2014年11月24日月曜日

史記 伍子胥列伝 第六(5)


伍子胥が子供を斉に残した情報を得た伯嚭は呉王夫差に次のような讒言をします。

一、伍子胥の人となりは強情で乱暴、情に欠けて疑り深い。その伍子胥が怨みに思っていれば、のちにきっと有害な禍いのもとになる。
(前段の主張は具体的な例が挙がっていません。よって後段の主張は明確な根拠がありません。)
二、過日王が斉を討とうとしたとき、伍子胥は不可としたが、王は却って大きな成功を収めた。伍子胥はその計略が用いられなかったことを恥とし、王に対して怨みに思っている。
(前段は本当の話ですが、後段は伯嚭が勝手に言っているだけです。)
三、王が再び斉を討とうとしているのに、伍子胥は強硬に事を邪魔しようとしている。伍子胥は呉が破れ、自分の考えが勝れていたことが証明されることを願っているだけである。
(原文は「子胥專愎彊諫,沮毀用事,徒幸吳之敗以自勝其計謀耳。」で、野口さんの訳も貝塚さんの訳も意味は同じです。これも前段はある程度事実ですが、伍子胥の忠告に従って呉が斉に出兵しなければ負けることもないので、後段の主張は前段とは関係なく、伯嚭がそう主張しているだけです。)
四、王が自ら出かけ、国中の兵を挙げて斉を討とうとされているのに、伍子胥は自分の意見が容れられないので病気と称して従軍しない。王は備える必要がある。このような状況では反乱を起こすのは難しくないであろうから。
(伍子胥が従軍しないならば、このような讒言はあり得るので行かないのは危険な行為です。)
五、入手した情報によれば伍子胥は斉に使いしたときに、彼の子供を斉の鮑氏に託している。人臣でありながら国内で意を得ないで、外の諸侯に頼っている。自らは先王の謀臣と思い、今は用いられず怨みに思っている。早くなんとか処置をつけるべきである。
(これはわざわざ伍子胥が撒いた禍の種の結果です。)

夫差は自分も疑っていた、と言い(ここに至っては当然の成り行きです。)、伍子胥に属鏤(ショクル)の剣を与えてこれで死ぬように命令します。

ここで伍子胥が嘆いて言った内容は次のようなことです。
一、讒佞の臣である伯嚭が国を乱そうとしているのに、忠臣の自分に誅伐を加えるのか。
(ここでこう述べるからには伍子胥は伯嚭が呉の国にとってよからぬことを説き、自分に対し悪意の讒言をすることを知っていたことになります。彼はなぜ対抗して手を打たなかったのでしょう。)
二、自分は夫差の父(闔廬)を覇者にしてやった。
(この功績はあったとしても、伯嚭の、伍子胥は昔は用いられたが、今は危険な不平党になっている、という非難を裏書きしているだけです。)
三、夫差が太子に決まらないで、諸公子が太子に立ちたがっていた時に、自分が命をかけて王と争わなかったら太子になれなかったろう。夫差は太子に立つと呉の一部を割いて自分にくれようとしたが、自分は敢えてのぞまなかった。
(この言は伍子胥ほどの知恵者でも間違える例だと思います。天下取りの、あるいは即位への第一番の功臣などというものは、王にとってしばしば却って疎ましい人間になってしまいます。その功績をあてにして大きな顔をしていたら身の危険を招くことに気づかなかったのでしょうか。)

死ぬにあたって舎人(けらい)に命じたのは次の二点です。
一、墓の上に梓(アズサ)を植えよ。呉王(夫差)の棺材のためだ。
二、目を抉(エグ)りだして呉の東の正門にかけておけ。越軍が攻めこんで来て呉を滅ぼすのをみてやろう。

とはいうものの舎人は多分梓も植えないし、目を抉って門にかけることもせず葬ったと思います。伍子胥の指示に従ったら今度は自分の命が危なくなります。

夫差は伍子胥の言ったことを聞き、怒って伍子胥の屍を引きずり出し馬の革で作った袋に入れて揚子江に投げ込ませました。感情に流された愚行ですね。

しかし、その後確かに伍子胥の予言通り、呉は越王勾践によって亡ぼされ、呉王夫差も死にました。

伍子胥は有能で見通しがよく、また志のために艱難辛苦によく耐える人だったのです。父と兄の讎打ちをするめに、逃避行の途中では乞食までして隠忍自重したのです。小さな義理とか体面にこだわって自らを破滅させず、讎打ちをし、呉王を覇者たらしめ、歴史に名を残したのです。
その伍子胥にしてなお、最後はみすみす小人の策に嵌って命を落とすはめになります。小人伯嚭の策は見えていたのですが、すでに名をなした伍子胥、夫差を冊立した伍子胥には伯嚭ごときに丁寧に対処することはプライドが許さなかったのでしょうか。





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2014年11月23日日曜日

史記 伍子胥列伝 第六(4)

伍子胥の破滅は呉と越の関係に深く関わっています。
呉王闔廬は越を撃ったのですが、越王勾践は呉を姑蘇において破り、闔廬の指に負傷させます。闔廬はその指の傷が原因で死にます。そして太子の夫差があとを次ぎます。

決して人がよいとは言えぬ闔廬には伍子胥はうまく仕えることができ、命の危険に陥ることはありませんでした。相性がよかったのかも知れません。
しかし、闔廬から夫差への代替わりは彼の人生に大きな影響を与えます。こういうことは現今のサラリーマンとて似たようなものです。

夫差はまず伯嚭というものを太宰(前に書いたように最高級の官位です)にします。
これより前、呉王闔廬の時代、楚は大臣の伯州犂(ハクシュウリ)というものを殺しました。その時伯州犂の孫であった伯嚭は呉に亡命し、大夫になっていたのです。この男は范蠡のところでも書きましたが、敵国の越からの賄賂をむさぼり、親越派として動き、夫差も伍子胥も破滅させてしまうことになります。

呉王夫差は王位を継いで二年後越を破り、越王勾践と五千の敗残兵を会稽山に包囲します。呉は太宰の伯嚭に高価な贈り物をし(よく戦場にそんなものをもっていたものですね。)講和を請います。
この時伍子胥は、越王の危険性を説き、完全に攻め滅ぼすように進言します。しかし夫差は賄賂を受け取った伯嚭の言を容れて越の講和懇請を受けてしまいます。

その五年後に呉王は斉で内紛が起きたのを好機とみて、斉を攻めようとします。これに伍子胥は反対します。勾践が質素な暮らしをし、また民の人望を得ようとしているのは他日ことを起こそうとしているからで、越に対処するのが先決と説きます。
しかし呉王はその意見を聞かず、斉に攻め込み、成功を収めて却って伍子胥を疎んじるようになります。だんだんそりが合わなくなってきたのです。斉に攻め込んだ間、結局越は何もしなかった、あるいはできなかった。自分(夫差)の見通しが正しく、伍子胥の見方は正しくなかった、という訳です。

その四年後、呉王はまた斉を攻めようとします。この時越王の勾践は子貢の策を取り上げて、兵をひきいて呉を助け、重宝を伯嚭に賄賂として贈ります。
子貢は孔子の弟子です。政治的才能も理財にも長けた人間ですが、ここではこの儒者が、呉をたぶらかす策を越に勧めて実行させた訳です。

呉の太宰の伯嚭は越の賄賂をなんども受け取り、越を贔屓にして呉王夫差に越に都合のよいような話を吹き込み続けます。

一方伍子胥はこの時も越が危険で斉の土地を奪ってもなんの役にも立たない、と説きます。
しかし今や伍子胥にとって政敵の伯嚭が寵臣で、夫差は伯嚭の言を信じています。その伯嚭は熱烈な親越派です。なぜこの期に及んで王に越の危険を説くのでしょう。これは王に対して効果がなく、呉の国の安全にも役立ちません。王の心象を悪くして却って身の危険をまねくだけです。

その後がさらに不思議です。夫差は伍子胥を斉へ使いに出します。斉を攻めることに乗り気でない臣下を斉の様子を探らせに使者として出したのです。

一方この時点で伍子胥は呉の将来に絶望して、子供を斉に同行させ、この子供を斉の鮑牧という者に託して自分だけ呉にもどり、帰還報告をします。自分の子供を敵地に残して来たのです。これでは伍子胥自ら呉王に決定的に疑われる種を撒いてしまったようなものです。
伍子胥は自分自身あるいは他の家族はどうなると思っていたのでしょう?あるいはどうなれば満足だったのでしょう。

ここまでの話で一つ不思議なのは、伍子胥は才人で策士であるのに、政敵の伯嚭が贈賄で、越の利益の為に動いている、ということをなぜ把握できなかったのか、あるいは知ったとして、なぜ呉王に収賄の事実なぜうまく知らせることができなかったのか、ということですね。
危険な政敵に対して全く油断していたのでしょうか。

まるで古代ギリシャの喜劇作家が言った「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」を地で行くようです。




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2014年11月18日火曜日

史記 伍子胥列伝 第六(3)


そうこうしているうちに楚の平王が死にます。伍子胥にとっては直接の讎打ちができなくなり、残念な事態です。

そして、跡継にぎは、公子の建ではなくて、平王が建に娶らせるのをやめて自分の妃にした秦の公女の産んだ軫という者が、昭王として立ちました。

呉王の僚は楚の喪につけこんで二人の公子に命じて楚を襲わせます。
もし攻撃するなら、建が押しのけられて軫の立ったばかりを狙うのはやりやすいでしょうが、はっきりと建を立てるべきとかいう名分でも立てないと人の喪につけ込んだ侵略に見えます。しかし史記には呉王がそのような大義名分を掲げたとは書いていません。

ところがこの侵略はうまく行かず楚は呉軍の退路を絶ち、呉軍は帰国できなくなり、呉内の兵力は空になります。
かねて王位を狙っていた公子の光には絶好のチャンスです。公子光は先に伍子胥が送り込んだ専諸に王僚を刺殺させ、自ら王になります。これが呉王の闔廬(コウリョ)です。
そして伍子胥はこれまでの耕作生活をやめて「行人」として用いられるようになります。「行人」は現在の外相にあたると言いますが、本当は宰相的な意味もあるといいます。
伍子胥は世に出たのはめでたいですが、主人の闔廬のやったことたるや火事場泥棒のようなものですし、刺客の人材を送り込んだ伍子胥はその手伝いをしたことになります。

一旦は呉の楚への攻撃は収まったのでしょうが、闔廬の即位後三年目からなんども繰り返し楚を攻撃し、最終的に楚の都である郢に攻め込み昭王は出奔します。郢にまで攻め込んだので、伍子胥はせめて昭王でも捕らえようとしますが、果たせませんでした。そこで恨みのある平王の墓を暴いてその屍を三百回鞭打ってやっとやめました。これでなんとか父と兄の讎うちができたのです。

この屍の鞭打ちに対して、楚の大夫である申包胥が一度は北面して仕えた主人に対して非道ではないか、と非難の手紙を送ります。これに対する伍子胥の答えは有名で
「吾日莫途遠,吾故倒行而逆施之。」
”自分は日暮れて道通しという状態なので、道理に従ってばかりもいられず、道理に反することをしのだ。”というものです。
ここで”日暮れて道通し”といっているからには、伍子胥はまだ復讐がやり終わってない、と考えているのです。あとは楚を滅亡させることなのでしょう。

申包胥の非難はもっともらしいですが、平王がすでに死んでいる以上、伍子胥は復讐としては屍を鞭打つことくらいしかできません。死屍を鞭打つのが非道なら申包胥は伍子胥の讎打ちとして具体的に何をやったら正しいというのでしょうか?
楚を滅ぼすことでしょうか?平王の跡継ぎの昭王を殺すことでしょうか?現代的感覚ではいずれもむしろ伍子胥の復讐の本旨から外れた残虐行為です。
そもそも楚を滅ぼすことは申包胥も望んでいません。

申包胥はかつて伍子胥が
「我必覆楚。」“自分は必ず楚を覆してやる。”
と言ったのに対し、
「我必存之。」”自分は必ず楚を存続させる。”
と言い返したと言われています。
申包胥は秦に援軍をたのみ、秦軍は楚を救援して呉を打ち破ります。

闔廬が楚で昭王を探している間に、同行していた闔廬の弟の夫概が勝手に帰国して自立して呉王となってしまいます。油断も隙もあったものではありません。その結果闔廬は楚から戻り、夫概を打ち破ります。楚の昭王は闔廬が呉に戻ったので自分は楚の都である郢に復帰します。そして呉から逃げてきた夫概を堂谿に封じてやります。
そして楚は戦闘で呉に勝ったりします。

しかしながら当時の呉には伍子胥の他に孫武(兵法書、孫子の著者とされる。)という名将がおり、彼らの計略により、西で楚を破り、北で斉、晋を脅かし、南で越を伐ち、呉は大層勢いがよかったのです。

しかし、これからあと、伍子胥の言が容れられなくなる事態となり、彼の不幸な最後につながります。具合が悪くなりそうなところで上手に身を処すれば天寿を全うできたのかも知れませんが、それは范蠡のような生きる達人でなければ不可能なことなのでしょう。





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2014年11月10日月曜日

史記 伍子胥列伝 第六(2)


伍子胥は、太子の建が宋へ逃げたので、自分も宋へ逃げます。

伍尚はすすんで捕らわれて、楚都に行きます。そして兄弟の予想通り、父の伍奢とともに殺されます。
兄弟が二人とも一緒に来ず、伍子胥が逃げたという口実で殺したとは史記に書いてありません。仮にそういう口実にしたとしても、いくら古代でも大した説得力もないことは明らかと思われます。

伍子胥は宋に到着しますが、その時運が悪く宋で内乱が起きます。仕方がなく、伍子胥は太子建とともに鄭(テイ)に行きます。鄭では非常に厚遇されます。しかし太子は鄭が小国で後ろ盾にするには不足と判断し、晋に行きます。ところが晋の頃公が、太子建に
「太子既善鄭,鄭信太子。太子能為我內應,而我攻其外,滅鄭必矣。滅鄭而封太子。」
と言います。すなわち、
”太子は鄭とよく、鄭は太子を信用しています。太子が晋の為に内応して、晋が外から攻めれば、必ず鄭は滅びます。鄭が滅んだら太子をそこに封じましょう。”
と提案したのです。

伍子胥伝のこの部分だけ読むと、晋の頃公の提案は非常に唐突です。しかしこの時より少し前、紀元前6世紀から小国鄭は毎年のように強国である晋とか楚に攻められていました。晋の立場からすれば度重なる攻撃の続きです。
太子が鄭に世話になっていながら、晋に行くこと自体が問題を孕んでいたわけです。

太子は頃公の提案にその気になって鄭に帰ります。彼がこの提案に乗ることに何の大義名分もありません。他国の侵略の手伝いです。自分によくしてくれている鄭に対して、やろうとしていることは全くの忘恩行為です。
しかもそんなことをして鄭が滅亡したあとで、晋が鄭の地をどうしてそのまま太子に進呈してくれるのでしょうか。太子は欲に目が眩んで愚かな行為に走ったとしか思えません。

この時、伍子胥がなんと言ったか史記には書いてありません。止めなかったのでしょうか?

一方計画の機が塾さぬうちに、太子はあることで従者を殺そうとします。なお、’あること’が何であるかは史記に記述がありません。ところがその従者は太子の計画を知っていたので、鄭に密告します。その結果、鄭の定公と子産(その時の宰相)は太子を誅殺します。

伍子胥は危険を察知して太子建の子供である勝をつれて呉に向けて出奔します。厳しい追手がかかり、勝と分かれて途中で乞食までしてやっと呉にいたります。勝は勝でうまく呉に逃げたようです。

当時の呉は王が僚で、公子光が軍事を統べる将軍でした。公子の光は僚の父の兄の子ですから僚の従兄弟になります。伍子胥は公子光に近づくことに成功し、呉王にも目通りできたようです。

その後伍子胥にとっては望ましいことに、呉と楚の間で養蚕用の桑の葉の取り合いから紛争が起こります。公子光が派遣され、楚の鐘離と居巣を抜いて帰還します。伍子胥は呉王に、楚は破れるからまた公子光を再び派遣するように勧めます。
ところが公子光は呉王に、伍子胥は父と兄が楚で殺されたので、自分が讎を打ちたいだけの話、楚はまだ破れません、といって反対します。
これで伍子胥は公子光は王を殺して自立したいのだと察します。公子光は呉国のため王のためを図っている振りをしているだけなのです。そこで専諸という者を公子光に推挙して自分は退き、勝(楚の太子建の子供)と耕作生活に入り時節をまちます。

この専諸は刺客列伝第二十六に出てくる男で、のちに王僚に対して刺客になります。王僚を殺して呉を乗っ取ろうという場合の手助けに適任な人間を伍子胥は推薦しているわけです。お望み通り呉を乗っ取らせて、それから楚を攻めさせようというのです。
腹に一物をもつ策士ばかり出てきます。

伍子胥がどうしても讎うちをしたいのなら、この時点では公子光を利用しなければならなかったのでしょう。しかし、その公子光は決して人がよい訳でも信義に厚い訳でもありません。その下で働いていてはいずれ自分自身の身の危険を招きそうです。





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2014年11月3日月曜日

史記 伍子胥列伝 第六(1)

越の范蠡について書きましたが、その越の敵である呉に使えた有能な臣下、伍子胥(ゴシショ)について書きます。

伍子胥は知恵も忍耐力も実行力もある人です。しかし范蠡のような人生の達人ではありません。
伍子胥もともとは呉の人ではなく楚の人です。
彼は恨みを抱いて楚を出奔して呉に行き、呉に楚を討たせたのです。
この件だけでも話に暗い影があります。話はこれだけに留まりません。伍子胥の伝は陰謀、奸計、謀殺が満載です。

まずは伍子胥の父と兄が楚の平王に殺される話から。
当時楚の平王は建という太子を立てていました。平王は伍子胥の父、伍奢(ゴシャ)を建の太傅(お守役)に、費無忌(ヒムキ)を少傅(お守役の補佐)にあてました。
さて、平王は費無忌に命じて太子のための秦の公女を娶らせようとしましたが、費無忌はその公女が美貌であることを知り、チャンスとばかり平王に阿諛し、公女が美貌であるゆえ王が自身で娶られ、太子には改めて別の候補を探すようにと勧めます。

 平王もいい加減な男で、ではそうしようと、公女を娶り、太子には別の妃をあてがいます。 よくそれで秦が納得したものです。

平王はこの妃を寵愛し、軫という子供を産ませます。
 費無忌は、太子建のもとを去って直接平王に仕えるようになります。あぶない世渡りです。
費無忌はこうしたことをやったのだから、平王のあとを太子の建が継いだら誅殺される危険があると思い、太子の建のことを平王に様々に讒言します。ついには太子は反乱を企てている、と告げます。費無忌はまったくの卑劣漢です。
 平王は太傅の伍奢に尋問します。伍奢は、つまらぬ臣下の讒言をどうして信じるのかと諫めます。すると費無忌はさらにつよく太子の危険性を吹き込みます。
平王は愚かにも伍奢を囚え、奮揚というものに、太子を殺させようとします。奮揚は行くことは行きますが、先に人をやって危険を太子に知らせ、太子は宋に逃げます。

 陰湿な費無忌は伍奢には二人の息子がいて共に賢明だから、父を人質にして子供を召喚し、あわせて誅殺することを勧めます。伍奢だけ殺したら子供らに自分が復讐されるのを恐れたのでしょう。
王はそれを聞き入れ伍奢の二人の子供に使者を送り、お前たちが出頭すれば父は生かしておく、出頭しないなら父を殺すと言わせます。こんな馬鹿げた伝言では、行っても碌なことにはならないことが誰にでも察せられます。

 伍子胥の兄の伍尚は出頭命令に応じて行こうとします。伍子胥はどうせ行っても父と一緒に殺されるだけだから他国に出奔して力を借り、仇を討とうと言いますが、伍尚は
「然恨父召我以求生而不往,後不能雪恥,終為天下笑耳。」
”それでも父が私を呼び寄せて生き延びることを望んでいるのに、(命が惜しくて)行かず、後に恥を雪ぐこともできなくてついに天下の物笑いになるのが恨みだ。”
と行って出頭することにします。しかし弟の伍子胥に向かって
「可去矣!汝能報殺父之讎,我將歸死。」
 ”逃げ去れ。汝は父の讎を討ってくれ。自分は死ぬ。”
 と言っています。
 そうなると兄の言い分はやや納得の行かないものに見えてきます。出頭したところで父を助けられない、という点は弟の伍子胥と同じ見解です。行ったところで一緒に死んであげられるだけなのです。
 しかも弟に讎を討ってくれ、というのですから、報復はやればできる可能性がある、と思っているのです。復讐により天下の笑い者にならずに済む可能性があるならば、父に殉死するも同様の出頭などやめて、世人になんと言われようが、弟とともに復讐に奔走すればよいのではと思います。

ともあれ、伍子胥伝は、はじめから我が身の利益を計って人を陥れるような人の陰謀から始まるのです。




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2014年11月1日土曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(6)

范蠡が大金持ちになって、皆の憧れと尊敬の的になったところで”越王勾践世家”は終わっていません。すでに勾践の話は終わり、勾践死後子孫の代に至って越は衰退したことまで書いてあって、落ちはついている筈なのにです。

なお、范蠡の蓄財については貨殖列伝 第六十九にも記述があります。そこには会稽の恥をすすいでから、計然(范蠡の師だそうです。)の施策が七つあり、そのうち五つで越の本懐を遂げさせたが、残りの施策を自分の家に適用しよう、と言って陶(山東省)へ行き、朱公と称して交易にかかわり成功したことが書かれています。十九年の間に三度も千金を積み、そのうち二度まで貧しい友人や疎遠な親類に分け与えたとあり、「富めば好んでその徳をおこなう」者である、司馬遷に書かれています。この列伝の記述をもってしても並の男でないことがわかります。

さて越王勾践世家の記述にもどって、ここに一つの事件が起こります。末子が成人したころ次男が殺人をして楚に囚えられます。范蠡は
「殺人而死,職也。然吾聞千金之子不死於市」
”殺人で死刑になるのは当然だ。だが、千金の子は市場は死なないと聞いている”。
と言い、末子に大金を持たせ、出発させようとします。ところが長男が、長男である自分が行くべきだ、と頑張ります。行かせないなら死ぬ、とまでいいます。
范蠡は已むをえず、長男を出します。そして范蠡は書面をつくり長男に、荘生という人にこれ差し出して、荘生に一切を任せ、それ以上画策をするなと指示します。

長男は楚へ行き、荘生に書簡と千金をさしだします。荘生は「早く楚を立ち退きなさい、弟御が出獄できてもどうして出獄できたか問うてはなりません。」と長男に言います。ここで荘生は決して豊かな暮らしをしていませんでしたが、お金は終わったら返すつもりで、ただ依頼された証拠として金を預かっただけでした。夫人にこれは朱公の金で自分が急死でもしたら朱公に返せと指示しています。

長男が父の言ったことに従うのなら、ここで荷物をまとめて国に帰ってしまうべきです。それで万事うまくいったことでしょう。

しかし長男は楚にとどまり、荘生はそんなに尊敬されている偉い人とは思わず普通の人と思い、権勢のある貴人に別途自分が密かに持参した金を送ります。これも余計な画策で父の命令には反しています。

一方王の信頼の厚い荘生は、口実を設けて楚王に徳を修めるように勧めます。そこで王は大赦をするつもりで準備を進めます。

一方長男から金を贈られた貴人は大赦の準備に驚いて、長男に王は大赦を準備しておられると告げます。

長男は、それなら弟は自然に助かる筈で、なんの尽力もしていないと思っている荘生に渡した金が惜しくなります。そこで荘生に会いに行きます。そして弟は自然に許されることになったと、それとなく金を返してほしい意を伝えます。これはまさに父がやるなと戒めた画策のうちの愚策の最たるものです。

荘生は長男にお金を持って帰るようにさせます。しかし、荘生は欺かれたのを恥とし楚王に、今世間では、陶の大金持ちの朱公の子供が囚えられていて、朱公が王の左右に賄賂を贈ったから、大赦になった、楚の人民を憐れんでのことではないと噂しています、と奏上します。楚王は怒って朱公の子供を死刑にしたのち大赦を発します。

長男は結局次男の遺骸を持ち帰りました。
家族のものは悲しみますが、朱公(范蠡)は、泰然として自分は次男が殺されることを知っていた、(吾固知必殺其弟也!)と言います。長男は事業の困難を知り、財貨を棄てるのは重大事と思う。末子は生まれながらに富貴で財貨を蓄える苦しみを知らず、財貨を棄てることを軽んじて惜しまない。だから末子を使いにだそうとした。長男にはそれができないのだ、と言います。

范蠡は、長男から荘生が長男に言ったことを聞き、長男があとから荘生からお金を取り返したことを聞き、次男が大赦直前に処刑されたことを聞いてすべての経緯を推察したのでしょうか。

范蠡が非常に見通しのよい人間であったことがわかるエピソードにはなっています。全体の中で何が肝心なことであるかを見定め、それをはっきり見据えれば先は見えることを示しています。

いつもそういう風になるでしょうか?そう単純とは限りません。史記には知勇兼備の英雄が惨めな最後を遂げる例も沢山描かれています。この件でも次男の命を助けるという意味では范蠡は結局失敗しています。読む人にそういう様々なことを考えさせつつも、范蠡のものを見る目の確かさがここに描かれています。

逆に越王勾践世家の中で、越王勾践が呉を打ち破るまでの経過で范蠡は重要ではあるものの決定的に重要ではありません。大夫の種の方が重要な家来にさえ見えます。范蠡について描かれる主要部分は勾践を見限って去るところから、次男を失うところまでです。司馬遷はそれでも范蠡という生きる知恵をもつ達人を詳しく書きたかったのは彼を尊敬し、憧れていたからなのではないかと思います。





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