大尉の周勃でも都の兵を掌握できなかったのです。呂氏を倒すには呂禄、呂産は甚だ邪魔な存在で、クーデタを起こそうとする方としてはなんとか除きたい存在でした。

一方曲周侯である酈商(レキショウ)の子供の寄が呂禄と仲がよかったそうです。そこで大尉の周勃と丞相の陳平が相談し、寄に呂禄に兵権を手放すように説得させます。
「令其子寄往紿呂祿曰」
とあります。野口さんの訳では
“その子の寄に、呂禄のもとに出向いて、あざむいて次のように説かせた。”
となってました。でも、もとの文では寄に説かせただけに見えます。欺いた主体は周勃と陳平にあって、寄は真面目に信じて呂禄の為に説いたのではないでしょうか。

しかし、その説得の内容は大して説得力がないです。
“劉氏の王が九、呂氏の王が三ですが、これは大臣、諸侯がよしと認めたものです。(呂氏の既得権は認められているのです。)あなた(呂禄)は趙王でありながら領国に赴任せずに兵権をもって都にとどまっておられる。だから大臣諸侯が不安になります。兵権を大尉に渡して領国に赴任すればみんなは安心し、斉の国の乱は収まるでしょう、”というのです。
斉王の挙兵は呂氏討伐を旗印にしたものです。これの鎮圧のために呂産、呂禄は灌嬰の軍を派遣したのです。ここは一族の浮沈を賭けて頑張るべきところだったのです。ここで自分が兵権を手放しては、安全になるどころか自分も自分の一族も大変に危険なことになるのはそんなに先見の明がなくても分かりそうなものです。

呂禄は現に反乱が起こっているし、周囲の雰囲気からの危険は感じていたでしょうが、とにかく怖いだけで、その重圧に耐えられる人間ではなかったのではないでしょうか。だから、“安心して暮らせるようになります、”という根拠のはっきりしない酈寄の甘言になびいてしまったのではないでしょうか。


呂禄は兵権を手放す気になり呂産、およびその他の呂氏一族の長老に知らせます。
ここで呂氏一族にとって運が悪かったのは呂産がこれに反対し、直ちに行動を起こさなかったことです。
唯一人兵権放棄の結果を予知して“呂氏はいまにいるところもなくなってしまうだろう”と怒ったのは呂(呂后の妹)だけでした。彼女は自分達の拠って立つ基盤が何であるかを良く理解していたのです。呂氏にとっては呂が一族を仕切っていた方が良かったでしょうね。





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2016年2月1日月曜日

史記 呂后本紀 第九(11)

斉王は諸王侯に呂氏討伐の檄を飛ばします。その中に次の言葉があります。ちょっと気になります。
高后用事,春秋高,聽諸呂
即ち、
“高后が政治にあたったが、高齢であり、呂氏の人達のいうことを聴いた。”
というのです。その結果つぎつぎと趙王を三人殺し、梁、趙、燕を滅ぼして呂氏一族が王となったと非難しています。呂后が率先して呂氏の為に力を奮ったのではなく、呂氏一族が呂后にそうするように仕向けたというのです。そして諌めるものがあっても
「上惑亂弗聽
即ち
“呂后は惑乱して聞き入れなかった”(だから呂氏の横暴は収まらなかった?)
とあります。
斉王の檄文は、悪いのは呂氏一族の有力者であって、老齢の呂后ではないようなスタンスです。しかし呂后本紀の他の部分の記述からすれば、漢を呂氏のものにしようとした施策は呂后が主導したことです。
呂后の死は御飾りの老婆が死んだのではなく、呂氏のリーダーがいなくなったということです。だから忽ち乱がおきたのです。

相国の呂産はこれに対して灌嬰を派遣して鎮圧させようとします。しかし灌嬰は滎陽まで来てから斉王に、共に呂氏を滅ぼそうと提案します。具体的には呂氏が乱を起こすからそれを待って誅滅しようというのです。

結局どうなっていたかと言えば
「呂祿、呂欲發亂關中,憚絳侯、朱虛等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之,欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未
となります。即ち野口さんの訳によれば
“呂禄と呂産は関中で変乱を起こそうとしたが、内は絳侯・朱虚侯らをはばかり、外は斉、楚の兵を恐れ、また灌嬰がそむくのではないかと恐れて、灌嬰の兵が(背かずに)斉と合戦するのを待ってことをあげようとし、狐疑してまだ決定しなかった。”
ということです。呂氏の周囲はこの時点で敵か、あるいは信用できない人ばかりです。灌嬰とても信用できないのに兵を与えて反乱征伐に行かせたのです。

情勢がこの有様では灌嬰があっさり寝返るのももっともです。この時点で客観的には勝負がついているようなものです。

本来こうなる前に手を打つべきなのですが、七月に呂后が死んで八月には騒動になっていますから、手を打つべきだったのは呂后その人です。呂后は権力を振り回して周囲に発生している危険を本当には理解していなかったようです。





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