2018年9月29日土曜日

論語(25); -君子と小人(x)-

陽貨第十七にはあまり君子の話は出てきません。陽貨第十七の23
「君子義以為上。君子有勇而無義為亂,小人有勇而無義為盜。」
とあります。これは子路の質問
「君子尚勇乎?」(君子は勇をたっとびますか?)への回答で、
“君子は(勇よりも)義をたっとぶ。地位の高いものが勇があって義がなければ乱をなす。小人が勇があって義がなければ盗みを働く”
ということです。
ここの文には君子が二回出てきますが、一つ目は孔子の説く人の目指すべき姿である君子、二つ目は地位が高い人ということです
質問した人が子路なので、勇ばかりではだめと説いたのでしょうか。為政第二の24にある有名なことば
「見義不為,無勇也。」
(為すべき)義を見てなさないのは勇気がない”
が尤もな話で、勇気を欠いていて保身に走り、義を実践できないなら、君子たる要件を欠いていると言わざるをえません。孔子は勇はとても大事だと考えている筈です。

陽貨第十七の24に、子貢の孔子への君子も憎むことがあるのか、との質問への孔子の答えと、孔子の子貢へのお前も憎むものがあるかということへの答えがあります。
「子貢曰:「君子亦有惡乎?」子曰:「有惡:惡稱人之惡者,惡居下流而訕上者,惡勇而無禮者,惡果敢而窒者。」曰:「賜也亦有惡乎?」「惡徼以為知者,惡不孫以為勇者,惡訐以為直者。
“子貢が「君子も人をにくむことがありますか。」とたずねた。孔子は「にくむことはある。人の悪いことを言い立てるものをにくむ。低い身分で上役を悪くいうものをにくむ。勇気があるが礼節を知らないものをにくむ。決断力がありながら道理のわからないものをにくむ。」と答え、今度は子貢に「お前もまたにくむものがあるか。」と聞いた。子貢は「他人の考えや動静を窺うことをもって知だとしていることをにくみます。不遜傲慢をもって勇気とするのをにくみます。他人の秘密ごとを暴き立てて正直(せいちょく)を任ずるものをにくみます。」と答えた。”
君子たるものは、推察、闘争、暴露、摘発などというのが正義に根差すものでなくて、賤しいだけのことである場合を知っていなければならないし、そうしたことはしないものなのでしょう。いつの世にも通じる鋭い指摘と思います。

微子第十八の7に君子についての言及があります。
君子之仕也,行其義也。
“君子が使えるというのは(利禄のためばかりでなく)その大義を行うためである”
といっています。この章の全体はやや長くて、隠者との関わりの中で述べられています。子路が隠者に対して、(多分孔子の意を受けて)自分の身を清く保つために仕えないで暮らしていることを、大義を廃していることになる、と説いています。

君主に仕えて行政に関わるということが君子にとって、大義の実践なのだ、ということです。
孔子は、世を捨てて何も関わらず、積極的に義を行わず、責任をとらずにいることを決してよしとはしていません。俗世間で苦労してそれでも身を正しく行いを正しくする人を君子と考えています。
ただしこの章での相手の隠者は高徳の人として扱われています。






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2018年9月23日日曜日

論語(24); -君子と小人(ix)-

季氏第十六の6侍於君子“なることばが出てきますが、これは君子に侍する時の心掛けの話だし、君子というのも”目上の人“という意味合いのようです。

季子第十六の7
「君子有三戒:少之時,血氣未定,戒之在色;及其壯也,血氣方剛,戒之在鬭;及其老也,血氣既衰,戒之在得。
とあります。
“君子には三つの戒めがある。若い時は血気が定まらず、男女の色情について戒めなければならない。壮年期には血気が盛んで、争い戦うことを戒めなければならない。老年期になると血気は衰え、利欲を求めることを戒めなければならない。”

血気というのが分かるようでわかりません。色情、争い、利欲の追求の抑制という戒めはわかりますが、血気が定まらない時に色情に気をつけろとか、血気が衰えると利欲に迷うというのは何か違う、という感じがします。
朱子の「論語集注」には范祖禹がこの部分を論じたことが引用されています。すなわち、“血気は聖人と普通の人で異なることはなく、異なるのは志気である。血気は衰えることがあるが志気に衰えない。若い時は定まらず、壮年で強くなり、老いて衰えるのは血気であり、色を戒め、争いを戒め、利欲を戒めるのは志気である。君子は志気を養うから、血気に動かされず時を経て徳も高くなる。“というのです。
そういうことなのか、と一応は思いますが、論語の解釈としてそれが正しいのか疑問に感じます。

季氏第十六の8に君子と小人を比較した以下の言葉があります。
「君子有三畏:畏天命,畏大人,畏聖人之言。小人不知天命而不畏也,狎大人,侮聖人之言。
君子には三つの畏れ(はばかり)がある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないで畏れず(勝手に振る舞い)、大人の寛大さに狎れて失礼を働き、聖人の言葉を馬鹿にする。“

ここで天命は、古註では順吉や逆凶で運命のようなものだったらしいです。今、私が天命という言葉を聞いて思い浮かべるのもそうしたものです。新註では天が人やものに与えた正理なのだそうです。天からは運命を授かってしまうのですが、それは碌命で、もう一つ人の使命として授かる道徳、徳命があり、君子はそれを自覚し、実践するものである、ということらしいです。
確かに何者も恐れず、何をどう思おうと個人の勝手という考え方は、自分の好悪、利害の主張の正当化に結びつく危険があります。これでは確かに小人ですね。

季氏第十六の10には次の記述があります。
「君子有九思:視思明,聽思聰,色思溫,貌思恭,言思忠,事思敬,疑思問,忿思難,見得思義。
“君子には九つの思う事がある。視る時は見誤りなくはっきり見たいと思い、聴く時は誤りなく聴き分けたく思い、顔つきは穏やかでありたく思い、容貌はうやうやしくしたく思い、言葉は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑わしきは問うことを思い、怒りには腹立ちまぎれに対応したあとの後難を思い、利得に直面したら道義にかなったものであるかを思う。”

君子とは、慌てて粗忽な対応をしないよう、恨みを招かないよう全て慎重に振る舞う人、ということでしょうか。君子でなくても処世の仕方としてはそうあるべきでしょうね。





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