2015年6月28日日曜日

史記 呂后本紀 第九(1)



呂后という人は漢の高祖の后です。
史記では、高祖と呂后の間に生まれた男子で高祖の次に帝位に就いた恵帝には本紀がなく、実際に権力を振った高祖未亡人である呂后の本紀のみあります。恵帝は影が薄い皇帝で、実質天下を抑えていたのは呂后だったからです。司馬遷の考えている本紀とはそういう性質のものなのです。
ちなみに漢書では、恵帝の本紀である恵帝紀第二があり、続いて高后紀第三(呂后の本紀)がある、という構成になっています。

呂后は高祖がまだ微賤であったころからの高祖の妻です。高祖との間には上に書いた恵帝と、魯元太后を生んでいます。ところが高祖が漢王になったころ戚姫を手に入れました。そして戚姫は寵愛を受け、趙の隠王如意を生みます。ここから暗雲漂う話になります。

「孝惠為人仁弱,高祖以為不類我,常欲廢太子, 立戚子如意,如意類我。」
野口定男さんの訳によれば
孝恵(漢の歴代の皇帝は高祖以外は諡号にがつきます。)の人となりは仁弱で、高祖は自分に似ていないと思い、常に太子を廃して戚姫の子の如意を立てようと望んでいた。如意は自分に似ていると思っていたのだ。“
となっています。その上、戚姫は高祖が函谷関から東へと討ってでるとき、つねにこれに付き従って日夜啼泣して如意を太子にしてもらいたいと高祖に訴えたのです。
一方呂后の方はすでに年嵩で、高祖にも会う事も希で高祖の方も疎んじる状態でした。

この状況は呂后にとっては大いに不満であり、かつ危機を感じる原因になることは誰にでも理解できます。自分は、もともと高祖が偉くもない時から共に過ごし、支えてきた正妻なのに対し、戚姫は高祖が漢王という相当な有力者になった頃に現れた愛人です。自分の生んだ子が跡継ぎにならず、後から来た愛人の生んだ子供が跡継ぎになってしまいそうなのです。
それに、容色の衰えた呂后から寵愛が若くて綺麗な戚姫に移ることは多少我慢ができるかも知れませんが、その戚姫が寵愛をいいことに自分の子供を太子にするよう日夜高祖に迫っていることを聞いたら呂后ならずとも殺意を覚えるのも仕方がありません。
なお、漢書高后紀第三ではこのあたりのいきさつはなにも書いてありません。

出発点はここですから、呂后が自分の立場が強くなれたら戚姫と如意に制裁を加えようと考えていたとしても、仕方がなかったのです。ここまで呂后がさほど非道とはいえなかったのですが





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2015年6月19日金曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 王翦(3)

王翦は荊軍を破ります。その後の戦いを経て荊は秦の郡県になり、その後王翦の子供の王賁、および李信が活躍し、燕、斉も下して秦の始皇帝の26年に秦により天下が統一されます。
「秦始皇二十六年,盡并天下,王氏、蒙氏功為多,名施於後世。」
という記述があります。王翦、王賁の出た王家、蒙恬の出た蒙家は功績が大きく、後世まで名声を伝えられたのです。

しかし、秦の統一による平和は長くは続かず、二世皇帝は愚かで、陳渉、呉広の乱が勃発します。この時に王翦や王賁は死亡しておりました。(蒙氏は気の毒にも亡ぼされていました。)王翦の孫の王離というものが当主で、趙王と張耳を鋸鹿(キョロク)城に包囲します。この時に次のようなエピソードが出てきます。
「或曰:「王離,秦之名將也。今將彊秦之兵,攻新造之趙,舉之必矣。」客曰:「不然。夫為將三世者必敗。必敗者何也?必其所殺伐多矣,其後受其不祥。今王離已三世將矣。」
野口定男さんの訳によれば ”ある人が言った。 「王離は秦の名将だ。いま、強大な秦の兵をひきいて、新しく出来たばかりの趙を攻めている。攻略するのは必定だ。」
するとその人の客が言った。
「そうではありません。そもそも、三代にわたって将軍となる者は必ず敗れます。どうしてかと申しますと、祖父や父が殺したり伐ったりした者が多いので、子孫がその不祥を受けるのです。ところで王離はすでに三代目の将軍です。」”

この客の話は、大して説得力のあるものではないのですが、実際に王離は趙を救援した項羽に破られて虜になります。

この伝の末尾に司馬遷は王翦について秦の将として六国を平らげて大手柄を立てたことを述べたあと次のように言っています。
「然不能輔秦建德,固其根本,偷諭合取容,以至圽身。及孫王離為項羽所虜,不亦宜乎!彼各有所短也。」
”しかし、秦王を輔弼して徳をたて、国家の根本を堅固にすることができず、いたずらに始皇帝と調子をその意にかなう態度をとり、そのままついに死没した。そして、孫の王離の代になって項羽にとりこにされたが、当然のことではないか。”

しかしながら司馬遷がなんといおうと、王翦について言えば、秦の天下統一におおきな寄与をし、始皇帝にゴマを擦りまくって資産を得て結構な老後をおくったのですから、まずもって彼は結構な人生だったと思います。天の報いは蒙っていません。

一方で司馬遷の批判はもっともなもので、秦で大手柄を立てて高碌を食む高官になったのであれば、秦の国家に胚胎する危険因子を除くべく、宦官を抑え、有能でまともな長子が立つようなすべきだったでしょう。それをせず、戦場を離れては我が身、我が一族の安泰と利益を感がるだけでは一流の人間ではない、というのはもっともです。しかし記述はそこにとどめておくべきだったのではないでしょうか?

孫の王離の話を持ち出して、強いて言えばそういう国家安泰の策を講じていれば陳勝、呉広の乱も勃発せず、結果的に王離も戦に敗けることはなかったという可能性を示唆できるのかも知れませんが、これは因果関係が遠すぎます。孫の悲運は孫が勝手に陥った話で王翦の無策とは直接に関係はないでしょう。司馬遷は王翦のようなことをやって何事もなく、畳の上で死ねるのは納得がいかなかったので、無理して王離の因果話をくっつけたように見えます。

しかし、このような振る舞いをする人は古来珍しくないどころか、当今とても、真に会社の長久の策を挙げず、目の前の社長あるいは上司の意に沿うことをひたすら目指し、うまく会社を勤めあげる役員などざらにいると思います。 私利私欲を追いつつも、それが小は会社の利益、大は国家の利益に繋がるようにしてゆく人材が望ましいと誰しもが思うでしょうがなかなか多くは出てきませんね。




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2015年6月8日月曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 王翦(2)

ここから先、ある意味でいかにも史記的な話が出て来ます。彼は出陣のときから始皇帝にほうびをねだります。このなかでまず、彼は次のように訴えています。
「為大王將,有功終不得封侯,故及大王之向臣,臣亦及時以請園池為子孫業耳。」
野口さんの訳では
”大王に将軍たるものは、いくら戦功がありましても侯に封ぜられる見込みはありません。ですから、大王の御心が臣に寄せられております間に、臣も機を失わずに園池を請願し、子孫の財産をつくっておきたいと思うだけです。”
察するに当時の秦の制度では封建制度のように、有力な家臣が自分の知行地を得てそこからの上がりで子孫までゆったりとくらす訳にはいかず、普通には王に使われている間だけ、俸給がいただけるシステムのようです。これではサラリーマンと同じで御用済みになれば収入はとだえ、老後の生活に窮する危険があるわけです。
私財として農奴付きかも知れない園地を得ることは可能ですが、商才があって自分で資産として得るか、宮仕えなら別途君主にお願いして、君主の恩恵として与えてもらうというところなのでしょうか。

強く褒美をお願いするもうひとつの理由が書かれています。ある人が、将軍のおねだりは度を越している、と言ったのに対する回答として出てきます。
「不然。夫秦王粗而不信人。今空秦國甲士而專委於我,我不多請田宅為子孫業以自堅,顧令秦王坐而疑我邪?」
”そうではない。あの秦王は粗暴(上の引用で粗と打ちましたが立心偏)で人を信じない。いま、秦国内の武装兵を空にして、もっぱら私に委ねているのだ。その私が野心のないことを示すために、田畝・宅地を多く貰い受けたいと請うて、子孫の財産をつくりみずからの地位を固めようとでもしないと、却ってたちまち秦王にわたしを疑わせることになるのではないか。”
ということだそうです。
史記流の人の意表をつく洞察のように見えます。

王翦のこのエピソードは漢の蕭相国世家のなかで謹厳実直で人望のある蕭可に対してある人が注意した話を思い出してしまいます。
その人は”あなたの位は相国であり、功績は第一位であり、この上何を加えることができましょうか。あなたが関中に入ってから、十余年にわたり人心を掴んでいる。その上なお孜々として民の和をはかっている。陛下(高祖劉邦)があなたの動向を問われるのは、あなたが関中を傾け動かしはしないかと恐れるからです。”と言って、蕭可に沢山の土地を安く買い占めてみずからを汚し、高祖を安心させることをすすめ、蕭可はそれに従います。そして高祖を喜ばせます。
専制君主に仕えるときの問題は秦の始皇帝でも漢の高祖でも類似の危険があり、対策として自らを汚すことも有効ということでしょうか。
でも始皇帝に疑われないためにおねだりを繰り返す、あるいは高祖に疑われないようにするのに、不正に土地を安く買い叩くのは本当にベストなのでしょうか?自分ならこの対策も身を滅ぼす原因になりそうでやる度胸もありません。だからそんなに出世しないのかも知れませんが...




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