2014年11月23日日曜日

史記 伍子胥列伝 第六(4)

伍子胥の破滅は呉と越の関係に深く関わっています。
呉王闔廬は越を撃ったのですが、越王勾践は呉を姑蘇において破り、闔廬の指に負傷させます。闔廬はその指の傷が原因で死にます。そして太子の夫差があとを次ぎます。

決して人がよいとは言えぬ闔廬には伍子胥はうまく仕えることができ、命の危険に陥ることはありませんでした。相性がよかったのかも知れません。
しかし、闔廬から夫差への代替わりは彼の人生に大きな影響を与えます。こういうことは現今のサラリーマンとて似たようなものです。

夫差はまず伯嚭というものを太宰(前に書いたように最高級の官位です)にします。
これより前、呉王闔廬の時代、楚は大臣の伯州犂(ハクシュウリ)というものを殺しました。その時伯州犂の孫であった伯嚭は呉に亡命し、大夫になっていたのです。この男は范蠡のところでも書きましたが、敵国の越からの賄賂をむさぼり、親越派として動き、夫差も伍子胥も破滅させてしまうことになります。

呉王夫差は王位を継いで二年後越を破り、越王勾践と五千の敗残兵を会稽山に包囲します。呉は太宰の伯嚭に高価な贈り物をし(よく戦場にそんなものをもっていたものですね。)講和を請います。
この時伍子胥は、越王の危険性を説き、完全に攻め滅ぼすように進言します。しかし夫差は賄賂を受け取った伯嚭の言を容れて越の講和懇請を受けてしまいます。

その五年後に呉王は斉で内紛が起きたのを好機とみて、斉を攻めようとします。これに伍子胥は反対します。勾践が質素な暮らしをし、また民の人望を得ようとしているのは他日ことを起こそうとしているからで、越に対処するのが先決と説きます。
しかし呉王はその意見を聞かず、斉に攻め込み、成功を収めて却って伍子胥を疎んじるようになります。だんだんそりが合わなくなってきたのです。斉に攻め込んだ間、結局越は何もしなかった、あるいはできなかった。自分(夫差)の見通しが正しく、伍子胥の見方は正しくなかった、という訳です。

その四年後、呉王はまた斉を攻めようとします。この時越王の勾践は子貢の策を取り上げて、兵をひきいて呉を助け、重宝を伯嚭に賄賂として贈ります。
子貢は孔子の弟子です。政治的才能も理財にも長けた人間ですが、ここではこの儒者が、呉をたぶらかす策を越に勧めて実行させた訳です。

呉の太宰の伯嚭は越の賄賂をなんども受け取り、越を贔屓にして呉王夫差に越に都合のよいような話を吹き込み続けます。

一方伍子胥はこの時も越が危険で斉の土地を奪ってもなんの役にも立たない、と説きます。
しかし今や伍子胥にとって政敵の伯嚭が寵臣で、夫差は伯嚭の言を信じています。その伯嚭は熱烈な親越派です。なぜこの期に及んで王に越の危険を説くのでしょう。これは王に対して効果がなく、呉の国の安全にも役立ちません。王の心象を悪くして却って身の危険をまねくだけです。

その後がさらに不思議です。夫差は伍子胥を斉へ使いに出します。斉を攻めることに乗り気でない臣下を斉の様子を探らせに使者として出したのです。

一方この時点で伍子胥は呉の将来に絶望して、子供を斉に同行させ、この子供を斉の鮑牧という者に託して自分だけ呉にもどり、帰還報告をします。自分の子供を敵地に残して来たのです。これでは伍子胥自ら呉王に決定的に疑われる種を撒いてしまったようなものです。
伍子胥は自分自身あるいは他の家族はどうなると思っていたのでしょう?あるいはどうなれば満足だったのでしょう。

ここまでの話で一つ不思議なのは、伍子胥は才人で策士であるのに、政敵の伯嚭が贈賄で、越の利益の為に動いている、ということをなぜ把握できなかったのか、あるいは知ったとして、なぜ呉王に収賄の事実なぜうまく知らせることができなかったのか、ということですね。
危険な政敵に対して全く油断していたのでしょうか。

まるで古代ギリシャの喜劇作家が言った「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」を地で行くようです。




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