2013年7月7日日曜日

漢書;王莽伝第六十九(5)

王莽は皇帝になったら何をしたかったのでしょうか。あるいはすべきだったのでしょうか。 「符命」は天下を取るには役立ちましたが、これから王莽が何をどうすればよいかは書いてありません。 王莽は孔子の教えに則って周の世に返すという理想にしがみつきました。 しかし、そのしがみつくところはよく収まった国家の追及、ということではなくて、まずは形式を整えることでありました。 以下の例の如く、官職名をいにしえのものにしたとか、
 大司農→義和→能言
 大理→作士
太常→秩宗
大鴻臚→典楽
少府→共工
水衡都尉→予虞
 ・・・
宮殿の名前を変えたとか、位階のシステムを変えたとか、それにともない車、服、ひざかけ、かんむりの区別を明らかにした、とかのくだらなくて煩瑣なことでした。

匈奴単于の呼び名を、降奴服于に改めて匈奴を怒らせたりもしています。

いにしえの井田の法を復活させる、とも言いだしました。これは八家の一井九百畝の内、私田が家毎に百畝、公田が家毎に十畝で、八家で八百八十畝、残る二十畝が八家共同の宅地、というシステムです。天下の田を王田とし、奴婢を子属とし、勝手に売買を許さない。敢えて井田の制度をそしり、法律を無視して衆人を惑わすものは追放、とお触れを出しています。
これは実際に進行していることを無視して、一片の通達で社会制度を変えようというもので、無理があります。田や奴婢を売買し、罪にかかる人が諸侯卿大夫から庶民まで沢山でました。

お金について人々は漢の五銖銭を使っていました。王莽は銭を出したのですが、これは大小併用され、区別がつきがたい上、しばしば改変されて信用されなかったから使われませんでした。その上、大銭はやがて廃止されるという流言もあって、誰も受け取りませんでした。
これへの対応も世間の実情は無視で、五銖銭を所持するもの、大銭が無くなると言い触らすものは追放としました。その結果、貨幣経済は崩壊で農夫、商人は生業を失い、食品、財物は市場から消え失せてしまいました。この関連で罪に陥った人も沢山でました。

漢書の記述によれば王莽は、(小竹さんの訳によれば)”ともかくも制度さえつくれば天下はおのずと平らかになると思っていた。”とあります。”六経の説を講究し、制度をそれに合わせようとした。”のだそうです。 その上、制度の改変が多く、政令が煩瑣で、執行にあたるものはいちいち確認が必要で諸事とどこおりました。 王莽は自分が権力を握って簒奪したので、有能な官僚の台頭を恐れ、宦官を差し挟むようにしたので、当路の人が事に関知できないということがありました。また役人は王莽が決めたことを受けてやっているから自分の責任ではないという、などの責任のがれの弊害がありました。

 有能な人間に台頭されたくない、何でも自分で決める、ということになれば、王莽は夜明けまで仕事に精出せども、仕事は間に合わず、という状態になるのは自然の成り行きというものです。

王莽と言う人は大官に取り入り、世俗の評判をよくすることには長けていました。人柄に感心した人もそこそこいるのでしょう。人の顔色を見ること、人の心を読むことはできたのです。しかしこの能力が個人の出世の技能に於いて発揮されただけです。

 為政者ということになると、全く愚かです。世の中の実情が見えない、人が使えない、報告している人間の本音が見えない、正しい方針が出せない(どうしてよいかわからない)、ということだったのです。 あったのは野心と出世能力だけだったとはまことに困った人です。
班固の王莽伝の末尾の賛には”古書旧伝の記載によって乱臣賊子や無道の人の禍と失敗を考えてみるに、およそ莽ほど極端な者はかつてなかった。”(小竹武夫訳)という評があります。 この人の伝記が漢書列伝の掉尾を飾るとは人間社会で起こる不条理を表しているようで悲しいことです。(本当の列伝最後は叙伝第七十で班家の話で本来の列伝とは別の話です。)


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