2016年5月7日土曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(4)



さて董卓は袁紹が盟主である董卓討伐軍をなんとかする必要があります。
そこで胡母班(コボハン)という者と呉脩(ゴシュウ)という者に義勇軍解散を命じる詔書を持たせ、袁紹に服従するよう説得させます。しかし袁紹は河内太守の王匡(オウキョウ)という者にこの二人を殺害させます。
この対応は尤もなやり方です。そもそも董卓という男は残虐な男で様々な様々な悪事、人殺しを平気でやる男です。一たびこの男に反乱軍を起こしたら、あとで懐柔に応じるなんてナンセンスです。弱気を出して懐柔されてのこのこ挨拶に行ったらまず間違いなく殺されてしまいます。始めた以上当然徹底抗戦しかありません。

袁紹は董卓が献帝を立てることに賛成した訳ではありません。しかし献帝が河東に在住するに及んで郭図を使者として派遣します。郭図も沮授のように天子を迎えることを進言します。袁紹はこれを聞き入れません。
なお、袁紹伝に引用されている「献帝伝」によれば、沮授が袁紹に天子を鄴に迎え天子を擁して天下に号令することを勧めたのに対し、郭図と淳于瓊は、漢王朝は衰退してすでに長い時間が経ちもう再興困難、天子をお迎えして一つ一つの行動について上聞すれば、天子の意思に従えば自分の権力を弱め、意思に背けば勅命を拒否したことんいなり良策ではない、と進言したことになっています。こちらでは郭図の意見が正史と異なる書かれ方をしています。

天下を窺おうというのでしたら淳于瓊(郭図)の説くところは尤もです。天子を迎えたら天下に号令する名分は立ちやすいですが、今度はあとでその天子を体裁よくどける名分が必要になります。しかも天子を差し挟んで天下に号令するのは大義名分はよいとしても号令の強制力は自前の力でまかなう必要があるのです。

ここで袁紹は沮授(もしかして郭図も)の意見を取り上げて行動しません。では淳于瓊(もしかして郭図も)の意見を積極的に取り上げたのでしょうか?それとも単に決めかねて、なりゆきで、天子を奉じた曹操と戦うことになったのでしょうか?
「献帝伝」では沮授の意見によろこんで従おうとしたが、郭図と淳于瓊に反対され、決めかねたように書かれています。

当時の袁紹の立場から言えば天下を取るというのは妄想でもなく現実に可能性がある目標たりえたのです。ここで何もしないことでも意思決定になります。つまり謀士達のの意見を聞き、天子を迎えないならば、淳于瓊(郭図)の意見をいれたということです。彼の行動指針としては衰えた漢の天子を奉じない、という考えだったのではないでしょうか。
ここまでは袁紹は決して愚かとは言えないと考えます。





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