2022年9月27日火曜日

戦国策(2) -東周策(i) 秦興師臨周而求九鼎-

戦国策の一番初めに出てくる話です。

秦が兵を起こし周に至り、(周が殷から得た)九鼎をよこせと要求しました。鼎は三本足の鉄のかまです。鼎は王権の象徴ですが、これが九つセットだったのでしょうか。王権の象徴だから入手したかったのはわかりますが、書かれている限りはいきなり兵を興して九鼎を寄こせというのですからかなり乱暴な話です。周君が顔率に相談すると、斉に救援を求めるようにします、と言います。

ここですでに驚きです。そんな話をして斉が顔率の話を聞いてくれる保証はあるのでしょうか?古代中国ですから説得失敗で戻ったら死刑でもおかしくありません。しかも顔率の斉へ行っての説得は、次の通りです。「秦が無道で周に九鼎を要求しています。しかし周としては対策を立て尽くしたあげく秦へやるくらいならお国(斉)ものしてしまう方がまし、と結論しました。(斉にとっても)危ない国を助けるのは名誉なこと、九鼎を手に入れることは巨利です。」

つまり助けてくれたらそちら(斉)に九鼎を差し出すというのです。

これを聞いた斉王は喜び五万の兵を繰り出して周を救援し、秦は引き揚げます。

そうなると今度は九鼎を斉に渡す必要があります。ここで周君はまた憂慮したとあります。そもそも秦を追い払ってくれるならおたく()へ九鼎を上げる、などという馬鹿な約束に周君は賛成したのでしょうか?だとするなら周君もあんまり利口な人では見えないです。

そこで顔率はまた斉に行き斉王と話します。問答を簡単に書くと以下の流れです。突っ込みどころ満載です。

顔率「九鼎を献上しますが、どの道を使いますか。」

斉王「梁を通らせてもらう。」

顔率「梁の君臣は前から九鼎を狙っていて奪おうと少海(地名)のほとりでことを企んでいます。九鼎は一度梁へはいったらもう出てこないでしょう。」

斉王「なら楚を通らせてもらおう。」

顔率「楚の君臣も九鼎を狙っています。葉庭(葉県の宮廷)なかで(奪おうと)ことを企んでいます。九鼎は一度楚に入ったらもう出てきますまい。」

斉王「どの道で運んだらよいだろう」(斉王はなぜこんなことを今更聞くのかと思います。)

顔「そこが問題です。周が殷から九鼎を得た時、一つの鼎あたり九万人かけて運びました。合計で81万人かかります。運搬そのものが容易でありません。しかもたとえ人数をそろえてもどの道からだすかを気にしておりました。」

斉王「なんども来たくせにそれでは初めから渡すつもりがなかったのではないか。」

顔「欺く気などありません。速やかにどこから鼎を持ち出すかをお決め下さい。こちらでは鼎の座を遷して命をお待ちします。」

これで斉王は鼎をあきらめたとあります。こんな子供だましの問答でよく顔率が斉王に殺されなかったものと呆れるばかりです。




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戦国策(1) -はじめに-

 ここで戦国策について書こうと思います。

戦国策は漢の劉向(リュウキョウ)が宮中の蔵書を校定し編纂したものとのことです。文章は相当な名文とされています。しかし私には原文をみてもその名文をあじわう能力はありません。内容は中国の戦国時代の遊説の士の話です。他の書物にもでてくる有名な話柄を含みますが史書とはみなされていないようです。

出てくる話には、なるほどと思えるものもありますが、もし実行したらとてもうまく行きそうにない策略とか、進言したら自分が軽蔑されるのではないかと思われる讒言とか、そもそもこの話は本当なのか、というものも沢山含まれています。

細切れの他愛もない話が沢山あって、その中の多くはそう面白いものではない、という点は「イソップの寓話集」に似たところがあります。もっともイソップの方は登場するのに動物が多く、悪だくみといっても戦国策より単純なものなのですが




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2022年5月1日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(12) -鉤弋夫人-

 鉤弋夫人は趙姓でのちに倢伃(ショウヨ)の位を授かったので鉤弋趙倢予とも書かれたりします。武帝が狩猟に出て河間国に至った時、雲気を見て吉凶を占う者が奇女がいると進言したそうです。奇女とはどんな女かというと、両手が拳を握ったまま披(ひら)けないという女でした。多分美人なのでしょう。そして武帝がその女に会い、みずから披いてやると指がその場で伸びて手が披いたそうです。その結果武帝の寵愛を受けるようになりました。漢書にはそのように書いてありますが、これはちょっと出来すぎで、美人の娘を持った親の仕組んだ伝説づくりかと邪推してしまいます。鉤弋夫人は、弗を産んでいます。武帝はこの子(のちの昭帝)に期待し、後継者にしようと考えます。鉤弋夫人はそれで幸せになったか、というとそうはなりませんでした。

鉤弋婕妤從幸甘泉,有過見譴,以憂死,因葬雲陽」

との記述があります。小竹さんの訳によれば

“鉤弋婕伃は甘泉宮の行幸に従うたとき、過失があって(とが)めをうけた。そのため憂死し、よって雲陽に葬られた。”

とあります。あまりはっきりとは書いてありませんが、鉤弋夫人は些細な理由で死を賜ったようです。

死を賜った理由はのちの北魏で行われた「子貴母死制」と類似の考え方によると言う人もいます。この制度は嫡子が決まればその生母は殺される、というとんでもないものです。外戚がはびこることを防ぐ意味があったようです。しかし武帝の場合については鉤弋夫人が帝の後見になり専横のふるまいをするのを心配し、後々の問題を避けるために鉤弋婕伃を殺したという解釈になります。なお死を賜ったことについて別の説明もあります。歴史書ではないですが、晋の干宝の捜神記(東洋文庫 竹田晃・訳)に鉤弋夫人の項があり、これに鉤弋夫人は罪を犯して死刑に処せられたとあります。そして捜神記(東洋文庫)の竹田さんのこの部分の注には、専横を極めて武帝から死を賜った、とあります。

さて武帝が病に伏した時、上に述べた鉤弋夫人の生んだ弗が皇太子に立てられ、武帝崩御の後、皇帝として即位します。

(昭帝)が即位したので、母親である鉤弋夫人を追尊して皇太后としています。なお鉤弋夫人の父は法を犯して宮刑に処せられていましたが、追尊して順成侯とされました。しかし趙氏(鉤弋夫人の実家)から官位に就く者はいなかったそうです。皇帝の母の親戚であれば、大いに活躍できる地位につける機会はあったはずですが、その機会を掴んで力を振う人がいなかったようです。

先に書いた衛氏の一族は優秀でかつ野心もある人材が豊富でしたが、これとは対照的です。


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2022年3月26日土曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(11) -衛氏(ii)および李夫人-

 ところでこの陰惨な事件は早くもその翌年には房太子は無実である、ということがわかりました。当然ながら武帝は房太子のみならずその子供(自分の孫)まで皆殺しにしたのを非常に後悔しました。その結果房太子を陥れた江充を非常に憎み、江充本人はすでに房太子に殺されていたのですが、江充の一族は皆殺しにしました。しかし今更そんなことをしても取返しはつかないし、江充一族の者と言っても江充の巫蠱の工作の片棒を担いだならいざ知らず、何もかかわっていないのに処刑された者もいるでしょうから、こういう人にとっては気の毒な話です。

しかし少しは救いもあります。房太子の長男には夫人がおりました。この夫人は夫ともに殺されたのですが、すでに赤ん坊(病己)を生んでいました。この病己は房太子の孫にして武帝の玄孫になる訳です。気の毒にも彼は祖父の冤罪により獄につながれます。この時、邴吉(ヘイキツ)というものが廷尉監として巫蠱の事件を裁きました。彼は房太子が無実であることを知っていました。赤ん坊を哀れに思い、女囚に養育させます。その後彼は民間で成長しました。この赤ん坊ののちの名前は詢といいます。これが運命のいたずらにより後に宣帝になります。

なお劉詢を保護した邴吉については、このブログの3つ目の記事「漢書;魏相邴吉伝第四十四」に書いております。

衛夫人の生前、彼女の容色の衰えたあと、王夫人、李夫人が寵愛を受けますが早世しています。さらに尹捷伃(インショウヨ)、鉤弋(コウヨク)夫人が寵愛されます。このうち李夫人と鉤弋夫人にはエピソードがあります。

李夫人はもともと楽人でした。彼女には李延年という兄がおり、これが大変歌がうまかったそうです。あるとき武帝の前で

「北方有佳人,絕世而獨立,一顧傾人城,再顧傾人國。寧不知傾城與傾國,佳人難再得!」

と歌いました。小竹さんの訳によれば

“北方に佳人あり、世を絶して独り立ち、

一顧して人の城を傾け、再顧して人の国を傾く。

なんぞ傾城と傾国を知らざらん、

佳人再びは得がたし。“

となります。傾城、傾国という美人を指す言葉はここから由来するのだそうです。

この歌を聞いて武帝はそんな人がいるのかと言い、武帝の姉の平陽公主が李延年に妹がいることを告げました。実際に武帝が召し出してみると綺麗で舞が上手でした。彼女は哀王を生んでいます。李夫人の病が篤くなったとき武帝が彼女を見舞いに行きました。しかし李夫人は容色の衰えた顔を頑として武帝に見せませんでした。武帝は不興げに帰りました。姉妹がなぜ顔をみせて兄弟のことを頼んでくれないのか聞いたところ、李夫人は現実を見据えた言を吐きます。

「所以不欲見帝者,乃欲以深託兄弟也。我以容貌之好,得從微賤愛幸於上。夫以色事人者,色衰而愛弛,愛弛則恩絕。上所以攣攣顧念我者,乃以平生容貌也。今見我毀壞,顏色非故,必畏惡吐棄我,意尚肯復追思閔錄其兄弟哉!」

と言います。“顔を帝に見せないのはもっと深く兄弟のことをお頼みしたかったからです。自分は容貌がよいために微賤の身から皇帝の寵愛を受けることができました。容色を以て人に仕える者は容色が衰えれば愛が衰え、愛が衰えれば恩が絶えるものです。帝が自分のことを心に掛けてくれるのは平生の容貌によります。いま私の崩れはて、かつての面影もない顔色を見せたら自分を唾棄したくなられるでしょう。そうなってしまってから帝は私を追慕し、兄弟を憐れんでくださるものでしょうか。」

真実の愛なんてないものねだりで、皇帝の愛なんて所詮は外見に惚れただけのこと。と言っています。シビアですが、この李夫人の言と、その行動には強い意志と知性を感じます。逆に皇帝は美貌のみならず彼女の知性にも惹かれていたのではないでしょうか。



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2022年3月21日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(10) -衛氏(i)-

さていよいよ陳皇后の次に立つ衛皇后(あざな子夫とあります。)の話になります。彼女は武帝の姉である平陽公主の歌手でありました。武帝が平陽公主のもとに立ち寄ったときに公主は飾りとしておいておいたそばに侍る美女をお目通りさせたのですが、武帝は気に入りませんでした。あとで宴会で酒を飲んだ時に歌手を出しましたが、この歌手の中の衛子夫を武帝は気に入りました。武帝は平陽公主に金千斤を賜ったといいます。これがどの程度の価値かを機械的教科書的に計算すると、漢代の一斤が227 gですから千斤は227 kgです。現在(令和4年3)金はおよそ\8000/gですから227 kgでは約18億円となります。こういう計算にどれほどの意味があるか分かりませんが、とにかくかなりの価値のものを与えたことになります。

後にも書きますが、衛子夫の実家は微賤ですが、衛子夫のお蔭で栄達した親族には優秀な人材がでます。私の推測ですが、衛子夫も頭が良くて受け答えが気が利いていて武帝の心をとらえたのだと思います。

平陽公主は早速子夫を車に乗せて宮中に送り込んだのですが、この時衛子夫に向かって

「行矣!強飯勉之。即貴,願無相忘!」

といったとされます。

“さあお行き。つとめてご飯を食べるんだよ。もし貴い身分になれても、お互いに忘れないでいましょうね”

と訳されています。皇帝の姉である平陽公主といえども皇后になるかも知れない女に恩を売っておくことは大きなメリットがあるのでしょうね。

 

大枚はたいて連れてきた衛子夫を一年あまり相手にせず、その結果子夫は武帝にいとまごいしました。武帝は可哀そうに思って寵愛し、なんとこれで妊娠し、子夫は一挙に尊寵されるにいたります。子夫は三女を生み、さらに男の子()を生み皇后に上り詰めます。この子夫の出世は歴史にも影響を与えます。すでに書いたように皇后の血族が出世できるお蔭で優秀な人材が世に出たことによります。

彼女の兄(衛長君)と弟()が宮中に登れるようになります。衛長君は早く死んだようですが、青(衛青)は匈奴を撃って日本の歴史の教科書にも出てくるほどに名をあげました。そして大司馬大将軍まで登り詰めています。

衛子夫の姉の子に霍去病がいます。大司馬票騎将軍までのぼります。このひとも衛青とならんで匈奴を撃ち大いに名を挙げています。

衛子夫の子供、拠は太子に立てられ、房太子と呼ばれます。しかし気の毒にも彼は江充というものに陥れられて死ぬことになります。房太子の死にいたる経緯は簡単に言いますと、またしても巫蠱がらみでした。武帝が病に臥せった時江充は、もし武帝が崩御すると、自分は房太子やその母の衛皇后とかねて仲が悪かったので立場が危ないと考えます。そしてまず武帝の病は巫蠱つまりつまり呪いによるものと奏上します。古代の人だから呪いといったものも本気で信じるでしょう。それにそういわれれば人によっては体の調子がよくないような気もしてくるものです。江充は狙いを付けた相手の土地の土を掘り返して木偶人形が出たと言い立て、呪術師に自白を強要し、沢山の人を死に追いやります。あらかじめ木偶人形を埋めておいてから告発するのですからたまったものではありません。これで人々は恐慌をきたし人に責任を擦り付けようと誣告したりするものだから、全国での巫蠱騒動の犠牲者は数万になったそうです。(漢書 蒯伍江息夫伝第十五)

そしてついに宮中まで捜索し、後宮、皇后のところまで捜索し、ついに太子宮で木偶人形を発見します。もちろんこれは江充が仕込んだものです。房太子は弁明することもできず追い詰められて江充をとらえて殺します。しかし結局房太子も謀反人として攻撃され、縊死します。そして衛皇后までも自殺に追い込まれてしまいました。この悲劇は大きく広がっていて、衛子夫の生んだ房太子の姉二人も江充の陰謀で殺されていますし、房太子の子供である三人の男の子と一人の女の子も殺されています。この騒動の結果衛氏はあらかた滅ぼされてしまいました。一人の女性が帝の寵愛を受けることは、それにより血のつながる衛青、霍去病のような優秀な人材が力を振える道を開いたのですが、逆に陰謀家により大変な災難を被る不条理を伴っていたようです。




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2022年3月7日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(9) -王皇后(iv)-

 さて臧児の娘が栗姫に代わって王皇后(景帝の皇后)になったことはすでに述べています。これには陰謀家の嫖(=館陶長公、主文帝の娘)がからんでいて、その陰険な策謀は「外戚伝 第六十七上(7-王皇后(ii)-」に書いた通りです。そしてその王皇后には一男三女が生まれたのですが、そのうちの男子に嫖は自分の娘を押し付けたこともすでに記した通りです。外戚になれば一族郎党高位にのぼり贅沢ができるのですが、そのためにはそもそも外戚にならないと話になりません。

王皇后の男子は立って皇帝になりました。これが前漢の武帝です。その結果、この男子に嫁していた嫖の娘は皇后(陳皇后、嫖の夫は陳午という)になります。嫖の計画はうまく行ったのです。彼女について漢書には

「及帝即位,立為皇后,擅寵驕貴,十餘年而無子」

との記述があります。

小竹武夫さんの訳によれば

“帝が即位すると、立って皇后となり、寵愛をほしいままにして尊貴に驕り、十余年を経ても子がなかった”

です。寵愛され、贅沢ができたのでしょうが、子供ができなかったのは不幸なことでした。しかも陳皇后はさらなる不幸に襲われます。強力なライバル衛子夫が現れました。衛子夫が寵愛を受けている話を聞いて陳皇后はほとんど死なんばかりでした。ここで何をやったか、というと

「后又挾婦人媚道,頗覺」

とあります。この部分の小竹さんの訳は

“皇后はまたひそかに婦人の媚道を行い呪詛していたことが次第に発覚し”

となっています。婦人媚道とはどうも男の愛を得る呪術のようです。そしてそのいかがわしい行いの情報を得て武帝は徹底的調査を行います。そして

女子楚服等坐為皇后巫蠱祠祭祝詛,大逆無道,相連及誅者三百餘人。楚服梟首於市」

ということになります。

“女子楚服らが皇后の巫蠱に祠祭祝詛したこと、大逆無道という罪に坐し、相連累して誅殺されたもの三百余もあった。楚服は市場でさらし首になった。”

と訳されています。巫蠱はまじない師という意味と、まじないで人を呪うことという意味があります。訳をよんでもなんとなくすっきりしません。楚服らが皇后のまじない師に神に災いをもたらすように呪詛させた、ということなのでしょうか。ここで誰が呪われたのでしょう?衛子夫なのでしょうか?

三百余名誅殺され、首謀者がさらし首ですから大変です。現代の日本では丑の刻に藁人形を神社のご神木に五寸釘で打ち付けて相手の死を祈っても、犯罪要件を構成しないので罪にもなりませんが、前漢の時代には大罪になってしまったのです。

そして陳皇后はといえば死罪にはなりませんでしたが、皇后を廃され長門宮に閉じ込められました。

この処分ののち、堂邑侯午(陳午)がなくなったという記述があります。堂邑侯は陰謀屋の嫖の夫です。午のあとは息子の須があとを継ぎましたが、いろいろ不都合があって自殺に追い込まれています。嫖にとってはつらい運命です。しかし彼女は

「主寡居,私近董偃」

とあります。小竹さんの訳では

“公主()は寡居してひそかに董偃(トウエン)に親しんだ

とあります。ここで董偃は街で見かけて嫖が一目ぼれして引き取った美少年で、不義密通の相手になったそうです。董偃は三十で亡くなりましたが、なんと公主は夫の陳午ではなくて情夫の董偃と合葬されることを希望して死んだのでそのようにされているのだそうです。




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2020年10月26日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(8) -王皇后(iii)-

 王皇后が立てられて9年後、景帝が没し、王皇后の子()が帝位に就きます。これが歴史に名高い武帝です。王皇后は景帝の死後、皇太后になったのですが、皇太后の母親の臧児が平原君になります。父親の王仲は追尊され共侯となります。これだけなら驚かないですが、皇太后の父親の王仲が死んだあと、臧児が田という男と再婚して生まれた田蚡(デンフン)、田勝(デンショウ)さえもそれぞれ武安侯、周陽侯に封じられます。田蚡、田勝は貪欲で文辞に巧みであったと言います。田蚡はなんと丞相にまでなっています。

さらに、皇太后はもともと金王孫に嫁していたのを、母親の臧児が無理やり当時太子だった景帝の後宮に入れたと前に書きましたが、すでに金王孫との間に俗(ゾク)という娘がいました。この俗は民間に隠れていたのですが、父親の異なる弟である武帝はわざわざ迎えに出かけ、銭一千万、奴婢三百人、公田百頃、邸宅が(俗に)与えられた、と言います。一頃は百畝で凡そ670アールといいますから、かなりの土地です。そのあと

因賜湯沐邑,號修成君

と記述があります。小竹さんの訳では、

“よって湯沐の邑を賜い、修成君と号した”

とあります。

なお「君」とは前漢以降は女性の称号で、上に書いた平原君のごとく皇后の母親が冊封されることが多かったようです。また非皇族の女子にも用いられるようで、修成君もそれにあたります。

さて俗が修成君に封ぜられるのはよいですが、湯沐の邑というのは化粧料をまかなう邑というのです。先の光田百頃とは別に上乗せなのでしょうか?

さらに俗には男女の子供があり、女は諸侯に嫁しました。男の方はというと

男號修成子仲,以太后故,橫於京師

小竹さんの訳では

“修成子仲と号し、太后をかさにきて京師を横行した”

というありさまで碌な男ではなかったようです。母親の称号を使って修成君の子である仲を名乗って威張り散らしていたのでしょうが、具体的に愚行醜行は書いてありません。いずれにせよこんな手合いにも外戚の恩沢がいきわたっていたのです。国家は天下の人の国家ではなく、皇帝の私物であり、その結果外戚はとにかく甘い汁が吸えるようです。




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2020年10月11日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(7) -王皇后(ii)-

 前回、栗姫の生んだ皇太子である栄に、長公主が自分の娘を押し付けようとして断られた話を書きましたが、今度は長公主は娘を王夫人の息子にやる、という話を持ち掛けました。王夫人はこれを受け入れたのです。長公主を敵に回したくないという考えもあったとおもいます。

薄皇后が廃されたのがこの頃で、長公主は盛んに景帝に栗姫を讒言します。

そんな状況の中で栗姫は愚かなことをしてしまいます。

景帝嘗屬諸姬子,曰:「吾百歲後,善視之。」栗姬怒不肯應,言不遜,景帝心銜之而未發也。

とあります。小竹さんの訳によれば

“景帝は自分もかつては諸姫(‘めかけ’とルビがあります)の腹に生まれた子の境遇にあったので「わしの死後、太子を良く視てほしい」といった。栗姫は怒って、そのこころづかいに応えようとせず、言葉も不遜だったので、景帝は内心このことをふくみながらも、まだ表面にはあらわさなかった。”

とあるのです。

訳文にちょっと抵抗があります。“吾百歲後”は、死んだあと、でよいのでしょうが、“之”が問題です。ここで景帝は自分の庶子の身分を心配しているのですから、“善く之を視よ”の之とは現在庶子である王氏の息子(後の武帝)を指すはずです。太子と訳するのは何か変ですね。栗姫はそれに対して冷たい回答をしたのですから、景帝が死んだあと太子栄(栗姫の息子)が帝位に就いたら皇太后になる栗姫の意向で王氏の子供はどんな目にあうか分かりません。これは景帝を不安、不快にさせます。栗姫は腹立ちまぎれに大変愚かな態度を景帝に対してとってしまったことになります。

一方で長公主は景帝に王夫人の子供のことを褒め、景帝も息子を賢いと思います。ここで王夫人が策を弄するのです。すなわち

王夫人又陰使人趣大臣立栗姬為皇后。

“王夫人はまたひそかに人を使い、大臣たちに栗姫を立てて皇后とするよう促した。”

とあります。王夫人はかつて呂后が高祖に寵愛された戚夫人に対し高祖の死後何をしたかは知っている筈です。大臣が帝を促して本当に栗姫が皇后になり、その子の栄が帝位についたら身の危険を招きます。おそらく景帝の気持ちをすでに知っていて仕上げでやったのでしょう。何も知らない大行(賓客の接待を司る官)が今の太子()の母(栗姫)を皇后にすべきでしょう、と奏上し、景帝を怒らせ“お前が言うべきことなのか”と言われて誅殺されてしまいました。可哀そうなものです。そして太子であった栄は廃されて臨江侯になり栗姫は帝に会えぬまま憂死します。王夫人が皇后となり、その子が皇太子になりました。

そうなると新たに外戚の恩恵に与れる者がいろいろと出てきます。皇后の兄の信は蓋侯(コウコウ)となります。妹も宮廷にはいり男子4人を生み、それらはいずれも王になりました。王皇后の生んだ娘たちも平陽公主、南宮公主、隆慮公主となります。




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2020年10月8日木曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(6) -王皇后(i)-

 景帝の皇后となった薄氏には子供ができなかったのは前回書いた通りです。

しかし景帝には息子が14人もいました。すべて側室が生んだ訳です。そして薄氏の廃せられたあと皇后の空位時代がつづきました。景帝の時代に呉楚七国の乱がおきたのですが、そのあとで景帝は栗姫(リツキ)の生んだ栄を皇太子にたてました。栄は景帝の最年長の息子です。ならば皇太子を生んだ栗姫を皇后に立てたかというと立てませんでした。栗姫は非常にストレスがたまった訳です。誰かほかの女に気持ちが行ったのではと不安になったかも知れません。

 

ここで外戚伝 第六十七上(3)の竇皇后(i)に登場した竇皇后の長女である(館陶長公主)が登場します。彼女は景帝の姉です。これが禄でもない小姑で、景帝に次から次への女の子を紹介します。一方では嫖は女の子がいたのですがそれを栄の太子に押し付けようとします。ここで競争相手を次々に送り込んでいる長公主(=館陶長公主)に腹をたてていた栗姫はこの話を断ります。これが失敗でした。この時代ですから、名目上の御妃様にして、本当に寵愛するのは別の女、ということができないわけではなかったのに拒絶したのです。そのことがあとに災いをもたらします。

 

ところで景帝の跡継ぎとなる武帝を生んだのは王夫人(のちの皇后)です。武帝が太子になる過程ではどろどろした女の争いが絡んでいます。

王夫人の父は王仲(オウチュウ)、母は臧児(ゾウジ)でした。臧児は一男二女を生みました。王仲が死ぬと田氏と再婚し男子二人を生みました。

ところで臧児の長女は金王孫という者の妻になり一女を生みました。そのあと漢書にはこんなことが書いてあります。

而臧兒卜筮曰兩女當貴,欲倚兩女,奪金氏。金氏怒,不肯與決,乃內太子宮。

小竹さんの訳によれば

“臧児が占ったところ、娘は二人とも貴い身分なるはずだというので、この二人にたよろうと思い、長女を金氏から奪い返した。金氏は怒って、離別を承知せず、そこで(長女を)太子(のちの景帝)の宮に入れた。”

というのですから驚きです。怒って離婚を承知しないのを無視して娘を東宮に入れたというのですが、どういう縁故でそんなことができるか不思議ですし、こんな話で大人しく母親の言いつけに従った娘も現代人の感覚からは不思議です。

臧児の目論見が当たって太子はこの王仲の長女を寵愛し、三女一男が生まれます。男の子を身ごもったとき王氏は太陽が懐に入った夢を見て太子に話したそうです。これを聞いて太子は“此貴徵也。(それは貴い徴だ)”と言ったそうです。皇帝になる子を生む前に妃が、太陽がお腹に入った夢を見た、という話はいくらも出てくる話です。このころすでにその手の話は一般に流布していて、もしい男の子なら後継ぎに相応しいと王夫人は訴えたかったのかも知れません。のちの後宮での暗闘のゴングを鳴らしたみたいですね。

そして王夫人は男の子の出生するのですが、出生前に太子の父の文帝が亡くなり、太子は景帝として皇帝の位を継ぎます。それでもすでに栗姫の生んだ栄が皇太子ですから、王夫人の生んだ子は太子になれる訳ではありません。栄が引きずりおろされるのですが、それには長公主と王夫人が関与します。




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2020年10月4日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(5) -竇皇后(iii) 薄氏(追補)

 竇皇后関係ではまだ偉くなった人がおります。竇皇后の従昆弟(小竹さんの訳では“いとこ”と振り仮名されています。)の竇嬰(トウエイ)で、魏基侯に封ぜられています。外戚としての竇氏から侯になれたのは竇氏の兄弟二人と従昆弟一人の合計三名です。

もっとも竇嬰の場合は、初めは竇太后に疎まれて遠ざけられていました。疎まれた原因は合伝である竇田灌韓伝第二十二に出ています。なおこの竇田灌韓伝第二十二では竇嬰は竇皇后の従兄弟の子と書かれています。

さて竇太后は景帝の母ですが、景帝の弟である梁の孝王をとてもかわいがっていました。景帝がまだ太子を立てていなかったころ、景帝は酒宴で気まぐれに、自分のあとの位を譲ろう、と言います。これは専制君主としては非常に軽率な発言というものです。でも竇太后はこの景帝の言を喜びました。

しかし竇嬰はこれをとがめて、天下は高祖のものであり、父子相伝が漢の決まりであります。どういう根拠で梁王に伝えることができるのですか、と言いました。このことで竇太后は竇嬰を憎んだのだそうです。

さて、呉楚七国の乱が起こったとき景帝が宗室、外戚の人材の中で竇嬰が優れているとみて大将軍に登用しました。竇嬰もこれにこたえて人材を登用し、乱の鎮圧に功により魏基侯になったので、あながち皇后の血筋だけで侯になったというものでもないです。

竇嬰は武帝の代になっては丞相にもなりましたが政治上の争いに巻き込まれ結局誅殺されています。

 

以前呂氏が滅ぼされた時に皇帝として代王が選ばれ文帝として立つことができたのは、母の薄氏の実家が勢力家ではなく、薄氏自身も影の薄い人だったということからでした。しかしその影の薄い薄氏(薄太后)も自己主張をしたのです。文帝の子供の景帝(薄太后から見れば孫)の妃に実家の薄家の女を選ぶことを強く望んだのです。薄氏は自分の実家から皇后を出したかったのです。

しかしこれは不幸な結果を生みました。その選ばれた女性は皇后に立てられたのですが、景帝に寵愛されることもなく、子供もできませんでした。後ろ盾の薄太后が亡くなると、皇后を廃せられてしまいます。彼女には外戚家のメリットなどなく、みじめな運命を負わされたのではないでしょうか。




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漢書;外戚伝 第六十七上(4) -竇皇后(ii)-

 さらに竇皇后の兄弟が被る恩恵があります。

竇姫はもともと良家の娘として呂后に選抜されたはずなのですが、その後の記述では竇皇后の兄である長君(おそらく字と思います。本名は書いてありません。)、その弟の広国、字は少君は微賤の身分の者として登場します。

 

広国は四、五歳のころさらわれたも同然で人に売られたのです。そして広国は諸家を転々とし、宜陽では山に入って炭焼きをしていたそうです。崖の下で夜数百人が寝ていたら崖がくずれ、広国一人がたすかります。広国は自分のことを占ったら数日のうちに列侯になるはず、と出たのです。広国について記述されている四、五歳からのひどい運命からして、字をまなび書籍を読み、占いも知っていたことになっているのは奇異に思えます。でも原文でみると

「自卜,數日當為侯」

とのことです。誰か人相見が現れてお告げをするなどといったことではなく、自分で占いができたのでしょう。

それから主家に従って長安へ行くと、新しい皇后が立てられその家は観津(カンシン)にあり姓は竇氏であることを知ります。広国は家を離れた時幼かったのですが、出身県と姓は覚えていたので、姉と一緒に桑の葉を採っている時に木から落ちたことを証拠として(もしかして竇姫は姉ではないかと)上書します。そのあとに次の分があります。

皇后言帝,召見問之,具言其故,果是。

小竹さんの訳によれば、

“皇后から帝に申し、少君(広国)を召し出して問うと、少君はつぶさにその故を述べたが果たしてその言う通りだった。”

です。竇皇后の記憶のとおりだったのでしょう。さらに念押しで覚えていることを聞くと

姊去我西時,與我決傳舍中,沐沐我,已,飯我,乃去

と言います。すなわち、姉は自分が西へ去るとき、自分と伝舎(駅舎)で別れた。私の体を洗って、ご飯を食べさせてくれてから去っていった、というのです。

それは二人きりしか知らないことで、間違いなく弟だと知った竇皇后は少君を抱いて泣きました。

広国はめでたく手厚い待遇を受けるようになりました。竇皇后の兄の方の長君についてはとくに記述がないのですが、これも手厚い待遇を得たはずです。文帝がなくなり、景帝が即位すると、竇皇后は皇太后になり、広国は章武侯になりました。この時兄の長君は亡くなっていましたが、子供が南皮侯になっています。

 




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2020年4月26日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(3) -竇皇后(i)-


代王は文帝として帝位につくことになるのですが、その文帝の皇后が竇(トウ)皇后です。後継者である景帝を生んでいます。
竇皇后が王后として代王(後の文帝)のところへ行く経緯が現代人からみたら馬鹿げた話です。竇皇后は良家の子女として選抜されて呂后の宮中へ入ったのです。その後、呂后が宮女を諸王に五人ずつ配ることにしたのだそうです。竇皇后はそのメンバーに入ったのですが、彼女は実家に近い趙に行かされることを希望し、宦官にも頼んでおいたそうです。しかし宦官がそれを忘れて分配名簿を作成し、代王(高祖の次男)のもとに行くことに決まったとのことです。そもそも趙は北京のずっと南で邯鄲を都とする一等地なのに代は匈奴に接近した辺境です。竇后は行くのを嫌がったそうですが結局説き伏せられて代の国に行ったのです。結果はそう悪くなくて、
代王獨幸竇姬,生女嫖。孝惠七年,生景帝
とあります。代王は五人来たうちで竇姫のみを寵愛したのです。そして竇姫はまず女子の嫖(ヒョウ)を生み、恵帝(高祖の跡継ぎで呂后の子が当時皇帝だった)の七年に、のちの景帝となる男子を生んでいます。なお、もともと代王の王后は四人の男子を生みました。しかし本人は気の毒にも代王が帝位に就く前に死去しました。代王が帝位に就いたあと、その残された四人の男子も母を追って次々に病死してしまいました。
その結果、太子を立てる時は竇姫の生んだ男子が最年長で太子に立てられ、お蔭で側室だった竇姫も皇后となります。あとで書きますように竇皇后の実家は大したものではなく、強大な外戚となるおそれがないので、みんなが安心して彼女を皇后に立てました。竇皇后はとても運が良かったわけです。

そして竇皇后に血のつながりのある人に恩恵が行きます。
景帝以外の竇皇后の子供たちも、文帝の子ですから恵まれた地位を得ます。最初に生まれた娘は皇帝の娘として館陶長公主となり、景帝となる男子のあとに生まれた男子も代王になります。彼はのちに移されて梁の孝王となります。

竇皇后の親は早くなくなりましたが、追封して父を安成侯、母を安成夫人とします。そして薄姫の親の墳墓の例に倣い園邑が作られます。
それからさらに血縁への恩恵の話と、政治的動きについての話は続いて行きます




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2020年4月18日土曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(2) -呂氏、薄氏-


外戚伝ではまず呂氏が挙げられています。高祖の妃である呂后についてはすでに平成27(2015)6月から平成28(2016)2月にわたり、13回にわたって書いております。その中には外戚伝の記述も入れています。高祖劉邦の妃で漢書では「呂后為人剛毅」とあります。しかしすでに書いたように呂后という人は剛毅というより、冷酷残忍な人です。
彼女は呂氏の繁栄を願ったのでしょうが、その強権的やりかたは、結局呂氏以外を全部敵に回すことになり、彼女の死後一族は根絶やしにされました。呂氏の場合、呂后が呂氏の人間も沢山取り立てた、という意味で外戚の齎す弊害を示していますが、根本的には外戚という問題ではなく呂后という女の弊害であったと見ることもできます。

次に扱われるのは呂氏が滅んだあと帝位についた文帝の母の薄姫です。薄姫の父親が自分の主人家(魏氏)の王女の魏媼(ギオン)と通じて薄姫を生ませたのです。当時は秦末の混乱期で、魏の国では魏豹(ギヒョウ)という者が立って王となりました。この時、魏媼は自分の娘(薄姫)を魏の宮中に入れます。魏豹と薄姫がどの程度の血縁関係かは外戚伝ではわかりません。
さて混乱は間もなく漢(劉邦)と楚(項羽)の争いになってきました。魏豹は漢についていたのですが、許負という者が薄姫を見て天子を生むに違いないと言ったので、気が変わりました。薄姫の生む子が天子になれるなら自分が天下を取れると考えたようです。ちょっと愚かです。もし魏豹自身が天下を取れるなら許負は魏豹に向かって、あなたは天子になれる相をしている、とかいうべきでしょう。魏豹は自分が天子になれなくて、薄姫の生む子が天子になるなら、その子は自分の子供ではないかも知れないことに思い至らなかったのでしょうか。
とにかく魏豹は漢に背いて中立し、楚と和を通じます。その結果は惨憺たるもので魏豹は漢の虜になり、薄姫は宮中で織物を織る所(織室)に送り込まれてしまいます。織室送りは罪人女の扱いだそうです。しかし魏豹の死後、織室の薄姫が高祖の目に留まり、後宮に入れられます。
薄姫の運がよいのは男の子(八歳で代王に立てられた。のちの文帝)を生んだあと、高祖の寵愛も特別厚くなかったのです。その結果、高祖がなくなったあと、呂后の怨みの対象になりませんでした。戚夫人のように惨殺されることもなく、他の寵愛を受けた女たちのように宮中に幽閉されることもなく、代王である自分の子に従って代へ行き、代の太后となることができました。この経緯からすれば薄姫には大きな後ろ盾となるような実家はありません。
呂后が死に、呂氏が滅んだあと誰を後継者にするかが議論されますが、
大臣議立後,疾外家呂氏彊暴,皆稱薄氏仁善,故迎立代王為皇帝」
という記述がでてきます。
すなわち、大臣たちは後継者を議論し、外戚呂氏強暴を憎み博氏の仁善を称え、そこで代王を皇帝にした、というのです。代王の仁善ではなく、薄氏の仁善を称えて皇帝を選んでいるのです。呂后に懲り懲りして、権力を振り回しそうな実家もなく、本人もおとなしくて野心がなさそうな母をもっているから代王を担ごうということになったのでしょうか。

それでも薄姫の弟は軹侯(シコウ)となりました。すでに死んでいる父は追尊して霊文侯とし、会稽郡に園邑(墓守の邑)がつくられました。霊文夫人(つまり魏媼)は檪陽(レキヨウ)に葬られていたので、その地に園邑を作らせています。
さらに薄姫の父親は早く死んで、魏媼の家すなわち魏氏が薄姫の養育に努めたので褒賞があったようです。
大臣たちが望んだように薄姫および薄姫の外戚が何をしたということはないですが、外戚および関係者は恩恵を被っているわけです。





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2019年10月7日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(1) -皇帝の妃たちの地位-

皇帝の妃の親兄弟等の親族、つまり外戚というのが権力を握り政治に重要な影響を与えることが中国の歴史ではしばしばありました。漢書ではわざわざ外戚列伝がたてられています。
外戚伝では、はじめによい寄与をした妃と、害悪を流した妃の例を挙げ夫婦が大切であることを述べています。
それから漢代での皇帝の夫人たちの呼称、格式についての記述がでてきます。初めは秦の時代に従い帝の母を皇太后、祖母を太皇太后、正夫人を皇后とし、妾はみな夫人と称したとのことです。その他に美人・良人・八子・七子・長使・少使などの称号があったとされます。項羽が愛した“虞美人”の“美人”は後宮の中での称号に対応しています。

武帝の時代になって、婕妤(ショウヨ)、娥(ケイガ)、傛華(ヨウカ)、充依(ジュウイ)という称号が制定されそれぞれに爵位があった、と記述されます。さらに元帝(武帝から三代あとの皇帝)が昭儀(ショウギ)という称号を追加した、全部で十四等級とした、と書いてあります。
格式を表の形に纏めると下の通りです。ただし上の十四等級とは辻褄があっていません。表で“なぞらえる”は原文で“視”であり、“匹敵する”は原文で“比”となっているものです。普通の男の爵位そのものは二十あります。表中で諸侯王になれるのは皇族だけで、臣下がなれる最高の爵位が二十等の列侯、その次が十九等の関内侯です。
称号
なぞらえる職位
匹敵する爵位(括弧内は爵等級)
昭儀
丞相
諸侯王
婕妤
上卿
列侯(20
中二千石(2160石)
関内侯(19; 実利では列侯並)
傛華
真二千石(1800石)
大上造(16)
美人
二千石(1440)
少上造(15)
八子
千石
中更(13)
充依
千石(九百石か?)
左更(12)
七子
八百石
右庶長(11)
良人
八百石(七百石か?)
左庶長(10)
長使
六百石
五大夫(9)
少使
四百石
公乗(8)
五官
三百石

順常
二百石

以下次の文言が続きます。
さらに低い地位の者については以下の記述の通りです
「無涓、共和、娛靈、保林、良使、夜者皆視百石。」
すなわち、“無涓から夜者までが百石になぞらえ、”
「上家人子、中家人子視有秩斗食云。」
“上家人子、中家人子は有秩・斗食になぞらえられる。”
ここで家人子とは良家の女子を宮中に入れられたがまだ職号のないものです。職号はなくても、対応する普通の男の爵としては有秩や斗食にあたるのです。有秩は郡の官吏で賦役、徴税の差配をします。斗食は一日一斗二升貰う役人です。
さらについでに
「五官以下,葬司馬門外。」
五官以下のものは、司馬門外(王宮の外門の外)に葬られる。
となっています。
なお、漢代の一石(セキ)120斤で一斤が258 gですから一石は31 kgになります。
つまり上位の人は格式もお手当も相当なものだったようです。

このお手当で白楽天の長恨歌にある如く「後宮佳麗三千人」だったら大層なものいりです。
ものいりだけならまだましですが、権力を握っているものが自分の娘を後宮に押し込んできたりします。これでお世継ぎを産んでくれれば、皇帝の祖父あるいは祖母となり、一段と権勢を振るえることを当て込んでいます。
また逆に寵愛した女の親兄弟を実家の身分が低いと体裁悪いので、高い位につけたりしますが、これが外戚として権勢を振るったりします。
つまり政治にしばしば影響を与えるということになります。




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2019年9月30日月曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(5)

以下の記事は2015(平成27年)2月22日にアップロードした「史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(4)」の続きです。その当時、白起の死までを「史記 白起・王翦列伝 第十三(5)」として書いていたのですが、アップロードを忘れていたのです。それで今になってアップロードも変ですが、一応載せておきます。
この直前の話は、以下のとおりです。
昭王の四十九年に秦が趙を攻めたのですが、この時白起は病気で王陵というものにやらせました。ところが王陵が無能でうまく行きませんでした。この時白起の病気が治りました。そこで秦王は王陵から白起に交代させてやらせようとします。しかし白起は秦を怨む諸侯が応援に来ているし、秦の兵も闘いに疲弊しているし勝てそうもない、と反対します。しまいに病気と称して引きこもってしまいます。

さて秦王は今度は王齕(オウコツ)を使って邯鄲を包囲させますがうまく行きません。楚や魏は趙を応援して楚は春申君、魏は信陵君が秦軍を攻撃しました。秦は死傷者、逃亡者多数で失敗しました。
ここで白起は余計なことを言ったことになっています。 「秦不聽臣計,今如何矣!」 すなわち、 ”秦は私の計(はかりごと)をききいれなかったが、その結果いまはどうだ。” と言ったのです。史記では言ったとされ、それが秦王の耳に入ったとされています。
個人的には讒言のような気がしています。本当に言って告げ口されたのなら愚かしいとしかいいようがありません。
秦王は白起の言を聞いて怒って、また白起に出陣させようとしますが、重病と言って出てきません。また応侯に懇請させますが、絶対に出てきません。なぜここで怒った秦王が白起を引き出そうとするのでしょう。そんな腹立たしいことを言った男を大事な戦いの将軍として使おうというのでしょうか?それとも人選の失敗に本当に後悔して白起にやってもらおうと思ったのでしょうか?
一方、白起の態度は傍から見ればまるで意地になっているようです。出て行っても勝っても負けても殺されると思ったのかもしれません。しかし少なくとも意地を張って出て行かなかったら、殺されるのは時間の問題です。 秦王はまず白起(武安君)の位を士伍(野口さんの訳では一兵卒)とし、陰密(甘粛省)に移住させる事にしますが、白起は本当に病気らしくすぐには出発せず三ヶ月経ちます。 その後が変なのです。 「諸侯攻秦軍急,秦軍數卻,使者日至。秦王乃使人遣白起,不得留咸陽中。武安君既行,出咸陽西門十里,至杜郵。」 野口さんの訳では ”諸侯の軍が激しく秦軍を攻め立て、秦軍はしばしば退却した。そこで秦王は人々をやって白起を追い払わせ、咸陽のうちの留まることが出来ないようにした。武安君は出発して咸陽の西門を出ること十里、杜郵に着いた。” となっています。ここの部分の記述は意味が分かりません。白起が意地になって咸陽にいてもそれと諸侯の軍が秦軍に退却を余儀なくさせることとは別の話です。
秦王は群臣と諮り、結局白起に剣を賜い、自殺を命じます。 この時の白起の言葉は次のようなものです。 「我何罪于天而至此哉?」 ”私は天に対していかなる罪を犯したために、かかる結果になったのだろうか。” といい、そのあと言葉を継いで
「我固當死。長平之戰,趙卒降者數十萬人,我詐而盡阬之,是足以死。」
 ”私は元来死ぬべきなのだ。長平の戦いのとき、趙の士卒で降伏した者が数十万人あったが、わたしは謀略にかけて、これをことごとく阬(アナウメ)にした。これだけも死ななければならないのだ。”
白起は有能な将軍ではあったけれど、不思議な位、処世の術には長けていなかったようです。 宰相の応侯と不仲になったあと、趙の攻撃に反対して、あとは病気と称して出てこないだけではいいように讒言されます。知力の優れた人にしてはまずいやりかたです。 将軍として大手柄を立てている間にやった残虐行為も最後には祟っています。白起の最期にあたっての言は残虐行為の反省ですが、その残虐行為のおかげで他国で身の安全を保つのが難しいのを後悔していたのでしょうか。


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2019年9月22日日曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (4)

建安24(219)に劉備が漢中を手に入れた時に、劉備に仕える群臣が劉備に漢中王に推挙し、漢帝(献帝)に上表します。ここは
羣下、上先主爲漢中王、表於漢帝曰
とあります。推挙している人の名前が列挙されていますが、はじめの方は以下の如くなっています。
平西將軍都亭侯臣馬超、左將軍領長史鎭軍將軍臣許靖、營司馬臣龐羲、議曹從事中郎軍議中郎將臣射援、軍師將軍臣諸葛亮、盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽、征虜將軍新亭侯臣張飛、・・・
名前の順序にどの程度意味があるのか知りませんが、先頭が馬超で、二番目が許靖なのでちょっと不思議です。因みに諸葛亮は5番目、以下関羽、張飛、黄忠と続きます。さてその推挙の文中に
曹操、階禍、竊執天衡。皇后太子、鴆殺見害、剝亂天下、殘毀民物」
という部分があります。井波さんの訳によれば
“曹操が災禍を利用して、勝手に帝権を行使いたしております。皇后や皇太子を鴆毒(チンドク)により殺害し、天下を混乱に陥れ、民衆を破滅に追い込みました。”
ということを書いております。以下曹操を非難するとともに、劉備がこれを除こうと努力したことが縷々書かれています。
許靖について言うならば、以前の彼の曹操への賛美の手紙とはえらく話が異なります。曹操は建安25年まで生きていましたから、この上表文を読んだかも知れません。読んだとしたら許靖のことをよくは思わなかったと思います。許靖が意見を変えた理由を説明している文書があれば言い分も窺えるのですが、単に劉備の漢中王推挙の上表に名を連ねるだけでは都合よく意見を変える世渡り上手な人という印象しか持てません。

劉備が漢中王になると、許靖は太傅となります。天子の師という格ですが、地位は高いが実験はないようです。
なお、建安25(220)には曹操の子の曹丕が魏の後継者となり、そしてすぐに後漢の献帝の禅譲を受けた形にして帝位を奪います。蜀には献帝が殺害されたと誤伝がはいり、劉備が蜀で帝位に就きます。
この時も臣下が多くの瑞祥が現れたと言い、帝位に就く事が天命であると説く上奏文が出されています。しかし、この上表文を奉った人の中にはあまり有名人は入っていません。
しかしそれとは別に出された上表文は、許靖、麋竺、諸葛亮等の臣下の名のもとに出されています。これには曹丕が簒奪を行い、主君(献帝)を弑したことから説き、天下が主をうしなって混乱していること、一方において瑞祥が現れて漢中王劉備こそ劉氏を継いで帝に立つべき、と述べています。
そして建安26(221)4月、劉備は帝位につきます。ここでの記述は
章武元年夏四月、大赦、改年。以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。置百官、立宗廟、祫祭高皇帝以下。
です。章武は蜀の新元号です。大赦を行い、元号を改め、諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とし、百官を置き、宗廟を立て、高皇帝以下を廟にあわせ祭った、ということです。この新王朝のはじまりの記述で名前が挙がっているのは二人、許靖は丞相孔明に次ぐ高官になっているのです。
 章武2(222)に劉備は呉を攻めますが夷陵の戦いで大敗します。この時大敗のあとの時期に許靖は亡くなっています。

許靖の伝、およびその註で目立つのは許靖に対する賛辞です。“三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖(2)”で彼が交阯へのがれた時、交趾太守が手厚く待遇したことや、袁徽が荀彧宛の手紙の中で大層許靖を褒めたことはすでに述べました。
また、“三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖(3)”で、彼が蜀に入った時、宋仲子が蜀郡太守の王商に、許靖は優れた人物だから指南役にされるべきです、といった手紙の紹介があることを述べました。三国志の蜀書の許靖伝の末尾には
靖、雖年逾七十、愛樂人物、誘納後進、清談不倦。丞相諸葛亮皆、爲之拜。
とあります。井波さんの訳によれば
“70歳を越えても人物を愛し、後進を導き受け入れ、世俗を離れた議論にふけって倦むことがなかった。丞相の諸葛亮以下みな彼に対して敬意を表した。”
とのことであり、さらに
靖兄事潁川陳紀。與陳郡袁渙、平原華歆、東海王朗等親善。歆朗及紀子羣、魏初爲公輔大臣、咸與靖書、申陳舊好、情義款至。
と続きます。
“許靖は潁川の陳紀に兄事し、陳郡の袁渙、平原の華歆、東海の王朗らと親交があった。華歆・王朗および陳紀の子の陳羣は魏建国の初年に輔佐の大臣にとなったが、みな許靖に手紙を送って旧交をあたため、その友誼はきわめて厚いものがあった。”
となっています。彼は当時のインテリ社会で名高い人で、インテリ同士の文通をしていたようです。悪くとれば、蜀が滅んでも命綱を他国にもっているようにも見えます。
褒められてばかりいるが何をやったかよくわからない、毒にも薬にもならないが首尾よく出世だけはする、という風に私には見えてしまうのですが...



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2019年8月17日土曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (3)


前回の許靖(2)で記した彼の曹操への手紙では、旅の労苦の説明のあとで自分は交通が途絶して北へ行けない、という話が続きます。そして彼は曹操を慕っているのに曹操の下に行けなことを大変残念がっています。
この時点で彼は曹操に仕えたいと願っていたことがよくわかります。孫策に仕えなかったのは曹操に気があった所為かとさえ思います。

ところで手紙を書くということはこれが北にいる曹操の下に届くことを前提としています。どのような郵便制度あるいは郵便業があったのかは知りませんが、人が手紙を運んで受け渡しすることができているはずです。ならば自分で行けばよいのにと思ったりします。親類縁者など見捨てられないので移動は簡単でない、というのなら無理な移動はせずに孫策に仕えるべきだったでしょう。
なお曹操宛の手紙の後に次の文がついています。
翔、恨靖之不自納、搜索靖所寄書疏、盡投之于水。
ここで翔というのは前回に出てきた張翔で強引に許靖を使えさせようとした人です。張翔は許靖の拒絶を恨みに思い、許靖の出した手紙を捜査して、ことごとく水(川のこと?)に投げ込んでしまった、というのです。長々と引用されていた許靖の曹操宛の手紙はどこに残ったのでしょう。曹操に届いたのでしょうか?彼の手元に写しでもあったのでしょうか?

後に当時の蜀の支配者の劉璋が許靖を招いたので、彼は蜀に行きます。曹操あての手紙では益州にいる兄弟たちに手紙を出したがなしのつぶてで返事がないと言っていたのですが、今度は蜀へ無事に行けたようです。劉璋はよほど許靖を買っていたのでしょう。巴郡・広漢の太守にします。この記述に続き、許靖伝では宋仲子が蜀郡太守の王商に、許靖は優れた人物だから指南役にされるべきです、という手紙を書いたとの紹介があり、さらに建安十六年(211)に許靖が王商の後任として蜀郡の太守になったとあります。
建安十九年(214)先主(劉備のこと)が蜀を支配すると、許靖を左将軍長史とした、とだけあっさりと書いてあります。
しかし、ここには重大な記述が漏れています。それは龐統法正伝第七の法正伝にあります。
璋蜀郡太守許靖、將踰城降、事覺、不果。璋、以危亡在近、故不誅靖。璋既稽服、先主以此薄靖不用也。
井波さんの訳によれば劉備が成都を包囲したとき
“劉璋の蜀郡太守である許靖が城壁を乗り越えて投降しようとしたが、事が発覚して、果たさなかった。劉璋は危機が迫っているために許靖を処刑しなかった。劉璋が降伏したのち、先主はこの事件のため許靖を軽んじ起用しなかった。”
となります。
法正は劉備を説得します。「虚名ばかりで実質の伴わないものがおり、許靖がそれですがすでにその名は天下に鳴り響いています。礼遇しないと、人々は(劉備は)賢者をないがしろにする、と考えるでしょう。」と述べて許靖を厚遇するようにさせます。
劉璋配下の重職にありながら劉璋が滅ぼされようという時に自分ひとりだけ真っ先に逃げようとしたのです。劉備が買わなかったのも尤もです。
また先主伝第二には建安十九年に劉備が成都を落とした時の記述には
許靖、麋竺、簡雍、爲賓友
とあり、許靖は麋竺、簡雍とともに賓友待遇の人となっていることだけが書かれ、逃亡事件には触れられていません。





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2019年7月26日金曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (2)

許靖が会稽にいる時に孫策が攻めて来たので、同行の人々を連れて交州へ逃げます。
交州と言っても広いですが、交阯(今のベトナムに入る部分)で、当時は士燮(シショウ)が支配していました。士燮も許靖に敬意を払って手厚く待遇したそうです。
なお逃げる途中、川を渡るとき、彼は一緒についてきた者たちを先に船に乗せ皆が出発してから最後に岸を離れたので人々に大いに感心されたようです。当時袁徽(エンキ)というものが交州にいましたが、尚書令の荀彧に手紙を送った手紙の中に以下のように述べています。
・・・自流宕已來、與羣士相隨、每有患急、常先人後己。與九族中外、同其飢寒。其紀綱同類、仁恕惻隱、皆有效事。不能復一二陳之耳」
井波さんの訳によれば
“・・・故郷を離れて以来、多くの士人と一緒に行動しておりましたが、危急の事態があるといつも他人の安全を先に考え、自分は後になり、九族に及ぶ同族・姻戚の人たちと飢えや寒さをともにしておりました。その仲間たちに対する規律も、あわれみ深くいたわりがあるのですべてききめがあり、いちいちこれを列挙するのは不可能なほどです。”
許靖をたいそう褒めています。

しかし以下に次のような記述があります。
鉅鹿張翔銜 王命使交部、乘勢募靖、欲與誓要。靖、拒而不許。
“張翔というものが交部に王命により使者としてやって来て、権力にまかせて許靖を招き忠誠を誓わせようとしましたが、許靖は許さなかった”
ということです。王命というのがとくに説明がないので誰の命だかわかりません。
 そのすぐあとに許靖の曹操あての長い手紙が出てきます。この手紙をみるとこの王命とは曹操の命なのかと思います。
この手紙で彼は、”今は異民族の間に逃げ隠れしていますが、昔会稽におりましたころ、手紙を(曹操から)頂き親密な言葉を頂戴しましたが、その古い約束を今も忘れていません。”と書いてあります。既に以前にも曹操に招かれ、それに応じるつもりだったのです。
続いて書いてあることには、”乱世で自分は北へは行けず、海を渡って交州へいったのだけど、食糧が尽きて野草を食べて飢死する者が多く三分の二が死ぬありさまでした。”とあります。
やっと目的地に到着したら(曹操が)天子を迎えられ、嵩山を巡行された、という話を聞き喜んですぐに荊州に向かおうとしたら蛮族が乱をなして交通が途絶し、殺害に会い、それでもさらに進んだら風土病が盛んで伯母が死に、随行者にも被害がおよび、彼らの家族もかなり死に、十人のうち一人か二人しか生き残らなかったとあります。
さに筆舌に作りがたい労苦ですが、これについて裴松之は、許靖は会稽において旅人で民間人であるから孫策が来たからと言って危険はない。海を渡り万里のかなたへ行き、さらには風土病の地に入り老若男女に塗炭の苦しみを味わわせているが、自ら招いた禍だ、孫策に使えた人達とくらべてどちらが勝っているのか、としています。

たしかに彼は一応名士で、知り合いもあったはずで孫策の兵が来ても推挙されて、臣下に迎えられる手立てがあったのではないでしょうか。

急いで川を渡る時に、船にのる順を人に譲り、苦労している人をいたわるという意味ではよい人に見えます。しかしそれだけなら所謂婦女子の情けというもので、今、目の前の人に優しくしてあげただけで、その人達の九割方が亡くなってしまうようでは愚かな指導者と言われても仕方ありませんね。





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2019年7月20日土曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (1)

また三国志に戻ります。
許靖(キョセイ)をとり上げます。なぜこの人は正史に伝をたてられたのか不思議に思ったからです。
許靖は汝南郡平輿県の人で、許劭(キョショウ)従兄弟です。
この許劭の方は月旦評と呼ばれる人物評論会で有名です。毎月初めに行われるこの人物評価の会が開かれ影響力は絶大であったと言います。マスコミもネットもない時代に個人の人物批評が大きな影響力を持つのは驚きです。橋玄という人が“若い曹操に許子将(許劭)と付き合うとよい”、と勧め、曹操は許劭を訪ね、彼に受け入れられ、それから曹操の名前が知られるようになったそうです。許劭が曹操を
子治世之能臣亂世之奸雄」(君は治世にあっては能臣、乱世にあっては奸雄だ)
と評し、曹操が喜んだのは有名な話です。
後漢書にはこの許劭の伝がありますが、三国志には許劭の伝はありません。その代わり従兄弟であり蜀に仕えた許靖の方の伝が三国志の蜀書の中にあります。彼も許劭とともに有名で、人物評価で評判をたてられたのです。
ところで許劭と許靖の二人は仲が悪かったようです。
許劭に相手にされなかった許靖は
「紹為郡功曹、排擯靖、不得齒敘、以馬磨自給。」
となるのですが、ここは井波律子さんの訳では
“許劭は郡の功曹となったが、許靖を排斥してとりたてようとしなかったので、許靖は馬磨きをして自活した。”
だそうです。功曹は漢代よりあった職で官吏の採用や査定をする人で郡の人事部長です。功曹はその土地の人がなるようで、かなり強い権限があったそうです。許劭は許靖の出身地である汝南郡の功曹になったと思われます。”馬磨き”というのは浅学にしてよくわかりません。文字通りにとれば馬を磨くのでしょうが、そのような仕事で家族を養えたのでしょうか。

許劭には嫌われたにせよ、彼は世評が高かったようです。後に、劉翊(リュウヨク)という人が汝南郡の太守になると許靖を推し、結局彼は尚書郎に登用され、官吏選抜を担当するようになります。董卓が朝廷で実権を握ると周毖(シュウヒ)を吏部尚書に任じて許靖と協議して人事を行わせた、とあります。ここでの記述によれば、彼らは汚職官吏を追放し、すぐれた人材を登用したそうです。その登用の記述の最後のところに少し腑に落ちない記述があります。それは
而遷靖巴郡太守、不就、補御史中丞。」
の部分です。井波さんの訳では、
“許靖を巴郡太守に昇進させようとしたが彼は就任せず、御史中丞に任命された。”
です。この記述の前の、優れた人を太守などに任命する話の主語はどう見ても周毖と許靖です。そうするとここの部分の巴郡太守任命はお手盛りのように見えます。しかしそのあとで“彼は就任せず”、と書いてあるので、彼が太守就任を断わったように見えます。しかし、それでは前後関係がおかしいです。就任しなかったのは董卓が拒否したのかと考えています。
さて周毖らに登用され、太守に就任した者たちは赴任すると董卓が横暴だというので挙兵して董卓を誅殺しようとします。董卓は登用された人間が自分に背いてきたので、周毖に対して怒って彼を斬罪に処します。普通に考えればこの時になぜ許靖が一緒に斬られなかったのか不思議です。
もっとも許靖伝の前にある法正伝の裴松之の註によると、話は違っていて、董卓は政権を握った時は賢者を抜擢しており、許靖が官吏選抜役にあったのは董卓が都に到達する以前の話だと書いてあります。
それはとにかくとして、周毖が殺されたのを見て許靖は自分も殺されるかも知れない、と恐れ、豫洲刺史公伷(コウチュウ)の下に逃げ、公伷が死ぬと、揚州刺史の陳禕(チンイ)を頼り、彼も死ぬと呉郡都尉の許貢(キョコウ)、会稽太守の王朗などに身を寄せます。この時親類縁者や同村の人を引き取っていつくしんで生活の面倒を見た、ということです。ぞろぞろ人数をつれて押しかけて(多分地位を与えられて)世話になれるというところを見ると、彼が相当な名士であったのだろうと推定できます。





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