2015年7月25日土曜日

史記 呂后本紀 第九(5)



すでに史記 呂后本紀 第九(3)のところで書いたように、呂后は高祖の天下取りに寄与した功臣を何人も殺しました。そして高祖亡きあと、ライバルだった戚妃の子供、如意を殺し、戚妃を惨殺しました。
一方で実家の呂氏の人間を取り立てました。

高祖亡きあとの呂后にとって邪魔になるのはまずは劉氏の子供たちです。恵帝の二年、恵帝の異母兄である斉王が楚王と共に来朝しました。十月恵帝は斉王と共に呂后の前で酒宴を開きます。この時、呂后は、酖毒を入れた卮(サカズキ)を斉王の前に置き、斉王に起って寿をことほぐように命令します。この時の状況は史記に次のように書かれています。
孝惠以為齊王兄,置上坐,如家人之禮。太后怒, 乃令酌兩卮酖,置前,令齊王起為壽。齊王起,孝惠亦起,取卮欲俱為壽。太后乃恐,自起泛孝惠卮。齊王怪之,因不敢飲,詳醉去。」
野口定男さんの訳によれば次の通りです。
“孝恵は斉王が兄だからと思って、天子と諸侯という形式をとらず、家族の礼式のように兄たる斉王を上座にすえた。太后は怒って、二つの卮(サカズキ)に酖毒をついで前におき、斉王に起(た)って寿をことほぐように命じた。斉王は起った。すると孝恵(恵帝)も起って、卮をとってともに寿をことほごうとした。太后はおそれて、みずから起って孝恵の卮をひっくり返した。斉王は怪しんで、あえて飲まず、酔ったふりをして立ち去った。”

呂后は目的のためには手段を選ばず毒殺平気という人であることがよく分かります。今度の例では’斉王を兄として上座においたから怒って、’と書いてありますが、そんなことで俄かに殺害をおもいつくとは考えられません。初めから斉王は亡き者にしたかったのでしょう。

しかしわからないのは斉王に自分(呂后)の寿をことほがせたいならば、毒杯はひとつあればよいのです。なぜ二つ用意させたのでしょうか?

次に恵帝のやったことはなんだったのでしょう。この文面だけからいうと、素人判断では卮(サカズキ)が二つあったのだからなんとなく自分も母の寿をことほがないといけないと思った、という解釈も可能です。
しかしそうではなくて呂后が斉王の毒殺を図っていることを危惧したという解釈が多いようです。でも一緒に乾杯したら自分も死んでしまいます。しかもこれでは斉王を助ける目的も叶いません。愚行の発作にしか見えません。この場合やるなら、恵帝が酔ったふりをして起ちあがり、斉王の卮をひっくり返すくらいのものです。でもお代わりの卮があるのでこのままでは収まりません。
史記によれば上述の通り呂后が恵帝の卮をひっくり返したので、斉王も怪しんで寿をことほぐことをせず、飲まずに帰ってしまう、という後味の悪い話になっています。
この記述では、このまま酖毒のことを不問にする恵帝は軟弱というか婦女子の情けしか知らない情けない人に描かれてしまうことになりますね。





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2015年7月19日日曜日

史記 呂后本紀 第九(4)



高祖劉邦は恵帝は仁弱で自分に似ていない。だから戚妃の生んだ如意を立てようと望んだ、という記述が呂后本紀の冒頭に出てきます。

漢書の恵帝紀によれば彼が五歳の時漢王となったとあります。漢書ではこの年を高祖の元年(BC 206)と数えています。その二年に太子になり、十二年に高祖崩御とあります。つまり恵帝が帝位についたのは十七歳頃だったと思われます。一方如意は史記の呂后本紀によれば高祖が漢王になったころ戚妃を手に入れた、とあり、それから如意が生まれるまで十か月以上はかかりますので、早くて高祖の二年に生まれたことになります。高祖崩御の時でもまだ十歳くらいの筈です。恵帝については自分に似ず仁弱だというのはかろうじて高祖はわかったかも知れませんが、如意が自分に似てしっかりしている、とは簡単には判断できなかったのではと思います。如意を太子にすべきだろうと判断するのは、戚妃への情がらみと見えます。

さて呂后が戚妃に対してやったことは残虐の極みです。
「太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲瘖藥,使居廁中,命曰「人彘」」
野口さんの訳によれば
“太后はいよいよ戚夫人の手足を断ち切り、眼球をくりぬき、耳を薫(クス)べてつんぼにし、瘖薬を飲ませて唖(オシ)にし、便所の中において、「人彘」(ヒトブタ)と名付けた。”
という有様です。戚妃がこれで生存していたのか死んでしまっているのかこの文を読んだ限りではわかりません。どこかの本で数日は生きていたとの記述をみたことがありますが
さらにそのあとがまたひどいです。呂后はわざわざこの「人彘」を恵帝に見せます。なぜ恵帝に見せる必要があるのでしょう?恵帝が喜ぶ訳はありません。自分が勝ち誇ったところを見せたかったのでしょうか。いくら古代の人のやることとは言え、これでは呂后は吐き気がするような人柄だと言わざるを得ません。

その呂后の子供である恵帝についての仁弱とはきれいごとな表現です。要するに卑怯で行動力のない男です。
史記によれば
「孝惠見,問,乃知其戚夫人,乃大哭,因病,餘不能起。使人請太后曰:「此非人所為。臣為太后子,終不能治天下。」孝惠以此日飲為淫樂,不聽政,故有病也。」

“恵帝は見て質問し、戚夫人であることを知る。そこで大いに哭き、そのために病気になり、一年以上たつことができなかった。そして人をやって太后にお願いした。「これは人のやることではありません。臣(私)は太后の子として、とても天下を治めることはできません。」恵帝はこうして毎日酒を飲んで淫楽し、政治を聴かなかった。病気になったのはその所為である。”

彼は殺された趙王の生みの母である戚夫人も危ないことは分かる筈です。しかし彼は何も対策をしていません。しかも戚妃が残虐な仕打ちをされたあとでも、呂后の力を奪う努力もせず、天下を治めることができないと言って酒飲んでいただけでした。そして二十四歳でなすところなく死にました。

高い地位とそれにともなう権力を持ちながら天下にとってよいことをしないばかりか、自分の周囲の人にも貢献しなかったのです。地位も権力もない人間の無為無策よりも遥に罪が重いです。
酒におぼれていれば恐ろしい母親に命を狙われる危険がないとでも思ったのでしょうか。だとすれば、まさにいない方がましだった皇帝です。






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2015年7月11日土曜日

史記 呂后本紀 第九(3)



史記呂后本紀で太子が廃されないで済んだ、との記述の後にいきなり次の言葉があります。
「呂后為人剛毅,佐高祖定天下,所誅大臣多呂后力」
“呂后は人となりが剛毅で高祖を助けて天下を平定し、大臣を誅殺したのは、多くは呂后の力であった。”
ということです。確かに淮陰侯韓信を鐘の間で斬り三族を誅殺したのも、蜀に護送されていた彭越を高祖のところへ連れ戻し、家来に弾劾させて族滅をさせたのも呂后です。高祖なら曾ての仲間としての情もあったでしょうが呂后はそういう情には負けません。というか情けはかけない人です。なんのためにそんなに冷徹に頑張ったのか?
漢王朝のためではなくてむしろ実家の呂氏一族のためでした。

呂后の二人の兄は将軍になりました。長兄の周呂侯は亡くなり、子供の呂台が酈侯(レキコウ)、呂産が交侯となりました。次兄呂釋之は建成侯になっています。いずれも要するに呂后(妹)の七光りです。

史記の記述では、高祖が死んで太子が帝位について冷血女の呂后が最初にやったのが、太子のライバルだった戚夫人の子供趙王の殺害です。
趙王を召喚するのですが、趙の宰相の建平侯周昌が抵抗します。史記によれば周昌は勅使に驚くべき回答をしています。
「高帝屬臣趙王,趙王年少。竊聞太后怨戚夫人,欲召趙王并誅之,臣不敢遣王。王且亦病,不能奉詔。」
野口定男さん達の訳によれば
“高帝は臣に趙王のことを委嘱されました。趙王はまだ年少です。ひそかに聞くところによりますと、太后は戚夫人を怨み、趙王を召し寄せて誅殺なさろうとのぞんでおられるとのことです。臣はあえて趙王をお遣(オク)りいたしません。かつまた趙王は御病気です。詔を奉ずることはできません。”
です。
ここからまず、趙の宰相は高祖劉邦から趙王をよろしく頼むと言われていたことがわかります。それはいいですが呂后が趙王を殺したがっている、ということ勅使に対して口に出しています。こんな回答を呂后に復命されたらあとあと怖いだろうと思うのですが

呂后は怒って趙の宰相を召喚させます。それから趙王を召喚させます。ところが即位した恵帝が情け深い人で、母である呂后のたくらみを懸念し、趙王が宮廷に来る前に覇上で出迎えともに宮廷に入り、起居飲食を共にして庇ったのです。だけどある日、恵帝は早朝に狩りにでかけ、趙王は幼少で早起きできなかったので一人になりました。その時を狙って呂后は酖毒を飲ませて首尾よく趙王を殺させてしまいます。

恵帝という人は情け深いとは言われてはいますが、結局不十分なことしかしていません。これまで宮廷内で自分がずっと付き添っていたくらい危ないと思われる場所ですから、一人で宮廷で寝坊させては非常に危険に決まっています。ならば狩りに行くにあたり幼少の王を無理やり起こして同行させることもできたし、やるべきだったのです。さらには皇帝なのだから、狩りに行くより前に、そんな危ない宮廷の状態を人事や制度によって徹底的に改めるべきだったのです。

そして彼は趙王の母である戚夫人を守ってやることもできません。





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2015年7月6日月曜日

史記 呂后本紀 第九(2)



ところで、呂后の立場が強くなるには自分の息子が跡継ぎになれるかどうかが決定的です。これについては張良の助言によったという話があります。留侯世家 第二十五に出ています。漢書の張陳王周伝第十にも同じ記事があります。史記をそのままもってきたのでしょう。

高祖が呂后の子供を廃して、戚夫人の子如意を立てそうな形勢で呂后は苦しんでいた訳ですが、ある人が呂后に
「留侯善畫計筴,上信用之。」
と言います。野口定男さんの訳によれば
“留侯はよく計策を立て陛下が信用しておられます。”
と進言しました。要するに張良の知恵を借りろということです。そこで呂后は建成侯である呂澤に命じて留侯を脅迫させた、(「呂后乃使建成侯呂澤劫留侯」)とあるのが驚きです。日との知恵を借りようというのに脅かした()のです。しかし文面からすれば
「君常為上謀臣,今上欲易太子,君安得高枕而臥乎?」
即ち
“あなたは常に陛下の謀臣です。いま、陛下が太子をかえようとのぞんでおられますのに、あなたはどうして枕を高くして横臥しているのですか。”
ですから責めると言っても大して強くない程度に見えます。(この言葉の本当のニュアンスは私にはわかりません。)

で、結局高祖が招致できない四人の老人(商山の四皓と呼ばれる人)を今の太子の補佐をさせるような形にしてはどうか、と提案します。
そこで呂后は呂澤に命じて太子の書面を以て辞をひくくし、礼を厚くして呂澤のところの賓客にします。のちに宴席で太子を輔佐しているような形で、高祖に紹介します。高祖は偉い四人の老人が輔佐している以上、後継者としての太子を廃さない、という今風の表現なら、斜め上の結論をひねり出します。
これはいかにも作り事に見えます。四人が提案した史記に書いてあるものと言えば、鯨布が反乱を起こし、太子が鎮定軍の総大将として送り出されそうとするときに、これで太子が出かけて手柄を立てそこなったら禍を招き、逆に成功してもこれ以上偉くなれない。しかも部下として連れていくは歴戦の猛将で、若年未経験の太子には制御できない。だから高祖自ら征伐するように仕向けるべき、と呂澤に言ったことだけです。呂澤から呂后を通じて高祖が自ら出馬するようになりました。
これは高祖に直接提案されるような話ではありません。
即ち高祖にとっては四人の老人は評判だけ聞いている人です。
高祖は建言において聞くべき話なら聞き入れています。だから成功したのです。聞くべき建言を述べてくれる人、あるいは手柄を建てた武将は優れた人材と評価します。でも偉いという評判の人が輔佐したことだけで、かねて自分に似ず、仁弱と評価している太子を最終的に跡継ぎに決める、というのはおかしな話です。

この張良の助言とその後の流れについて古来偉い人がどのような論を建てているのか存じませんが、私は納得できません。むしろ張良を含む臣下が、正嫡の長子を捨てて、下の側室の子供を立てることを諌めたからしぶしぶ聞き入れたと思っています。

しかしとにかく呂后の子供は太子の地位を剥奪されずに済んだのです。
そして高祖は死に、太子が帝位に就きます。さあ、そこからが冷酷で権勢欲の強い呂后の出番です。





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