2020年4月26日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(3) -竇皇后(i)-


代王は文帝として帝位につくことになるのですが、その文帝の皇后が竇(トウ)皇后です。後継者である景帝を生んでいます。
竇皇后が王后として代王(後の文帝)のところへ行く経緯が現代人からみたら馬鹿げた話です。竇皇后は良家の子女として選抜されて呂后の宮中へ入ったのです。その後、呂后が宮女を諸王に五人ずつ配ることにしたのだそうです。竇皇后はそのメンバーに入ったのですが、彼女は実家に近い趙に行かされることを希望し、宦官にも頼んでおいたそうです。しかし宦官がそれを忘れて分配名簿を作成し、代王(高祖の次男)のもとに行くことに決まったとのことです。そもそも趙は北京のずっと南で邯鄲を都とする一等地なのに代は匈奴に接近した辺境です。竇后は行くのを嫌がったそうですが結局説き伏せられて代の国に行ったのです。結果はそう悪くなくて、
代王獨幸竇姬,生女嫖。孝惠七年,生景帝
とあります。代王は五人来たうちで竇姫のみを寵愛したのです。そして竇姫はまず女子の嫖(ヒョウ)を生み、恵帝(高祖の跡継ぎで呂后の子が当時皇帝だった)の七年に、のちの景帝となる男子を生んでいます。なお、もともと代王の王后は四人の男子を生みました。しかし本人は気の毒にも代王が帝位に就く前に死去しました。代王が帝位に就いたあと、その残された四人の男子も母を追って次々に病死してしまいました。
その結果、太子を立てる時は竇姫の生んだ男子が最年長で太子に立てられ、お蔭で側室だった竇姫も皇后となります。あとで書きますように竇皇后の実家は大したものではなく、強大な外戚となるおそれがないので、みんなが安心して彼女を皇后に立てました。竇皇后はとても運が良かったわけです。

そして竇皇后に血のつながりのある人に恩恵が行きます。
景帝以外の竇皇后の子供たちも、文帝の子ですから恵まれた地位を得ます。最初に生まれた娘は皇帝の娘として館陶長公主となり、景帝となる男子のあとに生まれた男子も代王になります。彼はのちに移されて梁の孝王となります。

竇皇后の親は早くなくなりましたが、追封して父を安成侯、母を安成夫人とします。そして薄姫の親の墳墓の例に倣い園邑が作られます。
それからさらに血縁への恩恵の話と、政治的動きについての話は続いて行きます




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2020年4月18日土曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(2) -呂氏、薄氏-


外戚伝ではまず呂氏が挙げられています。高祖の妃である呂后についてはすでに平成27(2015)6月から平成28(2016)2月にわたり、13回にわたって書いております。その中には外戚伝の記述も入れています。高祖劉邦の妃で漢書では「呂后為人剛毅」とあります。しかしすでに書いたように呂后という人は剛毅というより、冷酷残忍な人です。
彼女は呂氏の繁栄を願ったのでしょうが、その強権的やりかたは、結局呂氏以外を全部敵に回すことになり、彼女の死後一族は根絶やしにされました。呂氏の場合、呂后が呂氏の人間も沢山取り立てた、という意味で外戚の齎す弊害を示していますが、根本的には外戚という問題ではなく呂后という女の弊害であったと見ることもできます。

次に扱われるのは呂氏が滅んだあと帝位についた文帝の母の薄姫です。薄姫の父親が自分の主人家(魏氏)の王女の魏媼(ギオン)と通じて薄姫を生ませたのです。当時は秦末の混乱期で、魏の国では魏豹(ギヒョウ)という者が立って王となりました。この時、魏媼は自分の娘(薄姫)を魏の宮中に入れます。魏豹と薄姫がどの程度の血縁関係かは外戚伝ではわかりません。
さて混乱は間もなく漢(劉邦)と楚(項羽)の争いになってきました。魏豹は漢についていたのですが、許負という者が薄姫を見て天子を生むに違いないと言ったので、気が変わりました。薄姫の生む子が天子になれるなら自分が天下を取れると考えたようです。ちょっと愚かです。もし魏豹自身が天下を取れるなら許負は魏豹に向かって、あなたは天子になれる相をしている、とかいうべきでしょう。魏豹は自分が天子になれなくて、薄姫の生む子が天子になるなら、その子は自分の子供ではないかも知れないことに思い至らなかったのでしょうか。
とにかく魏豹は漢に背いて中立し、楚と和を通じます。その結果は惨憺たるもので魏豹は漢の虜になり、薄姫は宮中で織物を織る所(織室)に送り込まれてしまいます。織室送りは罪人女の扱いだそうです。しかし魏豹の死後、織室の薄姫が高祖の目に留まり、後宮に入れられます。
薄姫の運がよいのは男の子(八歳で代王に立てられた。のちの文帝)を生んだあと、高祖の寵愛も特別厚くなかったのです。その結果、高祖がなくなったあと、呂后の怨みの対象になりませんでした。戚夫人のように惨殺されることもなく、他の寵愛を受けた女たちのように宮中に幽閉されることもなく、代王である自分の子に従って代へ行き、代の太后となることができました。この経緯からすれば薄姫には大きな後ろ盾となるような実家はありません。
呂后が死に、呂氏が滅んだあと誰を後継者にするかが議論されますが、
大臣議立後,疾外家呂氏彊暴,皆稱薄氏仁善,故迎立代王為皇帝」
という記述がでてきます。
すなわち、大臣たちは後継者を議論し、外戚呂氏強暴を憎み博氏の仁善を称え、そこで代王を皇帝にした、というのです。代王の仁善ではなく、薄氏の仁善を称えて皇帝を選んでいるのです。呂后に懲り懲りして、権力を振り回しそうな実家もなく、本人もおとなしくて野心がなさそうな母をもっているから代王を担ごうということになったのでしょうか。

それでも薄姫の弟は軹侯(シコウ)となりました。すでに死んでいる父は追尊して霊文侯とし、会稽郡に園邑(墓守の邑)がつくられました。霊文夫人(つまり魏媼)は檪陽(レキヨウ)に葬られていたので、その地に園邑を作らせています。
さらに薄姫の父親は早く死んで、魏媼の家すなわち魏氏が薄姫の養育に努めたので褒賞があったようです。
大臣たちが望んだように薄姫および薄姫の外戚が何をしたということはないですが、外戚および関係者は恩恵を被っているわけです。





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