2022年9月27日火曜日

戦国策(2) -東周策(i) 秦興師臨周而求九鼎-

戦国策の一番初めに出てくる話です。

秦が兵を起こし周に至り、(周が殷から得た)九鼎をよこせと要求しました。鼎は三本足の鉄のかまです。鼎は王権の象徴ですが、これが九つセットだったのでしょうか。王権の象徴だから入手したかったのはわかりますが、書かれている限りはいきなり兵を興して九鼎を寄こせというのですからかなり乱暴な話です。周君が顔率に相談すると、斉に救援を求めるようにします、と言います。

ここですでに驚きです。そんな話をして斉が顔率の話を聞いてくれる保証はあるのでしょうか?古代中国ですから説得失敗で戻ったら死刑でもおかしくありません。しかも顔率の斉へ行っての説得は、次の通りです。「秦が無道で周に九鼎を要求しています。しかし周としては対策を立て尽くしたあげく秦へやるくらいならお国(斉)ものしてしまう方がまし、と結論しました。(斉にとっても)危ない国を助けるのは名誉なこと、九鼎を手に入れることは巨利です。」

つまり助けてくれたらそちら(斉)に九鼎を差し出すというのです。

これを聞いた斉王は喜び五万の兵を繰り出して周を救援し、秦は引き揚げます。

そうなると今度は九鼎を斉に渡す必要があります。ここで周君はまた憂慮したとあります。そもそも秦を追い払ってくれるならおたく()へ九鼎を上げる、などという馬鹿な約束に周君は賛成したのでしょうか?だとするなら周君もあんまり利口な人では見えないです。

そこで顔率はまた斉に行き斉王と話します。問答を簡単に書くと以下の流れです。突っ込みどころ満載です。

顔率「九鼎を献上しますが、どの道を使いますか。」

斉王「梁を通らせてもらう。」

顔率「梁の君臣は前から九鼎を狙っていて奪おうと少海(地名)のほとりでことを企んでいます。九鼎は一度梁へはいったらもう出てこないでしょう。」

斉王「なら楚を通らせてもらおう。」

顔率「楚の君臣も九鼎を狙っています。葉庭(葉県の宮廷)なかで(奪おうと)ことを企んでいます。九鼎は一度楚に入ったらもう出てきますまい。」

斉王「どの道で運んだらよいだろう」(斉王はなぜこんなことを今更聞くのかと思います。)

顔「そこが問題です。周が殷から九鼎を得た時、一つの鼎あたり九万人かけて運びました。合計で81万人かかります。運搬そのものが容易でありません。しかもたとえ人数をそろえてもどの道からだすかを気にしておりました。」

斉王「なんども来たくせにそれでは初めから渡すつもりがなかったのではないか。」

顔「欺く気などありません。速やかにどこから鼎を持ち出すかをお決め下さい。こちらでは鼎の座を遷して命をお待ちします。」

これで斉王は鼎をあきらめたとあります。こんな子供だましの問答でよく顔率が斉王に殺されなかったものと呆れるばかりです。




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戦国策(1) -はじめに-

 ここで戦国策について書こうと思います。

戦国策は漢の劉向(リュウキョウ)が宮中の蔵書を校定し編纂したものとのことです。文章は相当な名文とされています。しかし私には原文をみてもその名文をあじわう能力はありません。内容は中国の戦国時代の遊説の士の話です。他の書物にもでてくる有名な話柄を含みますが史書とはみなされていないようです。

出てくる話には、なるほどと思えるものもありますが、もし実行したらとてもうまく行きそうにない策略とか、進言したら自分が軽蔑されるのではないかと思われる讒言とか、そもそもこの話は本当なのか、というものも沢山含まれています。

細切れの他愛もない話が沢山あって、その中の多くはそう面白いものではない、という点は「イソップの寓話集」に似たところがあります。もっともイソップの方は登場するのに動物が多く、悪だくみといっても戦国策より単純なものなのですが




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2022年5月1日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(12) -鉤弋夫人-

 鉤弋夫人は趙姓でのちに倢伃(ショウヨ)の位を授かったので鉤弋趙倢予とも書かれたりします。武帝が狩猟に出て河間国に至った時、雲気を見て吉凶を占う者が奇女がいると進言したそうです。奇女とはどんな女かというと、両手が拳を握ったまま披(ひら)けないという女でした。多分美人なのでしょう。そして武帝がその女に会い、みずから披いてやると指がその場で伸びて手が披いたそうです。その結果武帝の寵愛を受けるようになりました。漢書にはそのように書いてありますが、これはちょっと出来すぎで、美人の娘を持った親の仕組んだ伝説づくりかと邪推してしまいます。鉤弋夫人は、弗を産んでいます。武帝はこの子(のちの昭帝)に期待し、後継者にしようと考えます。鉤弋夫人はそれで幸せになったか、というとそうはなりませんでした。

鉤弋婕妤從幸甘泉,有過見譴,以憂死,因葬雲陽」

との記述があります。小竹さんの訳によれば

“鉤弋婕伃は甘泉宮の行幸に従うたとき、過失があって(とが)めをうけた。そのため憂死し、よって雲陽に葬られた。”

とあります。あまりはっきりとは書いてありませんが、鉤弋夫人は些細な理由で死を賜ったようです。

死を賜った理由はのちの北魏で行われた「子貴母死制」と類似の考え方によると言う人もいます。この制度は嫡子が決まればその生母は殺される、というとんでもないものです。外戚がはびこることを防ぐ意味があったようです。しかし武帝の場合については鉤弋夫人が帝の後見になり専横のふるまいをするのを心配し、後々の問題を避けるために鉤弋婕伃を殺したという解釈になります。なお死を賜ったことについて別の説明もあります。歴史書ではないですが、晋の干宝の捜神記(東洋文庫 竹田晃・訳)に鉤弋夫人の項があり、これに鉤弋夫人は罪を犯して死刑に処せられたとあります。そして捜神記(東洋文庫)の竹田さんのこの部分の注には、専横を極めて武帝から死を賜った、とあります。

さて武帝が病に伏した時、上に述べた鉤弋夫人の生んだ弗が皇太子に立てられ、武帝崩御の後、皇帝として即位します。

(昭帝)が即位したので、母親である鉤弋夫人を追尊して皇太后としています。なお鉤弋夫人の父は法を犯して宮刑に処せられていましたが、追尊して順成侯とされました。しかし趙氏(鉤弋夫人の実家)から官位に就く者はいなかったそうです。皇帝の母の親戚であれば、大いに活躍できる地位につける機会はあったはずですが、その機会を掴んで力を振う人がいなかったようです。

先に書いた衛氏の一族は優秀でかつ野心もある人材が豊富でしたが、これとは対照的です。


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2022年3月26日土曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(11) -衛氏(ii)および李夫人-

 ところでこの陰惨な事件は早くもその翌年には房太子は無実である、ということがわかりました。当然ながら武帝は房太子のみならずその子供(自分の孫)まで皆殺しにしたのを非常に後悔しました。その結果房太子を陥れた江充を非常に憎み、江充本人はすでに房太子に殺されていたのですが、江充の一族は皆殺しにしました。しかし今更そんなことをしても取返しはつかないし、江充一族の者と言っても江充の巫蠱の工作の片棒を担いだならいざ知らず、何もかかわっていないのに処刑された者もいるでしょうから、こういう人にとっては気の毒な話です。

しかし少しは救いもあります。房太子の長男には夫人がおりました。この夫人は夫ともに殺されたのですが、すでに赤ん坊(病己)を生んでいました。この病己は房太子の孫にして武帝の玄孫になる訳です。気の毒にも彼は祖父の冤罪により獄につながれます。この時、邴吉(ヘイキツ)というものが廷尉監として巫蠱の事件を裁きました。彼は房太子が無実であることを知っていました。赤ん坊を哀れに思い、女囚に養育させます。その後彼は民間で成長しました。この赤ん坊ののちの名前は詢といいます。これが運命のいたずらにより後に宣帝になります。

なお劉詢を保護した邴吉については、このブログの3つ目の記事「漢書;魏相邴吉伝第四十四」に書いております。

衛夫人の生前、彼女の容色の衰えたあと、王夫人、李夫人が寵愛を受けますが早世しています。さらに尹捷伃(インショウヨ)、鉤弋(コウヨク)夫人が寵愛されます。このうち李夫人と鉤弋夫人にはエピソードがあります。

李夫人はもともと楽人でした。彼女には李延年という兄がおり、これが大変歌がうまかったそうです。あるとき武帝の前で

「北方有佳人,絕世而獨立,一顧傾人城,再顧傾人國。寧不知傾城與傾國,佳人難再得!」

と歌いました。小竹さんの訳によれば

“北方に佳人あり、世を絶して独り立ち、

一顧して人の城を傾け、再顧して人の国を傾く。

なんぞ傾城と傾国を知らざらん、

佳人再びは得がたし。“

となります。傾城、傾国という美人を指す言葉はここから由来するのだそうです。

この歌を聞いて武帝はそんな人がいるのかと言い、武帝の姉の平陽公主が李延年に妹がいることを告げました。実際に武帝が召し出してみると綺麗で舞が上手でした。彼女は哀王を生んでいます。李夫人の病が篤くなったとき武帝が彼女を見舞いに行きました。しかし李夫人は容色の衰えた顔を頑として武帝に見せませんでした。武帝は不興げに帰りました。姉妹がなぜ顔をみせて兄弟のことを頼んでくれないのか聞いたところ、李夫人は現実を見据えた言を吐きます。

「所以不欲見帝者,乃欲以深託兄弟也。我以容貌之好,得從微賤愛幸於上。夫以色事人者,色衰而愛弛,愛弛則恩絕。上所以攣攣顧念我者,乃以平生容貌也。今見我毀壞,顏色非故,必畏惡吐棄我,意尚肯復追思閔錄其兄弟哉!」

と言います。“顔を帝に見せないのはもっと深く兄弟のことをお頼みしたかったからです。自分は容貌がよいために微賤の身から皇帝の寵愛を受けることができました。容色を以て人に仕える者は容色が衰えれば愛が衰え、愛が衰えれば恩が絶えるものです。帝が自分のことを心に掛けてくれるのは平生の容貌によります。いま私の崩れはて、かつての面影もない顔色を見せたら自分を唾棄したくなられるでしょう。そうなってしまってから帝は私を追慕し、兄弟を憐れんでくださるものでしょうか。」

真実の愛なんてないものねだりで、皇帝の愛なんて所詮は外見に惚れただけのこと。と言っています。シビアですが、この李夫人の言と、その行動には強い意志と知性を感じます。逆に皇帝は美貌のみならず彼女の知性にも惹かれていたのではないでしょうか。



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2022年3月21日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(10) -衛氏(i)-

さていよいよ陳皇后の次に立つ衛皇后(あざな子夫とあります。)の話になります。彼女は武帝の姉である平陽公主の歌手でありました。武帝が平陽公主のもとに立ち寄ったときに公主は飾りとしておいておいたそばに侍る美女をお目通りさせたのですが、武帝は気に入りませんでした。あとで宴会で酒を飲んだ時に歌手を出しましたが、この歌手の中の衛子夫を武帝は気に入りました。武帝は平陽公主に金千斤を賜ったといいます。これがどの程度の価値かを機械的教科書的に計算すると、漢代の一斤が227 gですから千斤は227 kgです。現在(令和4年3)金はおよそ\8000/gですから227 kgでは約18億円となります。こういう計算にどれほどの意味があるか分かりませんが、とにかくかなりの価値のものを与えたことになります。

後にも書きますが、衛子夫の実家は微賤ですが、衛子夫のお蔭で栄達した親族には優秀な人材がでます。私の推測ですが、衛子夫も頭が良くて受け答えが気が利いていて武帝の心をとらえたのだと思います。

平陽公主は早速子夫を車に乗せて宮中に送り込んだのですが、この時衛子夫に向かって

「行矣!強飯勉之。即貴,願無相忘!」

といったとされます。

“さあお行き。つとめてご飯を食べるんだよ。もし貴い身分になれても、お互いに忘れないでいましょうね”

と訳されています。皇帝の姉である平陽公主といえども皇后になるかも知れない女に恩を売っておくことは大きなメリットがあるのでしょうね。

 

大枚はたいて連れてきた衛子夫を一年あまり相手にせず、その結果子夫は武帝にいとまごいしました。武帝は可哀そうに思って寵愛し、なんとこれで妊娠し、子夫は一挙に尊寵されるにいたります。子夫は三女を生み、さらに男の子()を生み皇后に上り詰めます。この子夫の出世は歴史にも影響を与えます。すでに書いたように皇后の血族が出世できるお蔭で優秀な人材が世に出たことによります。

彼女の兄(衛長君)と弟()が宮中に登れるようになります。衛長君は早く死んだようですが、青(衛青)は匈奴を撃って日本の歴史の教科書にも出てくるほどに名をあげました。そして大司馬大将軍まで登り詰めています。

衛子夫の姉の子に霍去病がいます。大司馬票騎将軍までのぼります。このひとも衛青とならんで匈奴を撃ち大いに名を挙げています。

衛子夫の子供、拠は太子に立てられ、房太子と呼ばれます。しかし気の毒にも彼は江充というものに陥れられて死ぬことになります。房太子の死にいたる経緯は簡単に言いますと、またしても巫蠱がらみでした。武帝が病に臥せった時江充は、もし武帝が崩御すると、自分は房太子やその母の衛皇后とかねて仲が悪かったので立場が危ないと考えます。そしてまず武帝の病は巫蠱つまりつまり呪いによるものと奏上します。古代の人だから呪いといったものも本気で信じるでしょう。それにそういわれれば人によっては体の調子がよくないような気もしてくるものです。江充は狙いを付けた相手の土地の土を掘り返して木偶人形が出たと言い立て、呪術師に自白を強要し、沢山の人を死に追いやります。あらかじめ木偶人形を埋めておいてから告発するのですからたまったものではありません。これで人々は恐慌をきたし人に責任を擦り付けようと誣告したりするものだから、全国での巫蠱騒動の犠牲者は数万になったそうです。(漢書 蒯伍江息夫伝第十五)

そしてついに宮中まで捜索し、後宮、皇后のところまで捜索し、ついに太子宮で木偶人形を発見します。もちろんこれは江充が仕込んだものです。房太子は弁明することもできず追い詰められて江充をとらえて殺します。しかし結局房太子も謀反人として攻撃され、縊死します。そして衛皇后までも自殺に追い込まれてしまいました。この悲劇は大きく広がっていて、衛子夫の生んだ房太子の姉二人も江充の陰謀で殺されていますし、房太子の子供である三人の男の子と一人の女の子も殺されています。この騒動の結果衛氏はあらかた滅ぼされてしまいました。一人の女性が帝の寵愛を受けることは、それにより血のつながる衛青、霍去病のような優秀な人材が力を振える道を開いたのですが、逆に陰謀家により大変な災難を被る不条理を伴っていたようです。




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2022年3月7日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(9) -王皇后(iv)-

 さて臧児の娘が栗姫に代わって王皇后(景帝の皇后)になったことはすでに述べています。これには陰謀家の嫖(=館陶長公、主文帝の娘)がからんでいて、その陰険な策謀は「外戚伝 第六十七上(7-王皇后(ii)-」に書いた通りです。そしてその王皇后には一男三女が生まれたのですが、そのうちの男子に嫖は自分の娘を押し付けたこともすでに記した通りです。外戚になれば一族郎党高位にのぼり贅沢ができるのですが、そのためにはそもそも外戚にならないと話になりません。

王皇后の男子は立って皇帝になりました。これが前漢の武帝です。その結果、この男子に嫁していた嫖の娘は皇后(陳皇后、嫖の夫は陳午という)になります。嫖の計画はうまく行ったのです。彼女について漢書には

「及帝即位,立為皇后,擅寵驕貴,十餘年而無子」

との記述があります。

小竹武夫さんの訳によれば

“帝が即位すると、立って皇后となり、寵愛をほしいままにして尊貴に驕り、十余年を経ても子がなかった”

です。寵愛され、贅沢ができたのでしょうが、子供ができなかったのは不幸なことでした。しかも陳皇后はさらなる不幸に襲われます。強力なライバル衛子夫が現れました。衛子夫が寵愛を受けている話を聞いて陳皇后はほとんど死なんばかりでした。ここで何をやったか、というと

「后又挾婦人媚道,頗覺」

とあります。この部分の小竹さんの訳は

“皇后はまたひそかに婦人の媚道を行い呪詛していたことが次第に発覚し”

となっています。婦人媚道とはどうも男の愛を得る呪術のようです。そしてそのいかがわしい行いの情報を得て武帝は徹底的調査を行います。そして

女子楚服等坐為皇后巫蠱祠祭祝詛,大逆無道,相連及誅者三百餘人。楚服梟首於市」

ということになります。

“女子楚服らが皇后の巫蠱に祠祭祝詛したこと、大逆無道という罪に坐し、相連累して誅殺されたもの三百余もあった。楚服は市場でさらし首になった。”

と訳されています。巫蠱はまじない師という意味と、まじないで人を呪うことという意味があります。訳をよんでもなんとなくすっきりしません。楚服らが皇后のまじない師に神に災いをもたらすように呪詛させた、ということなのでしょうか。ここで誰が呪われたのでしょう?衛子夫なのでしょうか?

三百余名誅殺され、首謀者がさらし首ですから大変です。現代の日本では丑の刻に藁人形を神社のご神木に五寸釘で打ち付けて相手の死を祈っても、犯罪要件を構成しないので罪にもなりませんが、前漢の時代には大罪になってしまったのです。

そして陳皇后はといえば死罪にはなりませんでしたが、皇后を廃され長門宮に閉じ込められました。

この処分ののち、堂邑侯午(陳午)がなくなったという記述があります。堂邑侯は陰謀屋の嫖の夫です。午のあとは息子の須があとを継ぎましたが、いろいろ不都合があって自殺に追い込まれています。嫖にとってはつらい運命です。しかし彼女は

「主寡居,私近董偃」

とあります。小竹さんの訳では

“公主()は寡居してひそかに董偃(トウエン)に親しんだ

とあります。ここで董偃は街で見かけて嫖が一目ぼれして引き取った美少年で、不義密通の相手になったそうです。董偃は三十で亡くなりましたが、なんと公主は夫の陳午ではなくて情夫の董偃と合葬されることを希望して死んだのでそのようにされているのだそうです。




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2020年10月26日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(8) -王皇后(iii)-

 王皇后が立てられて9年後、景帝が没し、王皇后の子()が帝位に就きます。これが歴史に名高い武帝です。王皇后は景帝の死後、皇太后になったのですが、皇太后の母親の臧児が平原君になります。父親の王仲は追尊され共侯となります。これだけなら驚かないですが、皇太后の父親の王仲が死んだあと、臧児が田という男と再婚して生まれた田蚡(デンフン)、田勝(デンショウ)さえもそれぞれ武安侯、周陽侯に封じられます。田蚡、田勝は貪欲で文辞に巧みであったと言います。田蚡はなんと丞相にまでなっています。

さらに、皇太后はもともと金王孫に嫁していたのを、母親の臧児が無理やり当時太子だった景帝の後宮に入れたと前に書きましたが、すでに金王孫との間に俗(ゾク)という娘がいました。この俗は民間に隠れていたのですが、父親の異なる弟である武帝はわざわざ迎えに出かけ、銭一千万、奴婢三百人、公田百頃、邸宅が(俗に)与えられた、と言います。一頃は百畝で凡そ670アールといいますから、かなりの土地です。そのあと

因賜湯沐邑,號修成君

と記述があります。小竹さんの訳では、

“よって湯沐の邑を賜い、修成君と号した”

とあります。

なお「君」とは前漢以降は女性の称号で、上に書いた平原君のごとく皇后の母親が冊封されることが多かったようです。また非皇族の女子にも用いられるようで、修成君もそれにあたります。

さて俗が修成君に封ぜられるのはよいですが、湯沐の邑というのは化粧料をまかなう邑というのです。先の光田百頃とは別に上乗せなのでしょうか?

さらに俗には男女の子供があり、女は諸侯に嫁しました。男の方はというと

男號修成子仲,以太后故,橫於京師

小竹さんの訳では

“修成子仲と号し、太后をかさにきて京師を横行した”

というありさまで碌な男ではなかったようです。母親の称号を使って修成君の子である仲を名乗って威張り散らしていたのでしょうが、具体的に愚行醜行は書いてありません。いずれにせよこんな手合いにも外戚の恩沢がいきわたっていたのです。国家は天下の人の国家ではなく、皇帝の私物であり、その結果外戚はとにかく甘い汁が吸えるようです。




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