2017年1月29日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (10)

曹操は建安十三年(208)六月に漢の丞相になりました。しかし同年十二月に赤壁の戦いで敗れました。とはいえその四年後である建安十七年(212)に特別扱いの臣下となります。
すなわち、拝謁の際に自分の名前を言わない、宮中での移動の際小走りに走らない、剣を帯び、履をはいて殿上に登れる、という特権をもつことになりました。
さらに建安十八年(213)に魏公になります。位人臣を極め、大権力者になった訳です。

そしてこの年、献帝は曹操の三人の娘を迎えて貴人(皇后の次の身分)にします。ただ一番小さい娘は国で成長をまつことにしたとのことですから、ずいぶん小さかったでしょうね。とにかく曹操は娘を帝に押し付ける位の力をもつようになったのです。

ところで三国志の裴松之註がここでは変なことになっています。三人の娘が貴人になった記述があって、これについて註があって「献帝起居注」を挙げて、(献帝は)王邑を使者として璧、帛(しろぎぬ)、玄纁(ゲンクン=赤黒いきぬ)、絹五万匹を結納として贈ったことなどが書かれています。
そして、その話の後に、馬超、韓遂を打ち破った話と、任地に赴く毌丘興(カンキュウコウ)に、羌族へ人を遣いにやってはならない、と曹操が忠告した話が続きます。
この毌丘興の話にも註がついているのですが、毌丘興とは関係なくて、なんとまた「献帝起居注」の引用がでてきて、王邑が二人の貴人(最年少の子はまだ国にとどまる)を迎えとった詳細がくどくど書いてあります。
裴松之が何かの手違いをしたとしかか思われません。

さてこの二人の貴人が入ったということは、現皇后の伏氏が邪魔になったということです。

そして翌年の建安十一年十一月に、伏氏が父親(伏完)に送った手紙で、献帝が董承(彼は献帝から曹操討伐の密勅を受けた。)が処刑されたことについて曹操に恨みを抱いている、と書いた件が発覚し(あるいは発覚したと称され)、伏氏はもとより伏完とその一族が処刑されます。死者は数百人に上ったとのことです。
仮に伏皇后が邪魔だったとしても伏皇后に何の罪がありましょう。曹操のやり方はなんとも冷酷なものです。


 かくて建安二十年(215)に献帝は曹操の真ん中の娘を皇后としました。思い通りにことが運んだわけです。

建安二十三年(218)に漢の大医令である吉本が少府の耿紀(コウキ)、司直の韋晃(イコウ)等と共謀して反乱を起こし、許を攻めます。結局これは失敗して彼らはみな死にます。彼らは、漢の帝位が魏に移項していくのが我慢できなかったのです。曹操は臣下として位も特権も上がる一方だったのですが、それが忠義な漢の臣下には、単なる昇進には見えず、曹操自身が権力を固めていく過程に見えたのでしょう。実際三国志の魏書にでてくる人材の多くは漢の臣というよりは魏の臣です。

この反乱事件の後始末で理不尽な話が「山陽公載記」に出てきます。この反乱で火が放たれたのですが、漢に仕える百官を鄴に召し寄せて、消火に加わったものは左、消火に加わらなかったものは右に集めます。
人々は消火に加わったといえば無罪になると考え、左につきました。すると曹操は消火に加わらなかったものは反乱を援助したはずはないが、消火に加わった者は反乱援助の賊だ、として全員殺した、とあります。こんなのは全く言いがかりというもので、漢の臣下であるものを無法に殺しているとしかみえません。





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2017年1月23日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (9)

さて袁紹の子供たちを滅ぼしたあと。建安十三年(208)の春正月に曹操は鄴に帰還し、六月に漢の丞相になります。

そして七月に曹操は南に向かいます。劉表征伐です。
「秋七月、公南征劉表」
と書かれています。

対する劉表は八月にあっけなく病死してしまいます。後を継いだ劉琮(リュウソウ)はなすすべがなく曹操に降伏し、曹操は首尾よく荊州をとります。

これに続くのが有名な赤壁の戦い(建安十三年十二月)です。
しかし、この三国志中の一大イベントについて、正史(魏書)の武帝紀ではおどろくほどあっさりとした記述しかありません。

公至赤壁與備戰、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。

たったこれだけです。今鷹さん、井波さんの訳によれば、

“公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦となった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。劉備はかくて荊州管下の江南の諸郡を支配することとなった。”
ということです。詳しい戦闘の様子の記述もなく、曹操や劉備の個性が躍動するようなエピソードもありません。

赤壁での敗戦の一年少々あとの建安十五年(210)の春に曹操は広く人材を求める布告をだします。この布告はある程度は有名なもので、曹操の考え方がでています。その布告のあとの方は次のようになっています。

「・・・若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?・・・」

今鷹さん、井波さんの訳によれば

“・・・もし必ず廉潔の人物であってはじめて起用するべきとすれば、斉の桓公はいったいどうして覇者となれたであろう。(管仲を指す)今天下に粗末な衣服を着ながら玉のごとき清潔さをもって渭水の岸辺で釣りをしている者(太公望呂尚を指す)が存在しないといえようか。また嫂(兄嫁)と密通し賄賂を受け取ったりはするが(才能をもち)魏無知にまだ巡り合っていない者(陳平を指す。魏無知に推挙される)が存在しないといえようか。”

この布告は首尾一貫していないところがあります。
人材は有能であればよく、必ずしも廉潔である必要はない、と言いながら、太公望を挙げていますが、彼はそこにも書かれているように清廉な人間で、渭水で釣りをしていた、とある通りです。斉の桓公に覇を唱えさせた人材として管仲を考えているとしたら、彼は特に悪徳がある訳ではありません。諸葛亮が自らを管仲に比していたくらいです。

結局廉潔でない代表例として出てくるのは陳平です。その為したる不徳が兄嫁との密通と、収賄です。そして曹操の人材観を表すことばとして妙に有名になり後世に残っています。

有能であれば聖人君子である必要がない、という意見は理解できるものです。政治・軍事でマキャベリストでもよいわけです。しかし聖人君子でない例が、兄嫁と関係し、賄賂も受け取る人なんてどうして挙げる必要があるのか理解に苦しみます。





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