2017年8月13日日曜日

論語(11);史記孔子世家 第十七 -(x)-

史記の孔子世家の最後の方で、孔子は史官の記録によって「春秋」を作った、とあります。魯の隠公から哀公十四年までの十二公の間の記述とされます。簡略な編年体の歴史で記した人(孔子)の意見を述べない形になっています。
しかし、史記の記述によれば、呉や楚の君主が自ら王と名のったのに、「春秋」では本来の爵位通り子()と書き、また諸侯が周の天子を召喚した会について、これをはばかり天子が河陽に狩りをした、と書いた、とあります。それなりに意見は籠められている訳です。将来「春秋」の義が行われるならば、史書になんと書かれるかを考えれば人に対する戒めになろう、ということです。この書き方は史書の作者としてはどうかと思いますが、筋を通すという点においては立派ともいえるかも知れません。

一方この春秋についての孔子の配慮を書いている司馬遷は、孔子を高く評価しています。しかし自分の史書(史記)では孔子のようなあるべき理想に沿う記述ではなく、実質(あるいは実力)を重んじています。帝ではない覇者の項羽の本紀を立て、漢の高祖の正当なる後継者である恵帝は名前だけの天子で支配者でなかったとして、呂公の本紀を立てています。本来あるべき姿ではないと司馬遷も思っているのかも知れませんが、扱いは実情に合わせた記述になっています。

そして孔子は病にかかり魯の哀公の十六年四月に73歳で亡くなります。
哀公が弔辞を送り、孔子なき今、法として従うべきものもない、と嘆きます。
しかし、孔子の弟子の子貢はこれに対して冷たいことを言います。哀公は孔子が生きている間には孔子を用いることができず、死んでから弔辞を賜ったが、これは礼ではない、また弔辞の中で自分のことを余といっているが、これは天子の自称で諸侯は使えないので名分が立たない、と言うのです。
これはいかにも堅物の儒者の言いぐさに聞こえます。哀公は孔子を尊敬しているから弔辞を贈ったのだし、過去において孔子に政治を問うたりもしていました。また、史記(あるいは論語)には孔子の上司や同僚への態度、公宮廷での立居振る舞いについての記述があり、孔子はまったく用いられず野にくすぶっていた訳ではありません。また余と自称したのが良くないといいますが、このころの諸侯は、おそらくは古来の礼式では天子の自称だったのを用いるようになっていたので、哀公もそれを使っただけで、これは時代の流れで仕方がないことだったのではないかと思います。

孔子は泗水のほとりに葬られますが、弟子はみな三年の喪に服します。子貢だけは六年の喪に服したそうです。さらに弟子や魯の人で家を冢(チョウ)の側に移すものが百余家もあり、そこが孔里と命名されたそうです。そのくらい尊敬され、人望があったということです。

こうしてみると孔子は個人としては徳の高い人であり、人望のある人だったといえましょう。そしてその説くところの道も個人の道徳としては立派なものだったと思います。人はどうあれ自分は自分の仁の道を追求するのだ、という生き方も個人の道としては成立すると思います。
しかし人の集まりである社会や国家を御するとなると、当たり前ですが、孔子のような人ばかりはいません。仮ににそれぞれが善意の人の場合であっても、それらの人をあつめて孔子の道に従わせればうまくいくとものでもありません。

孔子は、深い洞察のもとに人として正しく生きる道を説き、それは二千五百年後の今日でも聞くべきところの多い教えですが、それは個人の努力の範囲で個人の周囲に対して通用する話で、これを政治に適用するのはそもそも無理だったのでしょうか。そもそも無理だった正しい政治のあり方を実行できなかった故に格子は不満であったかも知れません。

それゆえに徒に古代のことを理想化し、不平を抱き、用いてくれるとことを求めて諸国を流浪したようにいう人もありますが、当時の人望をみても、後世における影響をみても、彼は人生の大成功者だと思います。





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