2016年5月28日土曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(6)



曹操に背いて沛に駐屯した劉備を曹操は攻撃し、劉備を撃破します。その結果、劉備は袁紹のところに逃げ込みました。この時関羽は捕えられ、曹操のもとに行きました。

袁紹が決意して曹操征討の兵を起こしたとき劉備は袁紹のもとにいた訳です。まずは白馬にいる劉延を配下の将軍である顔良に攻撃させます。
このあたりの両軍の動きですが、袁紹の方は黄河を渡り、延津(エンシン)の南に砦を築き、劉備と文醜に曹操軍に挑戦させます。
曹操はこれに対し延津に到着後、兵を渡河させて背後を突く動きを見せます。袁紹はこれに対応するため兵を西に動かします。その後で白馬が曹操により襲われ、関羽により顔良が斬られます。

顔良については沮授が 
「良、性促狹。雖驍勇、不可獨任」
と言って袁紹を諌めます。井波さんの訳によれば
顔良は性格がこせこせしており、武勇にはすぐれているものの、彼一人にまかせてはいけません。“
ということです。
袁紹は聞き入れませんでしたが、沮授の評価は当たっていたようです。
この白馬一戦は三国志演義でも関羽の活躍の場として書かれていますが、正史の関羽伝では以下のようになっています。

羽、望見良麾蓋、策馬刺良於萬衆之中、斬其首還。紹諸將莫能當者、遂解白馬圍。」
井波さんの訳では
“関羽は顔良の車につける大将の旗印と車蓋を望見すると、馬に鞭打って(駆けつけ)大軍の真っただ中で顔良を刺し、その首を斬り取って帰ってきた。袁紹の諸将のうちで相手になれるものはおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。”
となります。確かに関羽は驚くべき武勇の持ち主ですが、それにしても一軍を率いていながら、相手の大将に本営に踏み込まれ、あっさり首を取られるようでは顔良も大した力量がない将軍でしょうね。大事な戦で袁紹が犯した人選ミスです。
全体としての軍の動きも、袁紹の軍は右往左往で、曹操の方がうわてですね。

延津の南の軍も曹操は撃破し、ここで文醜は殺されます。三国志演義では文醜も関羽が斬ったように書いてありますが、正史では文醜は戦死です。二度の戦闘であっという間に顔良・文醜という有名な二将軍を失って袁紹の軍はふるえおののいた(紹軍大震)、と正史に記述されています。
つまり軍の士気が大いに下がった訳で、こうなってしまうと一方的にやられてしまう危険が大きくなります。まだ大軍を擁していたので、正しい進言を聞けば巻き返しも可能だったのでしょうが、どうもこの後の袁紹は「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」という言葉どおりになって行きます。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2016年5月22日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(5)



袁紹は易京で公孫瓚を撃破して殺し、その軍勢を併呑します。このあたりまでが、彼の力がよく発揮されていた時代です。

その後段々に袁紹のやることに愚かしさが混じってきます。まさに古代ギリシャのパブリリウス・シリスの言う、「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」という話です。
長男の袁譚を派遣して青州を治めさせます。沮授がこれを禍の始まりになる、と諌めますが、息子たちにそれぞれ一州を治めさせ能力を見たいと言います。次男の袁煕に幽州を、甥の高幹に幷州を治めさせます。これはさすがに問題がある措置に見えます。兄弟従弟が割拠の状態にしたままで遺言で後継者指名でもするつもりだったのでしょうか。それで収まるとでも思っていたのでしょうか?普通なら内訌勃発です。
また天下が群雄割拠の時代で、特に曹操がかなり頭角を現しています。ここで袁家の兄弟達で争っていたら打ち破られて袁家が滅亡する可能性が非常に高くなります。そんなことは特別の知恵がなくても思いつきそうな可能性なのですが

さて袁紹はいよいよ曹操と対決すべく許を攻略するために出兵します。この出兵の可否が部下の間で議論になりました。
「献帝伝」によれば田豊と沮授は、「出兵が続いて民衆は疲弊し、倉庫に貯えがない、農業を盛んにし、天子に使者をやって戦利品を献上する、」ということを提案します。天子に戦利品献上の提案は、天子を迎え入れて大義名分を得て天下に号令すべし、という考えに基づいている、と考えられます。
一方審配と郭図は、「袁紹の戦の能力はすぐれているし(実際これまでのところ実績をあげています。)、黄河北方の大軍を動員できるのだから今ならやれる、時間が経てば始末することは困難になる、」と言います。

民は疲弊して、倉庫に貯えはない、と言いますが、出兵にあたり食糧は十分に持って行けたのですから、倉庫に貯えはあったのです。民衆は疲弊というのがどの程度かは分かりません。しかし今戦いを起こさず先延ばしにすれば、曹操側からは何も起こさず民は安穏に暮らし続けられるでしょうか?何もしないのは多分問題の先送りに過ぎません。
曹操は有能で地盤をどんどん固めています。ぐずぐずすればますます強大になる、という意見は正しいと思われます。
したがってこの出兵が愚かであるとは言えないと思います。

さてこれより前、袁術が徐州を通過して北方の袁紹のもとへ赴こうとしたので、曹操は劉備を徐州に派遣して袁術に当たらせようとしました。しかし徐州に着かないうちに袁術は病死します。
ところで劉備が袁術迎撃に出る前、献帝の舅にあたる董承から曹操誅殺の密勅を受けたことを知らされていました。しかし劉備はまだ行動を起こしていなかった、という状態でした。
劉備が出ている間にこの件が漏洩し、関係者一同処刑されてしまいました。劉備は運が良かった訳です。したがって袁術が死んでも劉備は帰らず、徐州の刺史の車冑を殺し、沛に駐屯してしまいます。そこで曹操は初めは劉岱と王忠を派遣して劉備を征伐させようとしますが、うまく行きません。
とうとう曹操自ら劉備征伐に出馬します。この時はチャンスとばかり田豊が曹操の後方を襲うように進言します。しかし袁紹は自分の赤子の病気を理由に出兵しません。乱世に天下を窺おうとする英雄にしてはちょっと弱いですね。ここでやればもっと良かったのかも知れません。しかし、この期を逸したのが袁紹にとって致命傷であったとも思えません。



歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

2016年5月7日土曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(4)



さて董卓は袁紹が盟主である董卓討伐軍をなんとかする必要があります。
そこで胡母班(コボハン)という者と呉脩(ゴシュウ)という者に義勇軍解散を命じる詔書を持たせ、袁紹に服従するよう説得させます。しかし袁紹は河内太守の王匡(オウキョウ)という者にこの二人を殺害させます。
この対応は尤もなやり方です。そもそも董卓という男は残虐な男で様々な様々な悪事、人殺しを平気でやる男です。一たびこの男に反乱軍を起こしたら、あとで懐柔に応じるなんてナンセンスです。弱気を出して懐柔されてのこのこ挨拶に行ったらまず間違いなく殺されてしまいます。始めた以上当然徹底抗戦しかありません。

袁紹は董卓が献帝を立てることに賛成した訳ではありません。しかし献帝が河東に在住するに及んで郭図を使者として派遣します。郭図も沮授のように天子を迎えることを進言します。袁紹はこれを聞き入れません。
なお、袁紹伝に引用されている「献帝伝」によれば、沮授が袁紹に天子を鄴に迎え天子を擁して天下に号令することを勧めたのに対し、郭図と淳于瓊は、漢王朝は衰退してすでに長い時間が経ちもう再興困難、天子をお迎えして一つ一つの行動について上聞すれば、天子の意思に従えば自分の権力を弱め、意思に背けば勅命を拒否したことんいなり良策ではない、と進言したことになっています。こちらでは郭図の意見が正史と異なる書かれ方をしています。

天下を窺おうというのでしたら淳于瓊(郭図)の説くところは尤もです。天子を迎えたら天下に号令する名分は立ちやすいですが、今度はあとでその天子を体裁よくどける名分が必要になります。しかも天子を差し挟んで天下に号令するのは大義名分はよいとしても号令の強制力は自前の力でまかなう必要があるのです。

ここで袁紹は沮授(もしかして郭図も)の意見を取り上げて行動しません。では淳于瓊(もしかして郭図も)の意見を積極的に取り上げたのでしょうか?それとも単に決めかねて、なりゆきで、天子を奉じた曹操と戦うことになったのでしょうか?
「献帝伝」では沮授の意見によろこんで従おうとしたが、郭図と淳于瓊に反対され、決めかねたように書かれています。

当時の袁紹の立場から言えば天下を取るというのは妄想でもなく現実に可能性がある目標たりえたのです。ここで何もしないことでも意思決定になります。つまり謀士達のの意見を聞き、天子を迎えないならば、淳于瓊(郭図)の意見をいれたということです。彼の行動指針としては衰えた漢の天子を奉じない、という考えだったのではないでしょうか。
ここまでは袁紹は決して愚かとは言えないと考えます。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村