2015年3月25日水曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 王翦(1)

今度は白起と合伝になっている同じく秦の将軍である王翦についてです。白起は秦の昭王に仕えたのですが、王翦は始皇帝に仕えています。

王翦も軍事的才能は豊かな人だったようです。秦の将軍として、始皇帝の11年に趙の九城市を抜き、18年には趙を平定し、さらに燕を撃って国都を平定しています。王翦の息子の王賁も軍事的才能があり、荊(楚)を破り、魏を破っています。始皇帝の天下統一の仕事の中で親子で大活躍です。
さて、ここに李信というこれまた有能な将軍が秦におりました。燕の太子の丹の軍を打ち破り丹を捕らえています。そして、李信と王翦がからんで有名なエピソードが発生します。

始皇帝が、かねて高くかっている李信に、荊を攻略したいが兵力がどれほどあればよいかと尋ねたところ、李信は
「不過用二十萬人。」
と回答します。つまり”二十万人以上はいらない”です。

同じことを王翦に質問すると、
「非六十萬人不可。」
と回答されます。すなわち”六十万人でなければ不可能”です。
攻略に必要な兵力の評価は攻撃相手の動員力、兵の質、地勢などを考慮して判断すべきものですが、これらについての二人の将軍がどのような想定をしていたかは史記には書かれていません。

とにかく始皇帝は王翦は年老いて臆病だ、と判断し、李信、および蒙恬に二十万人で荊を攻略させます。こうしてみると、秦は将軍の人材は豊富ですね。
一方王翦の方は頻陽に隠居します。
李信、蒙恬の二人の将軍は才能はあるので、当初は勝ったのですが、荊も頑張り、李信の軍を大いに破ります。敵はそんなに甘くはなかったのです。

この事態に始皇帝は大いに怒り、頻陽の王翦のところまで直接出向き、出馬するように頼みます。王翦は初めは病み疲れていると言って断りますが、六十万の兵をつけてくれることを認めてもらった上でようよう出陣します。

それにしても六十万は大軍です。
日本の戦国時代で大名の動員力は 一万石あたり、三百人とききます。六十万というのは二千万石の大名に相当します。兵制がどうなっているのか史記を読んでもよわからないです。そもそもどういうシステムで集めているのでしょう。集めた人間の訓練はどうするのでしょう。鎧と武器は持参なのでしょうか。兵糧を用意するのも大変です。
しかしとにかく王翦は秦の六十万の(使い物になる筈の)兵を率いて出陣することが出来たのです。秦にはそれだけの国力があった訳です。





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