2014年2月23日日曜日

三国志 三国志演義、抱朴子 禰衡(2)



曹操の座を勧めない態度に対して禰衡は
「天地雖闊、何無一人也!」
“天下広しといえども、一人も人はいないか”
と嘆きます。ここまでの禰衡は一応教養があり、大層孔融から高く評価され、反曹操の気風のインテリという扱いに見えます。
しかし、このように言ってしまうとあとが引っ込みのつかないことになります。
曹操に荀彧、荀攸、あるいは張遼、許猪、李典、楽進、などを挙げて天下の人材がいるではないかと反論されます。
これに対し禰衡はどの人材もくだらないといちいち馬鹿にします。もともと人を馬鹿にしていたからそのようなもの言いになりますが、これでは敵を増やすばかりです。

曹操は偉そうなことをいうならお前には何の能がある、と反問します。これに対する禰衡の回答もいくら物語にしてもひどいものです。
衡曰、『天文地理、無一不通。三敎九流、無所不曉。上可以致君爲堯・舜、下可以配德於孔・顏。豈與俗子共論乎!』
“天文地理、一つとして通じないものはなく、三教九流(学問すべて)知らぬものはない。上は堯・舜の世に返すことができ、下は孔子・顔回の徳を広めることもできる。とても凡俗どもと一つに論ぜられるものではない。”
これではとても学問教養のある人の言いぐさには聞こえません。あとの”堯舜の世に返せることができ”以下は、具体的には何をどうできるのか分からない体たらくです。

ここで禰衡の態度に腹を立てた曹操は禰衡を太鼓叩きをやれ、といいます。天下の実権を握る曹操相手に大口をたたいたのですから、殺されても断ればよさそうなのにこの役を引き受けます。
太鼓そのものはどういう訳か大変上手に打ったことになっています。何時稽古したのでしょう?そのあと着替えろと指示されるとみんなの前で裸になったり、奇矯な行動をしつつ曹操を罵ります。

そして曹操は荊州の劉表のところへ(降伏を勧める)使いに行けといいます。この使いは逆に名誉な仕事だから野心があれば引き受けてよさそうなのですが、今度は断ります。しかし無理やり行かされます。

ここで、曹操は、劉表を降伏させるよりも禰衡を追い払う事を優先したかに見えます。ここでは大局的に見れば禰衡なんてどうでもよくて、劉表に利害得失を説き、曹操に従うようにさせる人材を選んで送るべきだったのにそうはしていないのです。

禰衡は行った先の劉表に対して失礼な態度をとり、劉表は禰衡を黄祖の所へ追っ払います。そして黄祖のもとで酒の席で黄祖をバカにして、首を斬られる羽目に陥ります。ここで禰衡は死ぬ間際まで黄祖に対する悪口を止めなかったと書いてありますが、くだらない最後に見えます。
酒の席で人を怒らせただけです。この時代に権力を持った人間にこんなことをしたら殺される危険はあったことでしょう。

三国志演義の作者は、物語のなかで禰衡の振る舞いにどんな意義を認めているのでしょうか。悪役の曹操を罵ったから価値あり、ということになっているのでしょうか。



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2014年2月16日日曜日

三国志 三国志演義、抱朴子 禰衡(1)



昔、三国志演義で禰衡(173-199)に関する記述を初めて読んだときに、彼がどのような意味をもつ人間なのか理解できませんでした。曹操やその配下のものに失礼な態度をとったのですが、どういうつもりでそうしたのでしょう。中国では曹操を罵倒した故に人気がある、という説明を読んだことがあります。どうでしょうか?
禰衡は漢室に忠義であるが故に曹操に憤懣をぶちまけたわけでもなさそうでした。したがって曹操に対して謀反を企むなどということもありませんでした。
結局黄祖に殺されてしまうのですが、彼は何をしたかったのでしょうか?歴史でどのような役割を果たしたのでしょうか?なんとも不思議な印象をのこしました。

さて禰衡は三国志演義では第二十三回 禰正平裸衣賊 吉太醫下毒遭刑(禰正平衣を裸(ぬ)いで賊を罵り 吉太医 毒を下(も)って刑に遇う)に登場します。
当時曹操は劉表を帰順させたいと考え、張繡(チョウシュウ)を説得に行かせようと考えていたところでしたが、賈詡が
「劉景升好結納名流。今必得一有文名之士往之、方可降耳。」
と言います。つまり
“劉表は名士と誼みを結ばれるをを好む方ゆえ、今度は是非文名の聞こえ高い方が説得にいかないと降りはいたしますまい。”
です。要するに劉表は文化人好きで、インテリぶりたがる人なのでしょう。
そこで曹操が荀攸にこころあたりを聞くと、荀攸は孔融を推薦します。そして荀攸が依頼にゆくと孔融は禰衡がよいといって、天子あてに禰衡の推薦文を書きます。この推薦文は「禰衡を薦(すすむ)る表」として文選にもある歴史に名高い名文です。
小川環樹さんの訳本ではこの文の訳出は省略されていますが、立間祥介さんの訳本には訳出されています。
この推薦文の内容は、禰衡は目にしたこと耳にしたことを忘れない人で、かつ忠誠で善
を薦め、悪を憎む立派な人間であるということが縷々説かれています。これを読めば
禰衡はどんなに立派な人なのか、と思うくらいです。

そして天子は曹操に推薦文を下げ渡し、曹操は禰衡を召し出します。この対面が不思議です。
「帝覽表、以付曹操。操遂使人召衡至。禮畢、操不命坐」
“帝はこれをご覧になり、これを曹操に下げ渡された。曹操は人をやって禰衡を呼ばせた。挨拶が終わったが、曹操は着座せよとはいわない。”
これで早くもこじれ出します。
これは、この物語りの不自然さです。話の流れでは、曹操は推薦された才能のある文化人との評判が高い(らしい)禰衡を劉表への使者として使う予定だったはずです。これを呼び出しておいて、いきなり相手を侮辱するなら曹操は何をやっているのか分からなくなります。





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2014年2月3日月曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(8)



高貴郷公の死に関連して出てくる愚かしい行動の結果、一族皆殺しにされた人は当時尚書だった王經という男です。

高貴郷公紀に引用されている「漢晋春秋」の記載によれば皇帝(高貴郷公)は実権が日に日に王室から離れて行くのが怒りに堪えず、侍中の王沈、尚書の王經、散騎常侍の王業を召し寄せて司馬昭を誅殺しようと提案します。これに対し王經は、司馬氏の一門が実権を握って随分時間がたち、司馬氏のために働くひとばかりだし、一方陛下は兵員、武器、甲冑も整えられない、とても無理だと反対します。しかし皇帝は用意した勅命を投げつけて、もう決めたことだ、と宣言し皇太后のところへ参内します。
王沈と王業は大急ぎで司馬昭に注進に行きます。そこで司馬昭は備えを行いました。

なお、ここで皇太后のところへ参内というのは不思議です。ことを起こしたらすぐにやる必要があります。ここで参内して何か具申すれば内容は他の人に漏れます。ぐずぐずしていたらただでさえ成功がおぼつかない誅殺計画が、さらに危うくなります。誅殺してしまってから事後報告して形式を整えれば、とは考えなかったのでしょうか。

さて高貴郷公紀に引用されている「世話」によれば、
「王沈、王業馳告文王、尚書王經以正直不出、因沈、業申意」
井波さんの訳によれば、
“王沈と王業は司馬文王のもとにかけつけ報告したとき、尚書の王經はまっとうな人間だったので退出せず、王沈王業に頼んで(司馬文王に)気持ちを伝えさせた。”
‘申意’とはどんな気持ちを伝えてくれと頼んだのでしょう。諸夏侯曹伝第九の「世話」の引用の記述を見るとその意が推察されます。
「王業之出、不申經()[]以及難。經刑於東市、雄哭之、感動一市。刑及經母、
井波さんの訳によれば、
“王業は御所の外に走り出て(司馬文王のもとへ急を知らせに駆けつけたが、後に残った)王經の気持ちを説明しなかったために、王經は災禍にあってしまったのである。王經が東の市場で処刑されたとき、向雄は彼のために慟哭し、市場中の人を感動させた。処刑は王經の母にまで及んだ。
です。
つまり、司馬氏への連絡に一緒には行けないが、王經は司馬氏にたてつく気はない、皇帝を止めるのでよろしく、ということでしょうか。

「晋諸公賛」では、
「沈、業將出、呼王經。經不從、曰「吾子行矣!」」
です。訳では
“王沈と王業は宮殿の外へ出ようとしたときに、王經を呼んだが、王經は従わず、「あなたたちは行きなさい」といった。”
です。この記述でも王經は王沈と王業を止めていません。

皇帝は既に事を起こしてしまって、取り消しは効きません。王經がもし皇帝に忠実であろうとするならば、王沈、王業を斬ってでも皇帝に従うべきだったでしょう。
王沈、王業に気持ちを伝えてもらおうというのは、まるで保険をかけようとしているような行いで、そんなに立派な振る舞いには見えません。

逆に言えば、先のことは誰にも確実にはわかりません。現実にこの瞬間に居合わせて、司馬氏にご注進に走って命は助かろう、とするのも100%安全どうかは分かりません。皇帝に誰か強力な助っ人が現れて、司馬氏は滅んでしまうかも知れません。そうなったら皇帝を裏切って司馬氏へ駆け込んだ王沈、王業は本人たちはもとより、一族が皆殺しになったでしょう。彼らとて、より安全な方をとったとはいえ最低限のリスクはとったのです。

繰り返しになりますが王經がもし皇帝に忠実たらんとするならば、王沈、王業を斬って皇帝と共に討って出るべきだったでしょうし、もし身の安全を図ろうとするなら、王沈、王業と一緒に司馬昭のところに駆けつけるべきだったでしょう。
皇帝のすでに決めてしまった誅殺計画に反対しつつ、一方では王沈、王業を止めもせず、気持ちを伝えてくれと頼むのは汚い振る舞いです。王業が気持ちを伝えたとしても、その心根を憎まれて結局殺されたのではないか、と思ったりします。





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