2013年7月29日月曜日

三国志、三国志演義 何晏(4)



人々の何晏についての評価はどうだったでしょうか。

魏書 袁張涼国田王邴管伝 第十一の袁渙伝の末尾に、袁渙の従弟である袁覇の子供の袁亮についての記述があります。それによれば、
「亮、貞固有學行。疾何晏鄧颺等、著論以譏切之。」
です。井波律子さん、今鷹真さんの訳によれば、
”袁亮は心正しく堅固で、学問品行にすぐれていた。何晏、鄧颺ら(の人柄)を憎悪し、論説を書いて彼らを激しく批判した、”
ということです。憎悪の対象だったようです。

鐘繇華歆王朗伝第十三の中の王朗伝に、王朗の子供王粛が大尉の蔣済、司農の桓範と議論していた時、彼は
「肅正色曰「此輩卽弘恭石顯之屬。復稱
と言っています。この部分の井波、今鷹訳は、
”粛はきっとなって言った。こいつら(何晏、鄧颺)は弘恭・石顕の仲間です。これ以上説明の要がありますか。”
となっています。ここでいう弘恭・石顕は宦官で、漢書の佞幸伝第六十三で名前だけ上がっています。媚諂いで歴史に名を遺したものどもです。
王粛は何晏達は曹爽に媚び諂っているだけの人間と見ていたわけです。そして徹底的に軽蔑していることがわかります。

王衛二劉傅伝 第二十一の中の傅嘏(ふか)伝の、「傅子」を引用した註に
「何平叔言遠而情近、好辯而無誠、所謂利口覆邦國之人也。」
とあります。今鷹真さんの訳は
”何平叔(何晏)は言葉は深遠でありますが、心情は卑しく、弁舌好きで誠実さがありません。口先だけの男が国家をひっくり返すという言葉どおりの人物です。”
となっています。傅嘏も何晏のことを全く口先だけ高尚なことを言って中味のない男と見ています。

固くてまじめな人は何晏のことは評価していないし、人間として嫌いだったようです。




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2013年7月28日日曜日

三国志、三国志演義 何晏(3)



司馬懿のクーデターの時、何晏はいったい何をしていたのでしょう。

正史でも天子が明帝の墓参に出られる時、曹爽や兄弟たちがお供します。ただし三国志演義と異なり、何晏らの五人組(何晏、鄧颺(とうよう)、李勝、丁謐(ていひつ)、畢軌(ひっき))はこれにお供をしたとは書いていません。
そして帝の城外への外出を狙って司馬懿がクーデターを起こすのは正史も同じです。司馬懿のクーデター趣意書が天子への上奏文として届けられ、それを曹爽が受け取ります。

桓範というものがいて、曹爽にもっとも近い五人組(何晏、鄧颺、李勝、丁謐、畢軌)ではないのですが、この時城内から脱出して、曹爽に許昌へ若い天子を移し、都の外にいる兵を募るように勧めました。(ただし彼は初めはクーデター直後の司馬懿の役職の誘いに乗ろうとしたのですが、息子に説得されて脱出したのです。)なお、三国志演義でも桓範は登場し、曹爽を説得します。

しかし、曹爽はその案を斥けます。桓範の言う通りやれば洛陽の城内にいる彼の家族はそのまま人質になるし、かならず司馬懿と一戦やらなければならないことになりますから怖かったのでしょう。目先の平和と安全にしがみ付いたのです。

なお、正史ではないですが、「世語」などの記録には桓範の他に、魯芝というものが城内から兵営の騎兵をつれて脱出して曹爽の所へいったとか、あるいは楊綜というものが曹爽の辞職を“処刑場へ行かれるのか”と言って止めたとかの記述があります。しかしこの「世語」のようなものにも、五人組の誰かが当日曹爽に何か言った記録はないみたいで、註にも引用されません。

何晏以下の五人組は実は当日曹爽のそばにいたが、事態に動転し怖くてなにも言えなかったか、家あるいは役所にいたが命懸けで城を脱出する気もなく、そのまま何もしなかったかが疑われます。

とにかく何晏はこの日、曹爽のために何も働いていません。

臣下としては不忠、一個の人間として見たらはなはだ侠気に欠けます。
論語の解釈はしたけれど、それは自分の生きるソサエティーの中での文飾用であり、身についている訳ではないようです。その上、曹爽の失脚の結果が自分達がどうなるかの政治的な見通しにも欠けているようです。
この場面においても何晏はいいところがありません。





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2013年7月26日金曜日

三国志、三国志演義 何晏(2)



正史では少しはましな人間像が現れるのでしょうか。

三国志(正史)では何晏の事績はあちこちにばらばらにでてきます。魏書の三少帝紀第四(斉王曹芳はこの三人の一番目で、伝記は斉王紀です。)に何晏の上奏文が出てきます。彼は幼くして即位し、まだ若い皇帝に対してつまらない人間を近づけず、正しい人物を選びことを勧めています。媚び諂う人間が周りにいると、政治が乱れることを説き、しかるべき人物と政治、学問について話すことをよいとしています。

何晏は今日の人も勉強する本を編纂した学者です。老荘の学を好んだようですが、論語にも十分に明るいのです。ならば自分が幼帝をしっかり支えればよいのに、羽振りのよい曹爽にくっついているのはどうしたことでしょう。

次に出てくるのは魏書 諸夏侯曹伝第九の中にある曹真伝に一緒に入っている曹爽伝の中です。曹爽が幅を利かせ、その結果「南陽何晏、鄧颺、李勝、沛國丁謐、東平畢軌、咸有聲名、進趣於時。明帝以其浮華、皆抑黜之。及爽秉政、乃復進敘、任爲腹心。」となります。井波律子さん、今鷹真さんの訳では“南陽の何晏、鄧颺(とうよう)、李勝、沛國の丁謐(ていひつ)、東平の畢軌(ひっき)はみな名声が高く、時勢に応じて出世したが、明帝は、彼らは上べばかり華やかで内実に乏しい人物であるとして、すべて抑えつけて退けた。ところが曹爽が政治の主導権をにぎると、ふたたび彼らの位階を進め、腹心の部下として任用した。”です。何晏は明帝の跡継ぎである曹芳につまらない人間を近づけるな、と言っていましたが、明帝は何晏をつまらぬ人間として遠ざけていたようです。

曹爽に勧めて司馬懿を太傅に祭り上げたという記述は正史にはありません。しかし、重い権力を他人にゆだねるのはよくないと仲間とともに曹爽にいい、腹心の部下が権力を握れるようにします。何晏はそこでうまいこと尚書になれます。
彼はここで親分の曹爽の権力基盤を強化させ、自分の身の安泰と出世を図っていることになります。

さらに何晏は曹爽の腰巾着仲間とともに、役人が管理している桑畑を分けて自分達の財産にしたり、公共施設を壊して自分達のものにしたり、お上の物資をくすねたり、賄賂を要求したり、仲の悪い廬毓(ろいく)を陥れるために、廬毓の下役のほんの些細な過失をとがめ廬毓を罪に落としたりします。これでは何晏は幼帝を教え導くどころか人間のクズと言わざるを得ません。

親分の曹爽もいい気になって贅沢三昧で、天子の女官の中からからよさそうなのを奪ったりしていました。曹爽の弟の曹羲は、曹爽を諌めたりもしたのですが効果がありませんでした。何晏はこんな人を主人と仰いで調子を合わせていたのです。

これまでのところは何晏に人間としていいところは無いようです。





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2013年7月25日木曜日

三国志、三国志演義 何晏(1)


魏書に何晏伝がある訳ではありません。
なぜ何晏を取り上げたかといえば、三国志演義を昔読んだ時に出てきた、どうでもよい脇役のこの男の名前が、後になって、新釈漢文大系第一巻「論語」(吉田賢抗 昭和三十五年)の冒頭の解説の中にあることに気づいたからです。
 この本の解説で挙げられた論語の注釈書の筆頭に「論語集解十巻」が挙げられて、“魏の何晏らが編集したもので、斉王の正始九年(248年)に帝に献上したものという。何晏らが漢代からの論語の注釈を取捨選択したもので……現在完存の注釈書としては最古のもので、中国では唐代まで、日本では奈良時代に輸入されてから、鎌倉末期まで論語を学ぶものはこれに拠らないものはなかった、”とあるのです。
 なお吉田賢抗さんの本で“斉王の”と書いてあるのは、曹芳は帝ではあったのですが、のちに司馬氏(司馬師、司馬昭)に廃されて何々帝という名前がついて無いからです。
 
おそらく今だって専門家はこの何晏の本を勉強するのでしょう。漢代の注釈は完存していないのですから、これを窺い知るにはこの本は重要な資料です。昔、習った漢文の参考資料のなかに、”馬融曰く”、”鄭玄曰く”、などとあって読むのに苦労したことを思い出しますが、この本から引かれていたのではないかと思います。
千七百年以上も以前の本で、今日まで伝わっている本の編者なのです。

吉田賢抗さんの本の記述を発見して、三国志演義に出ている何晏像とはちょっと違う人間像を考えないといけないのか、とも考えました。

まず三国志演義の中の何晏の描かれ方は以下の通りです。
 何晏の登場は第百六回で、立間祥介さんの訳(平凡社)では、「彼(曹爽)の食客は五百人を数え、中に五人、軽薄なことをもって互いに気心を通じあっている者たちがあった。すなわち、何晏、字は平叔」として軽薄な取り巻き五人組の筆頭で登場です。

何晏は曹爽にすすめて司馬懿を太傅(“天子の師”で名目上は偉いがこの場合は祭り上げ)とし、実権を奪うようにさせます。それで何晏は首尾よく取り立てられて尚書になり、曹爽と酒盛りの暮らしをします。

何晏はあるとき、管輅という易の名人に「自分は三公になれるか、」と聞き、さらに「このところ青蠅が数十匹、鼻の先に集まってくる夢を見るが何の兆しか」と聞きます。三公は司徒、司空、大尉で、位人臣を極めた地位に相当し、彼ははなはだ世俗的な願望をあからさまに示します。管輅には徳を積み、身を慎めと説教されます。

あるとき魏主の曹芳が、先帝(明帝)の墓参と巻狩りで城外へでることにになります。曹爽と彼の兄弟も曹芳のお供をし、曹爽の子分一同(何晏も一緒)も一緒に城外に出ました。忽ち司馬懿のクーデター勃発です。曹爽は先帝から委託された大任に背いているから兵権を取り上げるべし、というのです。
曹爽は意気地なくも、金持ちとして余生を安楽に暮らせばよいと政治をあきらめ、兵権を捨ててしまいます。
何晏はこのクーデターの時、一緒にいたのに曹爽に何のアドバイスもしていません。(酒盛り要員だっただけでしょうか?)

ところがその後、宦官の張当が曹爽一派にクーデター計画があったことを白状し、曹爽一派は全員捕まって三族誅殺の憂き目を見ます。哀れにも何晏も謀反計画の一味として捕まって一族まとめて斬られます。

軽薄な男で曹爽に取り入って、うまく立ち回って出世して、酒盛りして、最後に纏めて斬られたのです。
これでは千七百年以上も残る論語の注釈書を編纂した大儒のイメージとは大変な落差です。




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