2016年9月26日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (3)

何進が都に招いた董卓は、何進が殺されたあとで到着しました。
董卓は時の皇帝であった少帝辯を廃して弘農王とし、代わりに献帝を擁立します。献帝の方がしっかりした人間である、と判断したのです。そして曹操を驍騎校慰に任命し、董卓の相談にあずかってもらうようにしようとします。驍騎校慰とは、黄巾の乱ののちに制定された西園八校慰の一つで、皇帝親衛隊の指揮官だそうです。
董卓は暴虐な人間ですが、人の能力を見る目はあったのではないでしょうか?
献帝は少帝辯よりしっかりしていたし、曹操は有能な人材であった訳です。逆に言えば曹操は董卓にも有為の人材と思われたわけです。

 ここでも曹操は先見の明があるところを示します。董卓は駄目だと判断し、逃亡してしまいます。

 この逃亡中に事件が起こります。「魏書」の記述によれば旧知の呂伯奢(リョハクシャ)という者の家にたちよります。しかし本人は留守で、子供たちと食客がぐるになって曹操をおどし、馬と持ち物を奪おうとします。そこで曹操は自ら刀を振るって数人を撃ち殺した、ということです。
これならば、曹操は個人的武勇にもすぐれているというだけのエピソードです。

 しかし「世語」では三国志演義にも類似の話が出てくる胸糞の悪い話になっています。すなわち、呂伯奢は外出していたが五人の子供たちがいて主客の間の礼もわきまえていました。ところが曹操は彼らが自分を始末するつもりか、と疑い剣を揮って夜の間に八人の人間を殺害して去った、というのです。
さらに孫盛の「雑記」によれば次のようになります。
 「太祖聞其食器聲、以爲圖己、遂夜殺之。既而悽愴曰「寧我負人、毋人負我!」遂行。」
 今鷹さんと井波さんの訳によれば、
 “太祖(曹操)は彼ら用意する食器の音を耳にして、自分を始末するつもりだと思い込み、夜のうちに彼らを殺害した。そのあと悲惨な思いにとらわれ、「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせないぞ」といい、かくして出発した。” となります。
これでは猜疑心がつよく、疑ったら簡単に人を殺してしまう人ということになります。曹操のこの手のエピソードが、この呂伯奢の話だけならば、呂家の殺人の経緯については複数の説があり、どれが正しい話かわからないのですが、先々での部下に対する態度のなかにも、そうした冷酷な側面が見えないでもありません。多くの人が簡単には共感できない側面を持つ人物と思われます。




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2016年9月18日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (2)

「魏書」によれば。大将軍の竇武(トウブ)と太傅の陳蕃(チンバン)が宦官殺害を計画し、逆に殺された事件(第二次党錮の禁)について曹操は上奏文をたてまつり、正直(せいちょく)な人が殺され、邪悪な人が朝廷に満ちている、と厳しく非難しました。これはまかり間違えば宦官に陥れられて命を落とす危険がある行動で、曹操は勇敢な男であったことがわかります。しかし霊帝はこの意見を採用できませんでした。
そのあと、天変地異があって、ひろく政治批判の意見が募られたとき、曹操は三公(司徒、司空、大尉)が貴族、外戚に阿って政治をゆがめていることを厳しく非難しました。これも効果がなく、その後曹操は朝廷に献策することはなくなりました。
この行いの限りでは曹操は良識ある人間であることが推察されます。

黄巾の乱が勃発しますが、曹操は潁川(エイセン)の黄巾の賊を討伐し、済南国の相になります。軍事的才能も十分にあります。
この国は腐敗していて貴族外戚に迎合する役人が多く、贈賄汚職が横行していたので曹操は八割を免職にして、邪悪で民衆の負担になる祭祀を禁止し大いに治績を挙げています。ここでも良識があり、かつ能吏であることを示しています。

このあと不思議なエピソードがあります。
冀州の刺史王芬(オウフン)、南陽の許攸(キョユウ)、沛国の周旌(シュウセイ)等が時の皇帝である霊帝を廃して合肥公を擁立しようとして、曹操のこの計画を打ち明けた話です。

「冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等、連結豪傑謀廢靈帝」
と記述されています。

曹操はこの計画はうまくいかないと考え、断っています。本物かどうかはわかりませんが、曹操の断りの手紙が「魏書」に出ています。曹操は、手紙では過去の天子の廃立と状況を比べて、そんなに簡単ではないと説いていますが、彼はかかわっている人間の資質、能力も見てこれは到底駄目だと判断したのではないでしょうか。
上の引用に“連結豪傑”の語があります。有力者とも謀っていた訳です。しかし、これでは知っている人がぞろぞろいて危険極まりないです。

実際うまくいきませんでした。
しかし、この件は露見したとはいえないようです。王芬は賊の鎮圧を名目として軍の出動を要請したのですが、太史(天文係)が陰謀の疑いがあり北方への巡行は不適、と進言した結果、帝は出動を中止し、王芬を召し出します。王芬はこれに恐懼して自殺してしまうのです。なんで慌てて自殺したのでしょう。知らん顔して戻ってもよいし、ものはためしで軍の出動を帝に説得してもよかったのではないでしょうか。一方、許攸はこの事件のあとも生きながらえています。殺されてはいません。
こうした計画を相談しながら断られてそのまま、というのもやや奇異に感じます。普通ならそんな陰謀を話してしまった以上は、相手が加担してくれなかったら密告の危険のある人間になります。しかしあちこちに相談している愚劣な連中だから相談された自分にとくに危険は及ばないだろう、と曹操は踏んだのでしょうか。

当時宦官が専横を極め、大将軍の何進は袁紹と宦官誅殺を謀っていましたが、皇太后(何進の妹で霊帝の皇后)が許可しなかったので、董卓を召し寄せて皇太后に圧力をかけようとしました。即ちすでにこの時点で皇太后が知っていた訳です。「魏書」によれば曹操はこれを聞いて笑って、“罪を処断するなら張本人を処罰すれば十分で一人の獄吏で用が足りる。外にいる将軍を召し寄せる必要はない。宦官を皆殺しにしようとすれば事は露見する。失敗は目に見えている。”と言っています。曹操もまた事前に知っていたのです。

こんな有様では本当に失敗してしまいます。実際何進は先手を打たれて殺されてしまいます。ここでも曹操は見通しのよい優れた人間であることを示しています。





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2016年9月2日金曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (1)

今回は本紀を扱うので、正史の項目をそのまま書けば武帝紀第一です。
しかしそれではわかりにくいので(曹操)を入れました。
 三国志の武帝紀によれば曹操「漢相國參之後」すなわち、漢の高祖劉邦を助けて手柄を立て、二代目恵帝のとき相国となった人の子孫だというのです。しかし曽参は劉邦の大物家臣だったとしても、ここでは大して有難味がない記述です。
なんと曹操の父、曹崇は、宦官である曹騰の養子なのです。 さて司馬彪の「続漢書」によれば、その曹騰の父である曹節はなかなか評判の高い男で、男子が四人いて、字がそれぞれ伯興、仲興、叔興、そして末子の騰が季興というのだそうです。曹騰は年少のころ黄門の従官に任命された、とあります。しかしこの職は宦官がなるものです。現代人には信じられないことですが、親の曹節が子供の曹騰を宦官にしてしまったようです。 

その後曹騰は皇太子(後の順帝)の学友に選ばれ、非常に可愛がられたようです。そういう出世の道があるから曹節は末子を宦官にしたのでしょうか。曹騰は四人の皇帝(安帝、順帝、沖帝、質帝)に仕えて一度も落ち度がなく、優れた人物を引き立てることが好きだったそうです。 曹騰はなかなか立派な人であったようですが、当然ながら曹騰の子の曹崇は養子であって、曹節や曹騰がどのような人物であったかは曹操とは直接関係ありません。
 曹崇は、もとは夏侯氏の出で、夏侯惇の叔父だそうです。

 さて曹操(太祖)は若いころ
「太祖少機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、故世人未之奇也。」
 だった、とあります。今鷹さん、井波さんの訳によれば、
 “太祖は若年より機知があり、権謀に富み、男だて気取りで、かって放題、品行を整えることはしなかった。従って世間には彼を評価する人は全然いなかった。”
 です。

 機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、の男をまるで評価する人がいない、というのはちょっと変に見えます。
 実際、橋玄という人は “天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは君であろうか。” といったそうですし、許子将という人物評価で知られる名士からは “君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。” と評されています。この許子将の評は有名です。
 むしろ見る人が見れば若いころから優秀だったのかと思われます。




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