2017年4月1日土曜日

論語(3);史記孔子世家 第十七 -(ii)-

孔子が再び魯に戻ったあと、斉の景公への政治についての献言の話が続きます。これらの献言が以外と面白くないのです。

斉の景公が晏嬰とともに魯にやってきて、秦の穆公が僻地にいたのになぜ覇者になれたか孔子に質問します。これに対して孔子は、「秦は国は小さかったけれど、志が偉大で、行いが中正で(秦,國雖小,其志大;處雖辟,行中正。)、しかも優れた人材を登用したのだから、本来王者になれたのだ。覇者にとどまったのは(むしろ)卑小だ、」と答えます。
カッコ内に挙げた部分は原文で主語は書いてないのですが、国は小さいけど穆公の志が大きく、土地は僻地だったが穆公の行いが中正(偏らず正しい)ととるのだと思っています。

これを聞いて景公は喜んだそうです。
確かに現今の会社だって、社長が中正にして有能な人材に力を揮わせたら業績は上がるでしょうね。しかしこれはそんなに重大な示唆なのでしょうか?

つぎに出てくる、景公が政治を孔子に質問した時の問答は以下の通りです。
景公問政孔子,孔子曰:「君君,臣臣,父父,子子。」(論語 顔淵第十二)
つまり政を景公が問うたのに対し、
“君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです。”
と答えたわけです。古代中国語を知らないですが、この言葉は、見た目は気の利いたに文に見えるのかもしれません。しかし内容はそう実のあるものには見えません。
君、臣、父、子がそれぞれ従来の慣習に従えばうまくいくというほどに政治は簡単でしょうか?


そのあとで孔子は景公に
政在節財
といいます。政治の要諦は節約だと説きます。そこで(単純な人らしい)景公は喜んで孔子を封じようとします。しかしここで先に話にでた晏嬰が進言します。

夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順,不可以為下;崇喪遂哀,破產厚葬,不可以為俗;游說乞貸,不可以為國。・・・今孔子盛容飾,繁登降之禮,趨詳之節,累世不能殫其學,當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗,非所以先細民也。

守屋洋さんの訳(意訳)によれば
“儒者は口がうまいのです。ですが、かれらの言うことをそのまま実行にうつしたら、とんでもないことになります。かれらは傲慢で自信家ですから、下役人として使うことができません。また彼らは服喪の礼を重視し、家産を傾けても葬儀を盛んにしますが、それを人民がみならったらこれまたとんでもないことになります。そのうえ、かれらは諸国を遊説して乞食まがいのことまでしています。そんな連中に国の政治をまかせてはなりません。・・・今孔子は儀礼を盛んに飾り、登降、歩行の礼を煩雑にしました。今の世に古の礼を復活しようとしても徒労に終わることは明らかです。わが君がこのような人物を任用されるのは、決して人民のためにするゆえんではありません。”
です。

一方孔子の方は晏嬰を高く評価しています。論語の中に晏嬰をほめたことばがあります。しかし実務家である晏嬰の方は孔子を否定しています。

晏嬰は儒家の政治の実務についての見識に危うさを見たのかもしれません。一方において、この件については、孔子を登用しようとした経緯が、孔子が「政治の要諦は財政の節約」と言ったのを景公が喜んで孔子を封じようとしたということですから、老練な政治家晏嬰でなくてもちょっと待ってください、と言いたくはなると思います。


しかし、個人道徳において聞くべき言が多々ありながら、政治そのものになるとどうもからまわり、という体質が儒家にはあるのではないでしょうか。





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2017年3月25日土曜日

論語(2);史記孔子世家 第十七 -(i)-

史記で孔子の生涯をみてみます。
よく知られているように、孔子の伝記はについては代々続く諸侯なみに世家(孔子世家第十七)として記述されています。まず今の山東省の陬邑(スウユウ)に生まれた、と書かれています。そして、”先祖は宋の人で、孔防叔といった。防叔が伯夏を産み、伯夏が叔梁紇を産んだ。”という記述があります。ここで叔梁紇(シュクリョウコツ)が孔子の父で、姓は孔で名が紇、字が叔梁です。

さてここで
紇與顏氏女野合而生孔子」
といきなり書かれています。すなわち、紇は顔氏(顔は姓)と野合し、孔子を産んだのです。そもそも当時の婚姻の制度がどうなっているか私は知りませんで、その後の父と母がいかなる関係だったのかもよくわかりません。
孔子が生まれてから父は死んだのですが、母が野合を諱んで、孔子に墓所を教えませんでした。正式の結婚をせず野合は体裁わるいですが、だからといって葬ったところを教えないとはよく理解できないところです。なお、孔子家語によれば父親が死んだのは孔子が三歳の時だそうです。
子供のころ遊戯をするとき常に礼器(祭祀の道具)をならべ、礼式を整えたのだそうです。あまり可愛げがないですね。
幼児のころ肝心の生活がどうなっていたのか、史記ではわかりません。

史記には記述がないですが母(名前は徴在)は孔子が二十四歳の時に亡くなったそうです。そして史記によれば、母が死ぬと孔子は魯の城内の五父(ゴホ)の衢(ちまた)に仮殯(かりもがり)し、のちに父の墓所を教えてもらって合葬したとのことです。
だとすれば二十四歳の時孔子はまだ父の墓所を知らなかったことになります。

このような生い立ちからして容易に推察されるように
孔子貧且賤
という記述が出てきます。そしてこの文のすぐあとに「及長」という句があるので、貧にして賤であったのは子供のころのことだったのでしょう。このあとの文は
及長,嘗為季氏史,料量平;嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。」
です。野口定男さんの訳によれば
“成長するにおよんで、かつて倉庫の吏員になった。その料量は公平であった。かつて牛馬を牧養する司職の吏員になった。畜類は繁殖した。その功績で司空になった。”

司空という官位について野口さんは訳の註として単に(民事をつかさどる官)とだけ書いてどの程度えらいのか書いていません。なにはともあれ、孔子はどんな職でも全力を挙げて真面目に取り組み治績を挙げて順調に出世したように取れます。

その後、理由は書いてありませんが生まれ故郷の魯を離れることを余儀なくされ、各国で苦労をし、魯がまたよくしてくれるようになったので魯へもどったようです。
そして南宮敬叔という者が孔子と一緒に周へ行きたい、と魯王に嘆願し、その結果周で老子に会ったことが書かれています。これは孔子三十三~三十四歳のころだそうです。
この孔子世家においては、老子が孔子に与えた言葉は、以前に“老子韓非列伝 第三”で書いたのとは異なり、次のようです。
聰明深察而近於死者,好議人者也。博辯廣大危其身者,發人之惡者也。為人子者毋以有己,為人臣者毋以有己。
野口さんの訳によれば
“聡明で深く事理を察していながら、死ぬような目に遇うのは、他人を誹議することが好きなものだ。非情に能弁でよく物事に行きわたっていながら、その身を危うくするのは他人の悪をあばくものだ。人の子たるものは、我をもっていてはいけないし、人臣たるものは我をもっていてはいけない。”
要するに、前段では、人のことをあれこれ言ってはいけない、後段では我を立てようとしてはいけないと言っているのでしょう。
この部分は孔子の意見として書かれているわけではないのですが、孔子自身の考え方もこれに共通するところがあると思います。

処世のため、明哲保身の術としてならあまり魅力的ではないですが、個人のありかたとして、人のことをあれこれ言っても自分がえらいわけでもなく、人の悪をあばいても自分が誠意のある人という保証もされない、という認識は、心得ておくべきことと思います。





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2017年3月13日月曜日

論語(1);初めに

孔子の言葉として書かれた「論語」は今日にいたるまで読まれ続けています。しかし昔ほどには読まれず、内容を具体的に知っている人も減っていると思います。

日本においては江戸時代までは学者といえば儒学者(あるいは本草学者)のイメージがあったのではないかと思います。特に江戸時代においては伊藤仁斎、荻生徂徠、安井息軒などの大学者(=大儒)が輩出しました。

明治になって西洋の学問が流れ込み、学問としての儒学の勢いは相対的に衰えたと思います。
そして太平洋戦争の敗戦とともに、勢いを得たマルクス主義の影響などもあり、儒学思想はその尚古主義、秩序、上下関係尊重などの傾向から、無視される、あるいは否定的に扱われるようになり、ますます振るわない状態になっています。

孔子の学問を尊重して行こう、とする組織として私が知るのは湯島聖堂を本拠地とする斯文会です。斯文会は、明治十三年(1880)に岩倉具視と谷干城(西南戦争で熊本城に籠城した人)が斯文学会を創設したのに端を発し、その後明治四十年(1907)にできた孔子祭典会などを合わせて大正七年(1918)に斯文会となったものです。
私はこの組織自身も盛んとは言えない状況とみています。講演会はありますが、内容は諸子百家、漢詩、史書などにわたり中国古典の一般教養であり、儒学について極めるものではありません。斯文会が振るわないように見えるもう一つの理由は、根拠地たる湯島聖堂自身建屋の魅力のなさではないかと思っています。湯島聖堂は、寛永九年(1632)に林羅山が孔子廟を上野に建て、元禄三年に徳川綱吉がこれを湯島に移し、聖堂としたものが続いていることになってはいますが、大正十二年(1923)の関東大震災で建物の殆どが焼失しています。そして昭和十年(1935)に規模、構造すべてもとの聖堂にならって再建したといいますが、鉄筋コンクリート造りにしてしまったのです。気の所為かもしれないが、甚だ有難味がなく、聖堂としてあがめるのにはものたりなく感じるのです。

私は現時点で儒者を名乗る文化人を知りません。私の知る限りでは、もっとも近年でもはっきりした儒者は京都大学教授だった吉川幸次郎先生(1904-1980)だけです。吉川幸次郎先生は孔子を尊敬し、自らを儒者と称し、善之という字(あざな)をもっていた人でした。
吉川先生も亡くなってすでにずいぶん経ちました。

しからば儒学は時世に遅れたとるに足らない倫理道徳の教えでしょうか?

私は必ずしもそうは思いません。これを否定するのは、上を批判する、既存の制度を批判する、政府を批判する、ということが儒家には無条件に肯定されていない、ということによる、と思っています。
論語では確かに為政者の治め方、上に立つものの心構えについて説いてはいますが、本質は仁のこころに基づいた個人のあり方について説いているものです。新約聖書だの臨済録だのに、社会の在り方だの変革処方を求めるのは、ないものねだりであると同様に、論語にそのようなものを求めるのもないものねだりと考えます。

逆に、たとえば君子が憎むものを聞かれた時の孔子のことば
惡稱人之惡者,惡居下流而訕上者,惡勇而無禮者,惡果敢而窒者
“人の悪いところを言い立てるものを憎む。低い身分にいて上役を悪くいうものを憎む。勇気はあるが礼儀がないものを憎む。果断であるが道理のわからないものを憎む。”
という孔子の言、そのあと孔子に逆に憎むものを聞かれた子貢の言、
惡徼以為知者,惡不孫以為勇者,惡訐以為直者
(他人の意を)伺い察して、それを智だとしているものを憎みますし、傲慢不遜でいて勇気とするのを憎みます。他人の秘密ごとをあばきたててまっすぐな人間と任じているものを憎みます。”
などのやりとりに、いつの世にも変わらぬ人間性への深い知恵、洞察力を感じます。

上記の問答はとりようによっては甚だ現状維持主義、権威主義にも見えますが、上の人、権威のある人を非難したり、悪いところところを暴露摘発して騒ぐ人間が案外陋劣で私利私欲にはしる人である、ということは現代でもありそうなことです。




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2017年2月6日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (11)

建安二十五年(220)に六十六歳で曹操はなくなります。

陳寿は武帝紀の評で以下のようなことを書いています。なお、あとで劉備の伝の評と比べてみます。

「・・・太祖運籌演謀、鞭撻宇、擥申商之法術、該韓白之奇策、官方授材、各因其器、矯情任算、不念舊惡、終能總御皇機、克成洪業者、惟其明略最優也。抑可謂非常之人、超世之傑矣。」

今鷹さん、井波さんの訳によれば、
・・・太祖は策略をめぐらし計画を立て、天下を鞭撻督励し、申不害、商鞅の法術をわがものとし、韓信・白起の奇策を包み込み、才能ある者に官職を授け、各人のもつ機能を利用し、自己の感情を抑えて冷静な計算に従い、昔の悪行を念頭に置かなかった。最後に天子の果たすべき機能を掌握し、大事業を成し遂げえたのは、ひとえにその明晰な機略がもっともすぐれていたためである。そもそも並みはずれた人物、時代を超えた英傑というべきであろう。“

ほめてはいますが、曹操という人間の特色もうかがえる書き方です。評の前段の記述によれば、申不害と商鞅の考え方に則ったということです。
二人は中国の戦国時代の同時代人で、申不害はBC337年、商鞅はBC338年に死んでいます。ともに刑名の学(法家系統)を修めた人です。
申不害は韓の宰相として昭侯に仕え、法律至上主義は韓非子につながるといいます。ただ商鞅のような酷薄非情なことをやったわけではなく、国はよく治まったといいます。商鞅は秦に仕えました。富国強兵、農耕・織物奨励、連座厳罰主義、信賞必罰主義の人で、司馬遷に、「その天資、酷薄の人なり」、と言われています。

韓信、白起も有能な人間ですが、人としては問題ありです。
韓信は、項羽のところから逃げてきた鍾離眜をかくまっていました。しかし自身が高祖(劉邦)から謀反の疑いを掛けられたとき、鍾離眜の首を斬って差し出せば疑念が晴れると言った人の言を信じ、自分を頼ってきた旧知の鍾離眜の首を高祖に差し出しました。しかし結局は自分も助かりませんでした。
白起は秦の優れた将軍です。しかし長平の戦いで降伏した趙の士卒数十万ををことごとく阬(あなうめ)してころしました。残虐な人だったのです。

曹操も袁紹との戦いで同じことをやっています。阬した人数は七万とも八万ともいいます。先輩に倣ったわけです。

要するに有能ではあるが、冷酷な人が比較すべき人として挙げられています。

不念舊惡」(旧悪を思わず)
と書かれましたが、自分が不愉快な目にあわされたりしてもいつまでも根に持たない、という意味なら立派ですが、「嫂(兄嫁)と密通し賄賂を受け取ったりはする」が有能で使えるならO.K.と殊更いうのはどうかと思われます。

「終能總御皇機」
の部分の今鷹さん、井波さんの訳は
“最後に天子の果たすべき機能を掌握し、”
ですがどういう意味なのでしょう?天子の仕事をすべて行えるようになった、ということなのでしょうか?だとすれば僭越のような気もします。

では劉備について陳寿はどう見ているのでしょう。先主伝の陳寿の評は以下のようなものです。
弘毅寬厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉。及其舉國託孤於諸葛亮而心神無貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機權幹略、不逮魏武、是以基宇亦狹。然、折而不撓、終不爲下者。抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。」

“度量が広くて意思が強く心が大きくて親切であって、人物を見分け士人を待遇した。思うに(漢の)高祖の面影があり、英雄の器であった。その国を挙げて遺児を諸葛亮に託し、心になんの疑惑も持たなかったこととなると、まことに君臣のあり方として最高のものであり、古今を通じての盛事である。権謀と才略にかけては、魏の武帝(曹操)に及ばす、これがため国土も狭かった。しかしながら敗れても屈伏せず、最後まで臣下とならなかったのは、そもそも彼(曹操)の度量からいって、絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、単に利を競うためというのではなく、同時に害悪を回避するためでもあったのである。”


劉備も非常にほめて書いてあります。彼については不徳をうかがわせるようなような記述がありません。以前にも書いたように、劉備は古代の人でありながら現代の人間からみても理不尽な残酷さが見えません。そして陳寿の見るところ彼は有能な人でもあったのです。




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2017年1月29日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (10)

曹操は建安十三年(208)六月に漢の丞相になりました。しかし同年十二月に赤壁の戦いで敗れました。とはいえその四年後である建安十七年(212)に特別扱いの臣下となります。
すなわち、拝謁の際に自分の名前を言わない、宮中での移動の際小走りに走らない、剣を帯び、履をはいて殿上に登れる、という特権をもつことになりました。
さらに建安十八年(213)に魏公になります。位人臣を極め、大権力者になった訳です。

そしてこの年、献帝は曹操の三人の娘を迎えて貴人(皇后の次の身分)にします。ただ一番小さい娘は国で成長をまつことにしたとのことですから、ずいぶん小さかったでしょうね。とにかく曹操は娘を帝に押し付ける位の力をもつようになったのです。

ところで三国志の裴松之註がここでは変なことになっています。三人の娘が貴人になった記述があって、これについて註があって「献帝起居注」を挙げて、(献帝は)王邑を使者として璧、帛(しろぎぬ)、玄纁(ゲンクン=赤黒いきぬ)、絹五万匹を結納として贈ったことなどが書かれています。
そして、その話の後に、馬超、韓遂を打ち破った話と、任地に赴く毌丘興(カンキュウコウ)に、羌族へ人を遣いにやってはならない、と曹操が忠告した話が続きます。
この毌丘興の話にも註がついているのですが、毌丘興とは関係なくて、なんとまた「献帝起居注」の引用がでてきて、王邑が二人の貴人(最年少の子はまだ国にとどまる)を迎えとった詳細がくどくど書いてあります。
裴松之が何かの手違いをしたとしかか思われません。

さてこの二人の貴人が入ったということは、現皇后の伏氏が邪魔になったということです。

そして翌年の建安十一年十一月に、伏氏が父親(伏完)に送った手紙で、献帝が董承(彼は献帝から曹操討伐の密勅を受けた。)が処刑されたことについて曹操に恨みを抱いている、と書いた件が発覚し(あるいは発覚したと称され)、伏氏はもとより伏完とその一族が処刑されます。死者は数百人に上ったとのことです。
仮に伏皇后が邪魔だったとしても伏皇后に何の罪がありましょう。曹操のやり方はなんとも冷酷なものです。


 かくて建安二十年(215)に献帝は曹操の真ん中の娘を皇后としました。思い通りにことが運んだわけです。

建安二十三年(218)に漢の大医令である吉本が少府の耿紀(コウキ)、司直の韋晃(イコウ)等と共謀して反乱を起こし、許を攻めます。結局これは失敗して彼らはみな死にます。彼らは、漢の帝位が魏に移項していくのが我慢できなかったのです。曹操は臣下として位も特権も上がる一方だったのですが、それが忠義な漢の臣下には、単なる昇進には見えず、曹操自身が権力を固めていく過程に見えたのでしょう。実際三国志の魏書にでてくる人材の多くは漢の臣というよりは魏の臣です。

この反乱事件の後始末で理不尽な話が「山陽公載記」に出てきます。この反乱で火が放たれたのですが、漢に仕える百官を鄴に召し寄せて、消火に加わったものは左、消火に加わらなかったものは右に集めます。
人々は消火に加わったといえば無罪になると考え、左につきました。すると曹操は消火に加わらなかったものは反乱を援助したはずはないが、消火に加わった者は反乱援助の賊だ、として全員殺した、とあります。こんなのは全く言いがかりというもので、漢の臣下であるものを無法に殺しているとしかみえません。





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2017年1月23日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (9)

さて袁紹の子供たちを滅ぼしたあと。建安十三年(208)の春正月に曹操は鄴に帰還し、六月に漢の丞相になります。

そして七月に曹操は南に向かいます。劉表征伐です。
「秋七月、公南征劉表」
と書かれています。

対する劉表は八月にあっけなく病死してしまいます。後を継いだ劉琮(リュウソウ)はなすすべがなく曹操に降伏し、曹操は首尾よく荊州をとります。

これに続くのが有名な赤壁の戦い(建安十三年十二月)です。
しかし、この三国志中の一大イベントについて、正史(魏書)の武帝紀ではおどろくほどあっさりとした記述しかありません。

公至赤壁與備戰、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。

たったこれだけです。今鷹さん、井波さんの訳によれば、

“公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦となった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。劉備はかくて荊州管下の江南の諸郡を支配することとなった。”
ということです。詳しい戦闘の様子の記述もなく、曹操や劉備の個性が躍動するようなエピソードもありません。

赤壁での敗戦の一年少々あとの建安十五年(210)の春に曹操は広く人材を求める布告をだします。この布告はある程度は有名なもので、曹操の考え方がでています。その布告のあとの方は次のようになっています。

「・・・若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?・・・」

今鷹さん、井波さんの訳によれば

“・・・もし必ず廉潔の人物であってはじめて起用するべきとすれば、斉の桓公はいったいどうして覇者となれたであろう。(管仲を指す)今天下に粗末な衣服を着ながら玉のごとき清潔さをもって渭水の岸辺で釣りをしている者(太公望呂尚を指す)が存在しないといえようか。また嫂(兄嫁)と密通し賄賂を受け取ったりはするが(才能をもち)魏無知にまだ巡り合っていない者(陳平を指す。魏無知に推挙される)が存在しないといえようか。”

この布告は首尾一貫していないところがあります。
人材は有能であればよく、必ずしも廉潔である必要はない、と言いながら、太公望を挙げていますが、彼はそこにも書かれているように清廉な人間で、渭水で釣りをしていた、とある通りです。斉の桓公に覇を唱えさせた人材として管仲を考えているとしたら、彼は特に悪徳がある訳ではありません。諸葛亮が自らを管仲に比していたくらいです。

結局廉潔でない代表例として出てくるのは陳平です。その為したる不徳が兄嫁との密通と、収賄です。そして曹操の人材観を表すことばとして妙に有名になり後世に残っています。

有能であれば聖人君子である必要がない、という意見は理解できるものです。政治・軍事でマキャベリストでもよいわけです。しかし聖人君子でない例が、兄嫁と関係し、賄賂も受け取る人なんてどうして挙げる必要があるのか理解に苦しみます。





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2016年12月12日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (8)

建安五年(200)八月に袁紹は前進し、合戦して曹操に対して優位にたちます。さらに袁紹は官渡にまで進出してきます。この時、曹操軍は食糧が足りなくなって、曹操はいったん許に帰ろうかと荀彧に相談します。
しかし、荀彧から今敵を制圧しなければ付け込まれる、と撤退に反対されます。ここで荀彧は、”曹操は武勇に優れ、英明でもあるし、天子を奉っているから正義もあるし、必ず成功します。”という説き方をしています。
すくなくも、荀彧は天子を奉戴する正義を信じていたのでしょう。しかし曹操は建前としてでもあまりそのような主張はしていなかったのではないでしょうか。

さて袁紹のところから逃げてきた許攸という者が曹操に、袁紹軍の糧秣を貯蔵している烏巣の淳于瓊らの軍の攻撃を進言します。曹操はその策を聞き入れ、本陣は曹洪にまかせ、曹操みずから攻撃にでます。

これに対し袁紹の方は、糧秣輸送軍の支援に力を尽くすよりも、むしろ曹操の本営を攻撃して撃破すれば糧秣輸送軍の方は自然になんとかなる、という提案にのり、曹洪が守る本営の攻撃に張郃、高覧を派遣する一方、烏巣には不十分な数の騎兵を応援にだします。しかし、糧秣輸送軍は打ち破られ、淳于瓊は死にます。一方曹操の本陣に向かった部隊は淳于瓊が敗けたことを知って曹操に降伏してしまいます。
これで袁紹軍は糧秣をすべて失い、本陣を攻めた張郃と高覧の兵を失って惨敗となります。

正史の記述の流れでは、曹操は正しい進言を採用し、袁紹は間違った意見を採った、ということになります。たしかに結果を見ればそのように見えます。
しかし曹操の果断さと軍事的センスの良さが成功をもたらした面があると思います。
曹操が袁紹の立場で曹洪の守る本営を大軍集中で攻撃したらこれを落とせたかもしれないし、あるいは逆に袁紹が曹操の立場なら、中途半端な烏巣攻撃で淳于瓊の軍に糧秣を守り切られてしまったかも知れないと思えるのです。
曹操は最終的には官渡の戦いに大勝し、許にもどりました。

一方、袁紹は敗れて這う這うの体で黄河を渡って逃れ、帰還しました。それからふたたび離散した兵を収容し、背いた諸郡県を平定しました。
しかし結局建安七年(202年)に病死します。

このあと袁紹の子供たち(長男の袁譚、三男の袁尚)は兄弟であらそって、曹操はこれに乗じて、旧袁紹の支配地はすべて取り込むことに成功します。





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