2014年12月16日火曜日

史記 楽毅列伝 第二十(3)


敵城があと2つとなったところで思わぬ展開となります。
それまで楽毅をバックアップしてくれていた昭王が死に、その子が恵王として即位したのです。史記には理由が書いてないのですが、恵王は太子の時代から楽毅に好意を持っていなかったのです。そこを斉の田単に付けこまれます。間者を放って次のように宣伝させました。

「齊城不下者兩城耳。然所以不早拔者,聞樂毅與燕新王有隙,欲連兵且留齊,南面而王齊。齊之所患,唯恐他將之來。」

”斉で降伏しないのは2つの城だけだ。早く抜かないのは、聞くところによれば楽毅は斉の新王と仲がわるく、斉に兵をとどめて南面して斉王になろうとしているからだそうだ。斉が心配しているのは他の将軍が(燕から)来ないか、ということだ。”

というのです。
 恵王はその噂を聞いて騎劫(キキョウ)を代わりの将軍として出し、楽毅を召喚します。恵王が楽毅を嫌っているのを知って早速田単が撒いた噂をご注進に及んだ家来がいたのでしょう。楽毅は優秀だし、二心などない、と王を説き伏せる人材は残念ながらいなかったようです。
王が初めから楽毅を嫌っていると知っていると、うっかり楽毅を庇って殺されたり追い出されたりしたら大変という心理の方が先に立つかも知れませんね。

楽毅は自分が嫌われて交替させられたと知り、西へ行き、趙に投降します。
彼は武霊王の時にお家騒動の乱が起こったところで、趙をでて魏の国へ行き、その魏で燕の昭王が斉を討ちたくて人材を集めているのを知り、積極的に動いて趙の将軍になったのです。結局もとの国に戻った訳です。

この時は楽毅は諸国で有名な人物だったはずで、受け入れる国は立派な待遇をするはずです。実際趙は観津に封じ、望諸君と呼びます。
「尊寵樂毅以警動於燕、齊。」
とありますから、楽毅を特別待遇して燕と斉を不安がらせたわけです。

楽毅の後任の騎劫は無能で、斉の田単はこれを即墨付近で破ります。そして田単は転戦して燕軍を追い散らして北上し黄河のほとりに至り、斉の城市をことごとく取り返し、湣王の子供である襄王を莒(キョ)から 臨菑(リンシ)に迎え入れます。折角楽毅が挙げた成果がすべて御破算になったわけです。

さすがに恵王は後悔するとともに、楽毅が趙に下ったことを怨み、趙が楽毅を用いて燕を伐つのではないかとおそれて、手紙を出します。史記では
「燕惠王乃使人讓樂毅,且謝之曰」
”燕の恵王は人をやって楽毅を責めると同時に謝らせた、”
という記述があります。

しかしその手紙の主旨は、

先王(昭王)は国を挙げて将軍(楽毅)に委ねた。
将軍は先王の讎を報い、天下にその威力に震撼しないものはなかった。
自分(恵王)は一日として将軍の功を忘れたことはない。
たまたま自分が即位した時、左右のものが自分を誤らせた。
騎劫と交替させたのは、しばらく休息してもらうためだった。
将軍はそれを誤解して、自分と仲が悪いからと思い、燕を棄て、趙へ帰属した。
将軍が自身のためを考えるのはやむを得ないとして、先王が将軍を厚遇した志にどのように報いてくれるのか。

となっていて、到底謝っているようには見えません。

初めの二行は事実を述べただけです。
三、四行目は謝りの言葉ではなく空疎な言い訳の言葉です。
五行目は嘘です。
六行目は楽毅の方の判断が正しかったとしか思えません。
七行目は相手を責めているだけです。恵王は先王(昭王)ではないので、楽毅は恩を被っていないのです。
この経過からすれば恵王は凡庸で自分勝手な王様のようです。楽毅は遠ざかって正解というものでした。






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2014年12月14日日曜日

史記 楽毅列伝 第二十(2)


さてその当時斉が強勢で楚、三晋(韓、魏、趙)を破り、秦を攻撃し、趙を助けて中山国を滅ぼし、宋も打ち破り、日の出の勢いでした。そしてその結果
「諸侯皆欲背秦而服於齊。」
とありますから、諸侯は秦に背いて斉の方につこうとしたのです。しかし、時の斉王の人柄が問題でした。まず自国内では
「湣王(ビンオウ)自矜,百姓弗堪。」
だった、つまり斉の湣王が誇り高く(威張っていたのでしょうね。)、百官人民が耐えられない思いをしていたのです。

そこで燕の昭王が楽毅に斉を伐つことを楽毅に諮ります。別に斉の人民の苦しみを心配したのではなく、敵に弱みがあるからつけこんで戦争を仕掛けようという魂胆です。
楽毅は、独力でやるのは容易でなく、趙、楚、魏と協力してやるのがよい、と言います。楽毅は国策の相談を受ける立場だったのです。そして楽毅はうまく誘えば彼らは乗ってくる筈、と踏んでいたはずです。
そのあと
「於是使樂毅約趙惠文王,別使連楚、魏,令趙說秦以伐齊之利」
との記述がつづきます。ここの部分の訳は野口さんと貝塚さんでニュアンスが違います。

昭王は楽毅に命じて趙の恵文王と盟約させるところまでは同じです。
そのあと野口さんの訳では
”さらに別の人に命じて楚・魏を連合させ、さらに、趙を通じて秦に斉を伐つことの利を説かせた。”
です。
しかし貝塚さんの訳では
”別に楚および魏との連合をとりつけさせるとともに、趙を通じて、斉国討伐による利益を餌として秦を説得させた。”
とあります。
貝塚さんの方は楽毅がすべて取り仕切った書き方です。実際そのあとの文章で
「諸侯害齊湣王之驕暴,皆爭合從與燕伐齊。樂毅還報,」
とあります。”諸侯は湣王の暴虐を憎んでいたので争って合従し、燕とともに斉を討とうとした。”のはよいとして、「樂毅還報」、すなわち楽毅が帰国してそれを報告した、とありますので、ようするに楽毅が仕切ったという貝塚さんの訳のニュアンスの方が正しいように感じます。
なお、楽毅が昭王に述べた、趙、楚、魏と協力してやるべし、という意見には、彼らは乗ってくるだろうという根拠のある見通しがあったことがわかります。

見通しは見通しとして、実際に楽毅は、趙を仲間に引き入れ、楚と魏も引き込み、秦まで引き入れたのですから、相当な外交手腕があったということになります。
ただの将軍のやることではありません。外交手腕のある政治家だったのです。

ここに至って燕の昭王は兵を総動員し、楽毅を上将軍とします。趙の恵文王も相国の印を楽毅に授けます。その結果楽毅は趙、楚、韓、魏、燕の軍を併せて指揮を執り、濟水の西において斉の軍をやぶります。寄り合い所帯の軍の指揮を執るのは難しそうですが、それをやり遂げています。つまり楽毅は軍の司令官としても有能だった訳です。
この勝利に満足して他の諸侯は兵を引き上げます。他の諸侯にはこの戦争でどんな得があったのでしょう?湣王が威張っていて気に入らないから懲らしめて満足したのでしょうか?中途半端な行動です。なぜ途中で引き上げたのか、そのあたりの事情は史記にはなにも書いてありません。

楽毅は燕の軍だけを率いて追撃し、臨菑(リンシ、斉の国都)まで迫ります。一方斉の湣王は逃げて莒(キョ)にたてこもります。このあとの表現は
「樂毅獨留徇齊,齊皆城守。」
とあります。
野口さんの訳では、
”楽毅はひとりとどまって、斉をめぐって政令を発したが、斉ではみな籠城した。”
ですが、’斉をめぐって政令を発した’の意味が今ひとつあきらかでないし、あとに続く皆が籠城することと因果関係結がよくわかりません。
貝塚さんの訳では、
”楽毅のひきいる燕軍だけがふみとどまって斉国平定にあたると、斉の諸城市はみな守りをかためて降伏しない。”
とあります。こちらの方が意味も因果関係も明らかです。

楽毅は臨菑に攻め入り、斉の財宝、祭器ことごとく略奪し、燕に送ります。昭王は喜んで濟水まで出向いて軍をねぎらい、楽毅を昌国に封じ、戦利品を持って帰国しますが、楽毅にはまだ降伏しない城市を攻撃させます。楽毅は斉国平定五年で七十余の城を落とします。そして残すは莒と即墨(ソクボク)のみとなります。ほとんど斉を攻めとったわけです。

つまり楽毅の軍事的才能もなみなみならぬものがあることがわかります。いかほどの軍勢で攻め込んだのかわかりませんが、五年も敵地にいては補給、兵の補充も大変でしょう。これらを乗り切る才覚と人を従わせる迫力があったわけです。ただ目前の戦闘を勝利する猛将とはかなり異なるようです。






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2014年12月7日日曜日

史記 楽毅列伝 第二十(1)


楽毅の名前を知ったのは昔、三国志演義の第三十七回で劉備を訪れた司馬徽が、諸葛亮について、「每常自比管仲・樂毅、其才不可量也。」(いつも自分を管仲・楽毅に比していて、その才は量り知れない。)というところを読んだ時です。
ここの場面で小川環樹さんの訳では、これを聞いた関羽が
”管仲は孔子も「管仲なかりせば、われは髪を被(ミダ)し、袵(エリクビ)を左にせん」と仰せられ、楽毅は斉の国の七十城を一どに攻め落としたほどで...”
と言います。すなわち楽毅が大変優れた武将であることが述べられています。

ここでわざわざ小川環樹さんの訳とことわったのは、立間祥介さんの訳では関羽は
”たしか管仲・楽毅は春秋・戦国の時の人物で、その功は天下を覆うほどであったと聞きましたが、...”
としか言いませんで、これでは管仲も楽毅もどんな人だかわかりません。
私の見た原文のサイトでは「某聞管仲・樂毅乃春秋・戰國名人、功蓋寰宇」で立間さんの訳はこれによっているのでしょう。

はじめに読んだ三国志(演義)は小川さんの訳だったので、私は楽毅は攻城にすぐれる猛将だと思い込んでしまいました。しかし、考えてみると単にそれだけの人物だと諸葛孔明が自ら比すにはなんだか似つかわしくない人間のように見えます。

史記の記述によれば、楽毅の先祖の楽羊は魏の国の文侯(BC424-BC387)の将軍だったのです。そして中山国を攻略します。文侯は楽羊を中山国の地である霊寿を所領地として与えます。
楽羊は霊寿で死んで葬られ、子孫はその地に定着します。しかし中山国は趙の武霊王によってBC296年に滅ぼされます。一方楽氏には楽毅が生まれます。

さて生まれた楽毅についての記述の始まりは「樂毅賢,好兵」とあります。
野口さんの訳では”楽毅は賢明で軍事を好み、”となっていますが、貝塚さんの訳では”楽毅は賢明で武事が好きな人だった。”となっています。武事というと個人的武芸のような気がしてしまいます。ここは軍事という方が適切と思います。そして彼は趙で挙げられます。

ここで騒動が起き、楽毅は趙を去り魏に行きます。
「及武靈王有沙丘之亂,乃去趙適魏。」
なのですが、ここの部分の記述の訳が不思議です。貝塚さんの訳では
”武霊王の時に沙丘の行在所でお家騒動の乱がおこると、趙をでて魏の国へ行った。”
です。野口さんの訳では
”武霊王が沙丘の内乱で死ぬと、趙を去って魏におもむいた。”
となっています。
どちらの訳も意訳に見えます。
とにかく趙から先祖の楽羊が仕えた魏に行った訳です。

ここで話が飛びます。そのころ燕が宰相子之の乱がもとで斉に大敗し、燕の昭王は斉に対する怨みをはらそうと思わない日はない状態だったのです。しかし力不足で、まずは人材が必要と考え、郭隗という者を礼遇し、賢者をまねこうとしておりました。このあとの部分ではこんな記述があります。
「樂毅於是為魏昭王使於燕,燕王以客禮待之。樂毅辭讓,遂委質為臣,燕昭王以為亞卿,久之。」
貝塚さんの訳では、
”楽毅はそこで魏の昭王の使者として燕に行った。燕王は客人として丁重な待遇を与えた。楽毅はそれに値しないと謙虚な態度をとったが、そのまま家臣としての忠誠を誓って燕に仕えることにした。燕の昭王は公卿に準ずる身分を与えた。こうしてかなりの月日がたった。”
となっています。なんだか燕に行く時の楽毅の態度が曖昧な記述です。その後ずるずると臣下になってしまうのも腑に落ちません。

野口さんの訳では、
”これ(人材を集めている話)を聞くと、楽毅は魏の昭王に願い出て、使者として燕におもむいた。燕王は賓客に対する礼をもって待遇しようとしたが、楽毅は辞退し、礼物をさしだして臣下となった。燕の昭王は、楽毅を亜卿に任じ、こうして久しい年月が流れた。”
となっています。’礼物をさし出して臣下となった’という部分はどこのテキストにあるのか知りませんし、変な話ですね。しかしこちらの訳では人材を募っているという話を聞いて、乗り気になり出かけていった、いう楽毅のスタンスははっきりしています。
楽毅は(多分政治家あるいは官僚として)すでに燕でも名が通っていたことが推察されます。また、魏でくすぶっていることに不満があったのではないでしょうか。






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