2013年7月22日月曜日

三国志 蜀書;諸葛亮伝第五 (5)



諸葛亮の人柄については、公平無私で周囲から非常に尊敬されていたようです。

これではあまりにありきたりでつまらないことを書いているようですが、周囲の人がこれだけのことを言ってくれる人はあまりいないと思います。

我が身に引き比べるのは、と申しても我が身は天下国家に関係ないし、あまりに桁違いで烏滸がましいですが、我が身を考えたって、関わりあった狭い世間でどの程度のことを言われるかといえば、そもそも話題にならないか、大したことのない評価とおもいます。

すでにこのブログの先主伝第二 (2)の中で、司馬懿が諸葛亮に送った手紙の中で、(魏に下った)黄権が司馬懿に対していつも諸葛亮を話題にし、賛美している、と書いてあるという話を挙げました。

蜀の成都の人であった張裔は「公(諸葛亮)、賞は遠きを遺さず、罰は近きに阿らず、爵は功なきを以て取るべからず、刑は貴勢を以て免るべからず。これは賢愚の僉(みな)その身を忘るる所以のものなり。」と常に諸葛亮をたたえていたそうです。(蜀書 張裔伝)

楊戯は「季漢輔臣賛」を表し、その中で諸葛亮について「忠武侯(諸葛亮)は英明高邁であり武を整え文を斉え、徳教を敷陳べ、物を理め風を移し、賢愚心を競い、僉(みな)その身を忘る」と書いています。(蜀書 楊戯伝)
「季漢輔臣賛」は陳寿が列伝を書くときの人選に参考になったようで、楊戯が称賛し記述したものの多くは蜀書に記載する人物である、と書いています。しかしこの蜀書にも取り入れられている「季漢輔臣賛」の内容をみると概ね当たり障りのない賛辞で、ここで褒められてもそんなにありがたくないです。

以下は左遷された人の話です。

廖立は自分を高く評価し、官位について不平不満の結果人を誹謗中傷し、それを知った諸葛亮の上表により職を免ぜられ、庶民に落とされて汶山に流されました。諸葛亮の死を聞いた廖立は、蜀書によれば「垂泣して歎じて曰く吾終に左袵(野蛮人)と為らん。」、つまり涙を流して俺はとうとう野蛮人でおわりか、と嘆いたのです。(蜀書 廖立伝)

李厳は兵糧を諸葛亮に供給が間に合わなくなって諸葛亮の軍を呼び返し、そのあとで兵糧は足りていたのになぜ軍を返したかと驚いたふりをして、兵糧供給責任を果たせなかった責任のがれをし、進軍しなかった諸葛亮の責任を問題にしようとしました。その結果、諸葛亮が上表し、李厳は罷免されて梓潼郡に流されました。当時李平と改名していた彼は、「平は亮が卒するを聞き、病を發っして死す。」ということになります。常日頃彼は諸葛亮が自分を復活させてくれることを願っていたが後継者では無理と思い、激しく憤って死んだそうです。(蜀書 李厳伝)ただし、三国志の記述をみると、もともとは長雨で兵糧の輸送がつながらなかったので李厳は諸葛亮に連絡し、諸葛亮も承諾して兵を返したという説明なので、なぜ李厳はあとでくだらない小細工をしたのかは私には謎です。

廖立も李厳も自分に非があって処罰されたことは認めています。処罰が不当で、諸葛亮が無能で魅力のない人なら諸葛亮にもう一度使ってもらいたいという希望は持たないと思います。諸葛亮に認めてもらう、ということが官位が上がるとかとは別に、その人のプライドになり得る人なのかと思います。

以下は処刑された人の話です。

街亭の敗戦の責任により誅殺された馬謖は死にあたって諸葛亮に手紙を送り、「明公(諸葛亮)は謖(自分)を子のように視られ、謖は明公を父のように視ておりました。どうか鯀を殺して禹を引き立てた義をお考えになってください。平生の交わり此においてそこなわないようにしてくだされば、謖は死すとも黃壤(冥土)で恨みません。」(蜀書 馬良伝)と書いております。
舜は鯀に黄河の治水を担当し、年やって成果が出せなかったので鯀を死に追いやったのです。(史記 夏本紀第二)(私のような)無能な人間は誅殺して、もっと優秀な人材を挙げて下さい、というところでしょうか。

彭ヨウ(羊の下に永))は劉璋の時代に刑を受けて労役囚になりましたが劉備が入って来たとき、劉備に使ってもらおうと、龐統を訪問してまず龐統に評価されました。彭ヨウは法正とは旧知だったので、龐統と法正が一緒に劉備のところへ連れていってくれて紹介してくれました。劉備にも評価され、抜擢されました。

しかしこれから先がよくなくて、囚人から一躍抜擢されたので思い上がり、態度が大きくなって顰蹙を買うようになったのです。
それで左遷の憂き目にあうのですが、この時に馬超のところへ行き、不満のあまり微妙なことを言います。「卿爲其外、我爲其、天下不足定也」、つまり卿が外を為し、我が内を為せば天下は思い通り」というのです。
馬超が驚いてこれを報告した結果、彭ヨウは死刑になります。殺される前に彼が諸葛亮に送った手紙が蜀書にあります。その中で「至於外之言、欲使孟起立功北州、戮力主公、共討曹操耳。」とありますので、“内と外といったのは、馬超(字は孟起)に北方の州で功を立てさせ、主君に力を合わせ、共に曹操を討とうと言ったのです。”ということですが、これはちょっと苦しい言い訳ですね。その後「足下、當世伊呂也、宜善與主公計事、濟其大猷。」と言っています。“あなた様は当世の伊尹、呂尚にもあたる人でよろしく主人と計って大事を成し遂げて下さい。」とあります。

馬謖も彭ヨウも、もう自分は死罪に決まっているけれど、それでも諸葛亮には何かを訴えたかった、あるいはわかってもらいたかったのでしょう。




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2013年7月21日日曜日

三国志 蜀書;諸葛亮伝第五、馬良伝、王平伝



ここでは、諸葛亮伝の他、馬良伝と王平伝を上げています。馬良伝を挙げたのは、馬良伝の中にその弟の馬謖伝が入っているからです。その馬良伝さえも、董劉馬陳董呂伝第九という合伝の中の一つです。王平伝も黄李呂馬王張伝第十三の中の一つです。

諸葛亮、馬謖、王平が関わるのは、“孔明涙を揮(フル)って馬謖を斬る”で有名な街亭の戦いです。諸葛亮は南方を征伐したあとで、いよいよ宿敵魏と対決することになります。有名な出師の表を出し、大軍を率いて出陣します。

その出鼻をくじかれたのがこの街亭の戦です。
諸葛亮伝の記述は次の通りです。
「亮使馬謖督諸軍在前、與郃戰于街亭。謖、違亮節度、舉動失宜、大爲郃所破。」
井波律子さんの訳では“諸葛亮は馬謖に諸軍を指揮させて先鋒とし、張郃と街亭で戦わせたが、馬謖は諸葛亮の指示にそむき、行動は妥当性を欠き、張郃に大敗した。”となっております。

馬謖は諸葛亮の指示(中身は不明です。)に背いて、その上よろしからざる行動(これも内容不明)をして大敗、ということです。ここでは事情はあまりよくわかりません。
さらにこのあと「戮謖、以謝衆」とありますから、馬謖を死刑にしてみんなに謝罪した、ということになります。

馬良伝の中の馬謖伝の部分では以下の通りです。
而亮違衆、拔謖、統大衆在前、與魏將張郃戰于街亭。爲郃所破、士卒離散。......謖、下獄物故、亮爲之流涕。」
井波さんの訳では“諸葛亮は人々の意見に反して馬謖を抜擢して先鋒とし、大軍をひきいて前方にやり、魏の将軍張郃と街亭で戦わせたが、張郃によってうち破られ、軍兵は散り散りになった。……馬謖は投獄されて死に、諸葛亮は彼のために涙を流した。”となっています。

諸葛亮はみんなの意見を無視して馬謖を抜擢して使ったら大敗してしまった、ということになります。馬謖についてはただ大敗したことしかわかりません。

王平伝では
「屬參軍馬謖先鋒。謖、舍水上山、舉措煩擾。平、連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。」
井波さんの訳は次の通りです。“参軍馬謖の先鋒に所属した。馬謖は水路を捨てて山に上って陣を構え、指示することは煩雑をきわめた。王平は何度も馬謖を諌めたけれど、馬謖は取り上げず、街亭で大敗を喫することになった。”

なお、王平伝によれば責任を取らされて斬られたのは馬謖だけではなく、張休、李盛の二将軍も処刑されています。

ここでは山で水の確保が難しいのに、それを見捨てて山に上がってしまい、水を断たれて包囲されたことが覗えます。指示が煩雑だというのは、形式や修辞にこだわったか、馬謖の頭が整理されていなくて、部下が何をどうして欲しいか分かりにくい指示を出していたのでしょうか。

全体をもう一度纏めると、次のようになります。
(1)馬謖伝によれば、諸葛亮は他の人の意見を退けて馬謖を抜擢して先鋒にした。

(2)諸葛亮伝によれば、馬謖は諸葛亮のアドバイス(内容は不明です)にたがうことをし、行動も適正を欠いて(これの内容も不明)大敗した。

(3)王平伝でようやく馬謖の失態の内容が出てきます。馬謖は、水の確保を無視して山の上に陣取った。また指示が煩雑で(おそらくは)部下がどうして貰いたいのかわからなかった。王平は、王平伝によれば教養はなくて、字も十字足らずしか知らなかったのですが実戦を知っていました。経験豊富な彼からみれば馬謖の布陣は危険であり、また知識教養に乏しい彼からみれば馬謖の指示はわけのわからないものだったのでしょう。その忠告を無視してしまったのです。馬謖は王平のような無教養な人を馬鹿にしていたのかも知れません。

私は馬謖が諸葛亮が南蛮征伐に出た時に、従軍したのかと思っていました。
それは諸葛亮が馬謖に意見を求めたのに対して馬謖が、”南蛮人は叛服常ないもので、今日これを破っても、明日はまた叛きます。根本的な解決をしようと全滅させるのは仁の道に反するし、これも容易でありません。城を攻めるのではなく、心を攻め、心を屈服させるのがよろしいです。”という回答をしたというのを読んだことがあるからです。
こういう回答は諸葛亮の心に適うものだし、頭のよい回答に見えます。

しかし実際は、南蛮征伐にあたって馬謖は諸葛亮を数十里の間みおくっただけでした。とすれば、馬謖がいかに諸葛亮の心に適うことを言っていたとしても、実戦で苦労したことがないことになります。

身の周りにいて、政治や軍事についても適切なことを言っていた人間を信用して、抜擢してみたらうまくいかなかったのです。この点は神様でない諸葛亮でも見損じをしたというべきなのでしょう。

馬謖を斬るのを責任逃れのように言う人もいますが、昔の中国で敗軍の将を斬ることはそんなに珍しい話でなく殊更責任逃れと言い立てるほどのことはないと思います。むしろ可愛がっていた馬謖についても情に流されて庇ったりせず筋をとおして斬ることの方が人々を納得させるのではないでしょうか。

馬謖を斬れば抜擢した自分にも非があったことを認めなければなりません。自分の地位も下げて右将軍になっています。他の親しくない大将なら斬ってしまうところを、自分が可愛がって抜擢した馬謖なら自分の非を認めたくないから庇って有耶無耶にする、というのよりはよほどまし、と思います。



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2013年7月17日水曜日

三国志 蜀書;諸葛亮伝第五 (4)



諸葛亮は劉備軍が当陽で敗れかろうじて夏口まで逃げた時に、劉備に提案して呉の救援を求めるために呉へ行きたいと提案して、呉へ行きます。
ここで彼の外交能力が発揮されます。これは関羽や張飛、あるいは趙雲ではどうにも勤まらない舞台です。

三国志演義の中では初めに、多くの孫権の(和平派)臣下と論戦したことになっていますが、正史の蜀書 諸葛亮伝(井波律子訳)では孫権を説得した話のみ記載されています。

説得の流れはまず、曹操に対して戦うか、降伏するか早く決めないと禍を招きます、と説きます。これは理にかなった話でその通りでしょう。これで孫権が諸葛亮に、なぜ劉豫州(劉備)は曹操に従わないかと言わせます。諸葛亮は、劉豫州は王室の後裔にしてその英才は世に卓絶している、争ってだめならそれは天命。どうして曹操の下につくことができましょうか、と答えます。これで孫権に、ならばどうして呉の土地と十万の軍を持つ自分が降伏しようか、とまず言わせています。

そのあと諸葛亮は以下の論理を述べます。
敗れたりとはいえ、残兵と関羽の水軍合わせて一万、劉琦(劉表の長男)の江夏の軍が一万ある。
曹操の遠征軍は強行軍でやってきて「強弩も勢いつきては(薄い)魯縞さえ破れない」状態である。
北方の人間は(長江での)水戦に不慣れである。
荊州の人間はまだこころから曹操に従っていない。
よって呉が数万の兵をだして、勇猛なる大将に率いさせ、劉備軍と力をあわせれば撃ち破れる。

こうした事でも、格下の人間がピントの外れた話をしても相手にもなりません。そこそこの家柄の名士であり、頭もよく堂々たる論陣を張れるので、使いとして相手にされ、成功したと思います。(私にその格上の人の迫力のある外交を説明する資格はないのですが

彼の見識、能力から出る整理された話が説得力をもち、孫権、および呉の力のある人間(周瑜、魯粛など)をして劉備軍と一緒に魏と戦おうという気を強くさせたはずです。ここで彼は外交的成功を収め、その後の天下の流れに大きな影響を与えたことになります。

呉の臣下にも主戦派と和平派がいたことは事実で、その動揺を招きかねない和平派をおさえこめるだけの論理的説得力はいずれにせよ必要だったので、諸葛亮の話は呉の内部の主戦派に力を与えるものだったでしょう。

一方、この同盟が追い詰められた劉備のために諸葛亮の舌先三寸だけでまとめた話とは思えません。それでは呉は協力する価値もない者に利用されただけで、まるで馬鹿みたいです。
説明の根拠の一つとなる、“残兵と関羽の水軍合わせて一万、劉琦(劉表の長男)の江夏の軍が一万ある”、という、”(同盟軍としての価値のある)兵力は残している”という説明は本当だったのでしょう。

実際、三国志 魏書 武帝紀第一では赤壁の戦い部分は、「公至赤壁與備戰、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡」で、井波律子さんの訳では“()公は赤壁に到着し劉備と戦ったが負け戦になった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍を引き上げて帰還した。劉備はかくて荊州管下の江南の諸郡と支配することとなった。”です。つまり、正史の武帝紀では曹操は赤壁で劉備と戦ったのです。

また三国志 蜀書 先主伝では「先主遣諸葛亮、自結於孫權。權、遣周瑜程普等、水軍數萬、與先主幷力、與曹公戰於赤壁、大破之、焚其舟船。先主與軍水陸並進、追到南郡。時又疾疫、北軍多死、曹公引歸。となっていて、井波律子さんの訳では“先主は諸葛亮を派遣して孫権と手を結んだ。孫権は周瑜、程普ら水軍数万を送って、先主と力を合わせ、曹公と赤壁において戦い、大いにこれを打ち破って、その軍船を燃やした。先主と呉軍は水陸平行して進み、追撃して南軍に到着した。このときまた流行病が広がり北軍(曹操軍)に多数の死者がでたため、曹公は撤退して(許に)帰った。”です。
ここでは劉備の軍は呉軍と協力して曹操軍を打ち破ったことになっています。

さらに三国志 蜀書 諸葛亮伝では「權大悅、卽遣周瑜、程普、魯肅等水軍三萬。隨亮詣先主、幷力拒曹公。曹公、敗於赤壁、引軍歸鄴」で井波律子さんの訳では“孫権はおおいに喜び、すぐさま、周瑜・程普・魯粛ら水軍三万を派遣し、諸葛亮について先主のもとに行かせ、力を合わせて曹公を防がせた。曹公は赤壁で敗北し、軍勢を引き上げ鄴に帰った。”です。
ここの表現では周瑜・程普・魯粛が諸葛亮に同行して劉備のところへ行き、協力して曹操を打ち破ったことになっています。

つまり劉備の兵力が問題にならないものではなく、劉備軍は呉が戦いに乗り出す背中を押すだけの価値があったし、それを諸葛亮は呉にうまく説明できたのだと思います。

逆に劉備軍に全く力がないのなら、呉にとって話を聞く価値はなく、単独で曹操とどうするか決めることになります。長江の向こうに降伏した荊州があり、その荊州の水軍が上流側にいます。そして曹操の大軍がいるのです。曹操が全部とっておしまいという可能性もあったと思います。

三国志演義の諸葛亮の話が、矢を一晩に十万本集めたとか、東南の風を吹かせただとか荒唐無稽な話が多くて、却って赤壁の戦いにおける劉備軍の価値を下げているように見えます。



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2013年7月16日火曜日

三国志 蜀書;諸葛亮伝第五 (3)



劉備が亡くなった時に、諸葛亮宛に魏の諸臣から、すなわち司徒の華歆、司空の王朗、尚書令の陳羣、太史令の許芝、謁者僕射の諸葛璋のそれぞれから手紙が来て、いずれもが天下の大勢を論じて国を挙げて魏に下るように勧めてきました。
これは名士からの忠告というよりは、劉備が亡くなり、劉禅があとを継いだ時点で、人心が不安になる要素があるところで、こうした勧誘により更に動揺が走ることを期待した可能性もあります。
諸葛亮はこれらに返事を出さず、「正議」(諸葛丞相集)を表して群臣に示しています。主旨は正義が勝つ、という議論です。
項羽は徳義によらず旗揚げし、そして帝王ほどの力を持ちながらついに敗けて殺され、長く後世のいましめになった。魏もその類なのにそれに続いている。(魏の)二、三の長老が指図されて手紙をよこしたが、それは陳崇と張竦が王莽を賛美した趣きがある。(陳崇と張竦のゴマすり文書については前に漢書;王莽伝第六十九(1)に書きました。)王莽の四十万の大軍は数千の光武帝の軍に敗れている。道義をもとに悪人を討伐する場合、人数の多寡は問題にならない。曹操は張郃を数十万の軍で救援しようとしたが、失敗し、やっと脱出できただけで漢中の地をうしなった

なお、ここでちょっと脇道にそれますが、筑摩書房の井波律子さんの三国志、蜀書の訳では諸葛亮の「正議」の訳の中で項羽について“皇帝の権力を持ちながら結局釜ゆでの刑を受け”となっています。しかし項羽が釜茹でになったとは聞いたことがない話です。原文は“湯鑊二就キ”で、この部分について植村清二さんはその著「諸葛孔明」(筑摩書房)において湯鑊のうしろに括弧をつけ誅戮と書いておられます。たぶん植村さんの書かれていることが正しいと思うのですが

この「正議」の主張は部下の士気を鼓舞するために述べた面も勿論あるとは思いますが、諸葛亮自身も、曹操が後漢の王朝内で勢力を伸ばす中で、彼を憎んで倒そうとして、逆に倒された人々と同じように、曹操を簒奪者という目で見ていたのではないでしょうか。また曹操の軍の略奪、殺戮を民がおそれていたこと、劉備が人望があったことを知っていた当時の人間の一人として、全力を挙げて漢朝に繋がる劉備を助けたかったのではないでしょうか。

王朝が交代するのは当然、簒奪の何が悪い、という見方もある現代人には曹操を否定する強い理由がなく、上記のような諸葛亮観はつまらないものに見えるかも知れません。

しかし、逆に単純に簒奪の何が悪い、というだけだとでたらめに陥るのではないでしょうか。
司馬懿、司馬師、司馬昭が力を伸ばしていくときに、これに不満と抱いて、反抗を試みて滅亡したものが何人もおります。
たとえば毌丘儉という将軍は司馬師を魏帝に対する不忠として非難し、文欽とともに反乱を起こしますが結局敗れて死にます。(三国志 魏書 王毌諸葛鄧鐘伝第二十六)この将軍について習鑿歯は、毌丘儉は(魏の)明帝の遺命に感激して戦いを起こした、行動は不成功だったが忠臣である、と言っています。
習鑿歯のような見方はできると思います。
しかし簒奪の何が悪い、という人からみれば、何も曹氏に義理立てすることはない、司馬氏が権力を奪い取るならそっちに着けばよいのだ、ということになりかねません。これは甚だ寂しい君臣関係(あるいは人間関係)です。

しかるが故に、古くさいように見えて、諸葛亮の劉備、劉禅に対する態度に人間関係のよさを感じてそちらに惹かれるのです。



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