2018年12月16日日曜日

論語(29); -君子と小人(ix)-

堯曰第二十は三章しかありません。その2の中で子張がどのようなことができれば政治を担当できるか質問しています。

孔子の答えは政治を担当できる者(君子)は“五美を行い、四悪を除けば政治に従事できる”といいます。そこで五美とは何ですかと子張が質問すると、以下の答えです。
「君子惠而不費,勞而不怨,欲而不貪,泰而不驕,威而不猛。」
ところで論語は訳書により差があるのですが、ここの問答は訳により結構差があると思います。

金谷治さんの訳では
“上に立つものが恵んでも費用をかけず、骨を折っても怨みとせず、求めても貪らず、ゆったりとして高ぶらず、威厳があっても烈しくない。”
となります。直訳という感じです。
最初の三つの美は特に分かりにくいです。
恵むとは何を恵むのでしょうか。行政官として何か民に分け与えるのでしょうか、自分の財産を人に与えるのでしょうか。自分の財なら”恵んでも費用をかけず”というのは単に吝嗇に見えてしまいます。
民が使役された結果、骨を折るが怨みに思わないとは、具体的には何をどうしたらそうなるのでしょうか。
求めて貪らずとは何を誰にもとめているのでしょうか?貪るとはどういうことをすることを指しているのでしょうか。訳文をみてもわかりません。論語のこの文章は続きを読まない限り、もとからわからない文なのだと判定せざるをえません。ならば訳は後段を頭に置いた意訳の方がよいのではないでしょうか?

吉田賢抗さんの訳では
“君子は人民に恵み深いが、さりとてその富を無駄に浪費してはならぬ。君子は民に骨折りの仕事をさせるが、さりとて民が怨むようではいけない。君子には欲望があるが、さりとて他人のものを貪り求めることがない。君子は泰然としてゆったりしているがさりとて人におごり高ぶることがない。君子は自然に備わった威厳はあるが、さりとて他人を害うような猛々しさはない。”
となります。恵みの内容については相変わらず分かりません。金谷さんが費用をかけないと訳した部分は“無駄に浪費してはならぬ、”になっています。しかし、無駄遣いをしない、なんて当たり前に聞こえます。
“君子には欲望があるが、さりとて他人のものを貪り求めることがない。” はこの通りに聞くならば君子でなくて普通の人でも当然の話に聞こえます。

宇野哲人さんの訳では
“君子は政を行って人に恵みを施すが、己の財が費えることはない。これが一の美である。また人を使って労働させるけれども、反って歓ばれて怨まれることがない。これが二の美である。また欲するところがあるけれとも、人に求めないから貪るとはいわれない。これが三の美である。また泰然として常に得意でいるが驕り肆(ホシイママ)なことはしない。これが四の美である。威厳があるけれどもあらあらしい所がない、これが五つの美である。”
となります。

ここでははっきりと恵みほどこすが己の財が費えない、と説明しています。つまり自分の財物を差し出す訳ではないのです。行政手段によってだと理解できます。しかし人を使って怨まれないとか、は具体的な内容説明がないからよく分かりません。人に求めないから貪るとは言われない、の意味はこのままではわかりません。

どの訳でもこれだけでは理解が難しいのは、もともとの説明が簡略に過ぎてわかりにくいからでしょう。


当然ながら子張が一番目の美の「惠而不費」とはどういうことですか、と質問します。これにたいしてまた孔子が詳しく答えるのです。ならば「君子惠而不費,勞而不怨,欲而不貪,泰而不驕,威而不猛。」などという五美についての説明がどうして要るのかわかりません。




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2018年12月10日月曜日

論語(28); -君子と小人(xiii)-

子張第十九の12に於いて、
子夏聞之曰:「噫!言游過矣!君子之道,孰先傳焉?孰後倦焉?譬諸草木,區以別矣。君子之道,焉可誣也?有始有卒者,其惟聖人乎!」
という言葉が出てきます。

ことのはじまりは孔子の弟子である子游が「子夏の弟子は客の受け答えや動作についてはよいが、それは末のことだ。倫理の根本については何もない、これはどんなものだろう。」と言ったのを聞いた時の意見で、
“ああ、言游(子游のこと)は間違っている。君子の道はどれかを先に立てて伝えるとか、どれを後回しにして怠るというものではない。(門人の力に合わせて教えるまでだ)丁度草木を大小、種類によって植え方が違うようなものだ。君子が人に教えるの道は(教わるものの程度を考えず徒に高遠なことを説いて)誣いくらましてよかろうか。はじめも終わりもある(すべて備わった)人は聖人だけである。(それ以外は小事から始めて大道に達するようにするのは当然だ。)”

論語の殆どの君子の説明が、君子はこのように振る舞う、という君子のあり方を述べているのに対し、ここでは”君子になるために勉強している人”への先生の指導法が述べられています。そもそも君子になるための勉強なんて変ですが、論語では君子は君主に仕えてその抱負を実行する、ということも含むめての人ですから、その道を学ぶ必要はあるでしょう。その君子になるには先生について勉強しなければならないとして、何をどう勉強するのでしょうか。上記の子夏のことばは論語の中に書いてある話ですから、当時勉強している儒者は、後世の儒者のように論語として纏まって編纂されたもの、およびその注釈本を勉強している訳ではないです。
私はこれまで儒者は論語を勉強する人と漠然と思っており、そうなると、その教科書がまだない時はどうしていたのだろう、何を考えのよりどころにしていたのだろうと改めて考えてしまいました。

しかし考えるに、論語によれば君子とはこのように振る舞う人である、というのが常々孔子が言っておられたのでしょうから、そのようには振る舞えない人に、孔子の弟子である儒者はこれら孔子の言葉を弟子に教える修行目標にして、この様に振る舞えるようになれ、と説いていたのでしょう。それなら力の無い人への入門教育がうわべの動作や応対の方法であってもおかしくはないです。また、行動指針として教えるならば教育を受ける方も理解しやすいと思います。

子張第十九の21に於いては
「君子之過也,如日月之食焉:過也,人皆見之;更也,人皆仰之。」
とあります。すなわち
“君子の過ちは日食、月食のようなもので誰もがそれを見るし、改めると誰もがそれを仰ぐ”
という訳です。君子も過ちを犯すことがあることを認め、学而第一8とか子罕第九の25で、「過則勿憚改」(過ちを犯したら速やかに改めよ)と説くのと同様のことと思います。

子張第十九の25、即ち最後の章の中には
「君子一言以為知,一言以為不知,言不可不慎也。」
なる言葉が出てきます。
“君子は一言で知者ともみられ、不知者ともみられるので、言葉を慎まなければならない。”
と言われているのです。しかしこれまでの論語の記述から、君子というからにすでに知者で言動に慎みのある人の筈で、ちょっと変な感じがします。一方、ここは子貢が孔子を敬って説明している部分なので、君子である孔子は、という意味になる筈です。でもここだけの文の意味を考えると、ここの君子は身分の高いあるいは影響力のある人という風にもとれると思います。




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