さて臧児の娘が栗姫に代わって王皇后(景帝の皇后)になったことはすでに述べています。これには陰謀家の嫖(=館陶長公、主文帝の娘)がからんでいて、その陰険な策謀は「外戚伝 第六十七上(7) -王皇后(ii)-」に書いた通りです。そしてその王皇后には一男三女が生まれたのですが、そのうちの男子に嫖は自分の娘を押し付けたこともすでに記した通りです。外戚になれば一族郎党高位にのぼり贅沢ができるのですが、そのためにはそもそも外戚にならないと話になりません。
王皇后の男子は立って皇帝になりました。これが前漢の武帝です。その結果、この男子に嫁していた嫖の娘は皇后(陳皇后、嫖の夫は陳午という)になります。嫖の計画はうまく行ったのです。彼女について漢書には
「及帝即位,立為皇后,擅寵驕貴,十餘年而無子」
との記述があります。
小竹武夫さんの訳によれば
“帝が即位すると、立って皇后となり、寵愛をほしいままにして尊貴に驕り、十余年を経ても子がなかった”
です。寵愛され、贅沢ができたのでしょうが、子供ができなかったのは不幸なことでした。しかも陳皇后はさらなる不幸に襲われます。強力なライバル衛子夫が現れました。衛子夫が寵愛を受けている話を聞いて陳皇后はほとんど死なんばかりでした。ここで何をやったか、というと
「后又挾婦人媚道,頗覺」
とあります。この部分の小竹さんの訳は
“皇后はまたひそかに婦人の媚道を行い呪詛していたことが次第に発覚し”
となっています。婦人媚道とはどうも男の愛を得る呪術のようです。そしてそのいかがわしい行いの情報を得て武帝は徹底的調査を行います。そして
「女子楚服等坐為皇后巫蠱祠祭祝詛,大逆無道,相連及誅者三百餘人。楚服梟首於市」
ということになります。
“女子楚服らが皇后の巫蠱に祠祭祝詛したこと、大逆無道という罪に坐し、相連累して誅殺されたもの三百余もあった。楚服は市場でさらし首になった。”
と訳されています。巫蠱はまじない師という意味と、まじないで人を呪うことという意味があります。訳をよんでもなんとなくすっきりしません。楚服らが皇后のまじない師に神に災いをもたらすように呪詛させた、ということなのでしょうか。ここで誰が呪われたのでしょう?衛子夫なのでしょうか?
三百余名誅殺され、首謀者がさらし首ですから大変です。現代の日本では丑の刻に藁人形を神社のご神木に五寸釘で打ち付けて相手の死を祈っても、犯罪要件を構成しないので罪にもなりませんが、前漢の時代には大罪になってしまったのです。
そして陳皇后はといえば死罪にはなりませんでしたが、皇后を廃され長門宮に閉じ込められました。
この処分ののち、堂邑侯午(陳午)がなくなったという記述があります。堂邑侯は陰謀屋の嫖の夫です。午のあとは息子の須があとを継ぎましたが、いろいろ不都合があって自殺に追い込まれています。嫖にとってはつらい運命です。しかし彼女は
「主寡居,私近董偃」
とあります。小竹さんの訳では
“公主(嫖)は寡居してひそかに董偃(トウエン)に親しんだ”
とあります。ここで董偃は街で見かけて嫖が一目ぼれして引き取った美少年で、不義密通の相手になったそうです。董偃は三十で亡くなりましたが、なんと公主は夫の陳午ではなくて情夫の董偃と合葬されることを希望して死んだのでそのようにされているのだそうです。

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