2019年9月30日月曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(5)

以下の記事は2015(平成27年)2月22日にアップロードした「史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(4)」の続きです。その当時、白起の死までを「史記 白起・王翦列伝 第十三(5)」として書いていたのですが、アップロードを忘れていたのです。それで今になってアップロードも変ですが、一応載せておきます。
この直前の話は、以下のとおりです。
昭王の四十九年に秦が趙を攻めたのですが、この時白起は病気で王陵というものにやらせました。ところが王陵が無能でうまく行きませんでした。この時白起の病気が治りました。そこで秦王は王陵から白起に交代させてやらせようとします。しかし白起は秦を怨む諸侯が応援に来ているし、秦の兵も闘いに疲弊しているし勝てそうもない、と反対します。しまいに病気と称して引きこもってしまいます。

さて秦王は今度は王齕(オウコツ)を使って邯鄲を包囲させますがうまく行きません。楚や魏は趙を応援して楚は春申君、魏は信陵君が秦軍を攻撃しました。秦は死傷者、逃亡者多数で失敗しました。
ここで白起は余計なことを言ったことになっています。 「秦不聽臣計,今如何矣!」 すなわち、 ”秦は私の計(はかりごと)をききいれなかったが、その結果いまはどうだ。” と言ったのです。史記では言ったとされ、それが秦王の耳に入ったとされています。
個人的には讒言のような気がしています。本当に言って告げ口されたのなら愚かしいとしかいいようがありません。
秦王は白起の言を聞いて怒って、また白起に出陣させようとしますが、重病と言って出てきません。また応侯に懇請させますが、絶対に出てきません。なぜここで怒った秦王が白起を引き出そうとするのでしょう。そんな腹立たしいことを言った男を大事な戦いの将軍として使おうというのでしょうか?それとも人選の失敗に本当に後悔して白起にやってもらおうと思ったのでしょうか?
一方、白起の態度は傍から見ればまるで意地になっているようです。出て行っても勝っても負けても殺されると思ったのかもしれません。しかし少なくとも意地を張って出て行かなかったら、殺されるのは時間の問題です。 秦王はまず白起(武安君)の位を士伍(野口さんの訳では一兵卒)とし、陰密(甘粛省)に移住させる事にしますが、白起は本当に病気らしくすぐには出発せず三ヶ月経ちます。 その後が変なのです。 「諸侯攻秦軍急,秦軍數卻,使者日至。秦王乃使人遣白起,不得留咸陽中。武安君既行,出咸陽西門十里,至杜郵。」 野口さんの訳では ”諸侯の軍が激しく秦軍を攻め立て、秦軍はしばしば退却した。そこで秦王は人々をやって白起を追い払わせ、咸陽のうちの留まることが出来ないようにした。武安君は出発して咸陽の西門を出ること十里、杜郵に着いた。” となっています。ここの部分の記述は意味が分かりません。白起が意地になって咸陽にいてもそれと諸侯の軍が秦軍に退却を余儀なくさせることとは別の話です。
秦王は群臣と諮り、結局白起に剣を賜い、自殺を命じます。 この時の白起の言葉は次のようなものです。 「我何罪于天而至此哉?」 ”私は天に対していかなる罪を犯したために、かかる結果になったのだろうか。” といい、そのあと言葉を継いで
「我固當死。長平之戰,趙卒降者數十萬人,我詐而盡阬之,是足以死。」
 ”私は元来死ぬべきなのだ。長平の戦いのとき、趙の士卒で降伏した者が数十万人あったが、わたしは謀略にかけて、これをことごとく阬(アナウメ)にした。これだけも死ななければならないのだ。”
白起は有能な将軍ではあったけれど、不思議な位、処世の術には長けていなかったようです。 宰相の応侯と不仲になったあと、趙の攻撃に反対して、あとは病気と称して出てこないだけではいいように讒言されます。知力の優れた人にしてはまずいやりかたです。 将軍として大手柄を立てている間にやった残虐行為も最後には祟っています。白起の最期にあたっての言は残虐行為の反省ですが、その残虐行為のおかげで他国で身の安全を保つのが難しいのを後悔していたのでしょうか。


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2019年9月22日日曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (4)

建安24(219)に劉備が漢中を手に入れた時に、劉備に仕える群臣が劉備に漢中王に推挙し、漢帝(献帝)に上表します。ここは
羣下、上先主爲漢中王、表於漢帝曰
とあります。推挙している人の名前が列挙されていますが、はじめの方は以下の如くなっています。
平西將軍都亭侯臣馬超、左將軍領長史鎭軍將軍臣許靖、營司馬臣龐羲、議曹從事中郎軍議中郎將臣射援、軍師將軍臣諸葛亮、盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽、征虜將軍新亭侯臣張飛、・・・
名前の順序にどの程度意味があるのか知りませんが、先頭が馬超で、二番目が許靖なのでちょっと不思議です。因みに諸葛亮は5番目、以下関羽、張飛、黄忠と続きます。さてその推挙の文中に
曹操、階禍、竊執天衡。皇后太子、鴆殺見害、剝亂天下、殘毀民物」
という部分があります。井波さんの訳によれば
“曹操が災禍を利用して、勝手に帝権を行使いたしております。皇后や皇太子を鴆毒(チンドク)により殺害し、天下を混乱に陥れ、民衆を破滅に追い込みました。”
ということを書いております。以下曹操を非難するとともに、劉備がこれを除こうと努力したことが縷々書かれています。
許靖について言うならば、以前の彼の曹操への賛美の手紙とはえらく話が異なります。曹操は建安25年まで生きていましたから、この上表文を読んだかも知れません。読んだとしたら許靖のことをよくは思わなかったと思います。許靖が意見を変えた理由を説明している文書があれば言い分も窺えるのですが、単に劉備の漢中王推挙の上表に名を連ねるだけでは都合よく意見を変える世渡り上手な人という印象しか持てません。

劉備が漢中王になると、許靖は太傅となります。天子の師という格ですが、地位は高いが実験はないようです。
なお、建安25(220)には曹操の子の曹丕が魏の後継者となり、そしてすぐに後漢の献帝の禅譲を受けた形にして帝位を奪います。蜀には献帝が殺害されたと誤伝がはいり、劉備が蜀で帝位に就きます。
この時も臣下が多くの瑞祥が現れたと言い、帝位に就く事が天命であると説く上奏文が出されています。しかし、この上表文を奉った人の中にはあまり有名人は入っていません。
しかしそれとは別に出された上表文は、許靖、麋竺、諸葛亮等の臣下の名のもとに出されています。これには曹丕が簒奪を行い、主君(献帝)を弑したことから説き、天下が主をうしなって混乱していること、一方において瑞祥が現れて漢中王劉備こそ劉氏を継いで帝に立つべき、と述べています。
そして建安26(221)4月、劉備は帝位につきます。ここでの記述は
章武元年夏四月、大赦、改年。以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。置百官、立宗廟、祫祭高皇帝以下。
です。章武は蜀の新元号です。大赦を行い、元号を改め、諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とし、百官を置き、宗廟を立て、高皇帝以下を廟にあわせ祭った、ということです。この新王朝のはじまりの記述で名前が挙がっているのは二人、許靖は丞相孔明に次ぐ高官になっているのです。
 章武2(222)に劉備は呉を攻めますが夷陵の戦いで大敗します。この時大敗のあとの時期に許靖は亡くなっています。

許靖の伝、およびその註で目立つのは許靖に対する賛辞です。“三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖(2)”で彼が交阯へのがれた時、交趾太守が手厚く待遇したことや、袁徽が荀彧宛の手紙の中で大層許靖を褒めたことはすでに述べました。
また、“三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖(3)”で、彼が蜀に入った時、宋仲子が蜀郡太守の王商に、許靖は優れた人物だから指南役にされるべきです、といった手紙の紹介があることを述べました。三国志の蜀書の許靖伝の末尾には
靖、雖年逾七十、愛樂人物、誘納後進、清談不倦。丞相諸葛亮皆、爲之拜。
とあります。井波さんの訳によれば
“70歳を越えても人物を愛し、後進を導き受け入れ、世俗を離れた議論にふけって倦むことがなかった。丞相の諸葛亮以下みな彼に対して敬意を表した。”
とのことであり、さらに
靖兄事潁川陳紀。與陳郡袁渙、平原華歆、東海王朗等親善。歆朗及紀子羣、魏初爲公輔大臣、咸與靖書、申陳舊好、情義款至。
と続きます。
“許靖は潁川の陳紀に兄事し、陳郡の袁渙、平原の華歆、東海の王朗らと親交があった。華歆・王朗および陳紀の子の陳羣は魏建国の初年に輔佐の大臣にとなったが、みな許靖に手紙を送って旧交をあたため、その友誼はきわめて厚いものがあった。”
となっています。彼は当時のインテリ社会で名高い人で、インテリ同士の文通をしていたようです。悪くとれば、蜀が滅んでも命綱を他国にもっているようにも見えます。
褒められてばかりいるが何をやったかよくわからない、毒にも薬にもならないが首尾よく出世だけはする、という風に私には見えてしまうのですが...



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