2022年3月26日土曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(11) -衛氏(ii)および李夫人-

 ところでこの陰惨な事件は早くもその翌年には房太子は無実である、ということがわかりました。当然ながら武帝は房太子のみならずその子供(自分の孫)まで皆殺しにしたのを非常に後悔しました。その結果房太子を陥れた江充を非常に憎み、江充本人はすでに房太子に殺されていたのですが、江充の一族は皆殺しにしました。しかし今更そんなことをしても取返しはつかないし、江充一族の者と言っても江充の巫蠱の工作の片棒を担いだならいざ知らず、何もかかわっていないのに処刑された者もいるでしょうから、こういう人にとっては気の毒な話です。

しかし少しは救いもあります。房太子の長男には夫人がおりました。この夫人は夫ともに殺されたのですが、すでに赤ん坊(病己)を生んでいました。この病己は房太子の孫にして武帝の玄孫になる訳です。気の毒にも彼は祖父の冤罪により獄につながれます。この時、邴吉(ヘイキツ)というものが廷尉監として巫蠱の事件を裁きました。彼は房太子が無実であることを知っていました。赤ん坊を哀れに思い、女囚に養育させます。その後彼は民間で成長しました。この赤ん坊ののちの名前は詢といいます。これが運命のいたずらにより後に宣帝になります。

なお劉詢を保護した邴吉については、このブログの3つ目の記事「漢書;魏相邴吉伝第四十四」に書いております。

衛夫人の生前、彼女の容色の衰えたあと、王夫人、李夫人が寵愛を受けますが早世しています。さらに尹捷伃(インショウヨ)、鉤弋(コウヨク)夫人が寵愛されます。このうち李夫人と鉤弋夫人にはエピソードがあります。

李夫人はもともと楽人でした。彼女には李延年という兄がおり、これが大変歌がうまかったそうです。あるとき武帝の前で

「北方有佳人,絕世而獨立,一顧傾人城,再顧傾人國。寧不知傾城與傾國,佳人難再得!」

と歌いました。小竹さんの訳によれば

“北方に佳人あり、世を絶して独り立ち、

一顧して人の城を傾け、再顧して人の国を傾く。

なんぞ傾城と傾国を知らざらん、

佳人再びは得がたし。“

となります。傾城、傾国という美人を指す言葉はここから由来するのだそうです。

この歌を聞いて武帝はそんな人がいるのかと言い、武帝の姉の平陽公主が李延年に妹がいることを告げました。実際に武帝が召し出してみると綺麗で舞が上手でした。彼女は哀王を生んでいます。李夫人の病が篤くなったとき武帝が彼女を見舞いに行きました。しかし李夫人は容色の衰えた顔を頑として武帝に見せませんでした。武帝は不興げに帰りました。姉妹がなぜ顔をみせて兄弟のことを頼んでくれないのか聞いたところ、李夫人は現実を見据えた言を吐きます。

「所以不欲見帝者,乃欲以深託兄弟也。我以容貌之好,得從微賤愛幸於上。夫以色事人者,色衰而愛弛,愛弛則恩絕。上所以攣攣顧念我者,乃以平生容貌也。今見我毀壞,顏色非故,必畏惡吐棄我,意尚肯復追思閔錄其兄弟哉!」

と言います。“顔を帝に見せないのはもっと深く兄弟のことをお頼みしたかったからです。自分は容貌がよいために微賤の身から皇帝の寵愛を受けることができました。容色を以て人に仕える者は容色が衰えれば愛が衰え、愛が衰えれば恩が絶えるものです。帝が自分のことを心に掛けてくれるのは平生の容貌によります。いま私の崩れはて、かつての面影もない顔色を見せたら自分を唾棄したくなられるでしょう。そうなってしまってから帝は私を追慕し、兄弟を憐れんでくださるものでしょうか。」

真実の愛なんてないものねだりで、皇帝の愛なんて所詮は外見に惚れただけのこと。と言っています。シビアですが、この李夫人の言と、その行動には強い意志と知性を感じます。逆に皇帝は美貌のみならず彼女の知性にも惹かれていたのではないでしょうか。



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2022年3月21日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(10) -衛氏(i)-

さていよいよ陳皇后の次に立つ衛皇后(あざな子夫とあります。)の話になります。彼女は武帝の姉である平陽公主の歌手でありました。武帝が平陽公主のもとに立ち寄ったときに公主は飾りとしておいておいたそばに侍る美女をお目通りさせたのですが、武帝は気に入りませんでした。あとで宴会で酒を飲んだ時に歌手を出しましたが、この歌手の中の衛子夫を武帝は気に入りました。武帝は平陽公主に金千斤を賜ったといいます。これがどの程度の価値かを機械的教科書的に計算すると、漢代の一斤が227 gですから千斤は227 kgです。現在(令和4年3)金はおよそ\8000/gですから227 kgでは約18億円となります。こういう計算にどれほどの意味があるか分かりませんが、とにかくかなりの価値のものを与えたことになります。

後にも書きますが、衛子夫の実家は微賤ですが、衛子夫のお蔭で栄達した親族には優秀な人材がでます。私の推測ですが、衛子夫も頭が良くて受け答えが気が利いていて武帝の心をとらえたのだと思います。

平陽公主は早速子夫を車に乗せて宮中に送り込んだのですが、この時衛子夫に向かって

「行矣!強飯勉之。即貴,願無相忘!」

といったとされます。

“さあお行き。つとめてご飯を食べるんだよ。もし貴い身分になれても、お互いに忘れないでいましょうね”

と訳されています。皇帝の姉である平陽公主といえども皇后になるかも知れない女に恩を売っておくことは大きなメリットがあるのでしょうね。

 

大枚はたいて連れてきた衛子夫を一年あまり相手にせず、その結果子夫は武帝にいとまごいしました。武帝は可哀そうに思って寵愛し、なんとこれで妊娠し、子夫は一挙に尊寵されるにいたります。子夫は三女を生み、さらに男の子()を生み皇后に上り詰めます。この子夫の出世は歴史にも影響を与えます。すでに書いたように皇后の血族が出世できるお蔭で優秀な人材が世に出たことによります。

彼女の兄(衛長君)と弟()が宮中に登れるようになります。衛長君は早く死んだようですが、青(衛青)は匈奴を撃って日本の歴史の教科書にも出てくるほどに名をあげました。そして大司馬大将軍まで登り詰めています。

衛子夫の姉の子に霍去病がいます。大司馬票騎将軍までのぼります。このひとも衛青とならんで匈奴を撃ち大いに名を挙げています。

衛子夫の子供、拠は太子に立てられ、房太子と呼ばれます。しかし気の毒にも彼は江充というものに陥れられて死ぬことになります。房太子の死にいたる経緯は簡単に言いますと、またしても巫蠱がらみでした。武帝が病に臥せった時江充は、もし武帝が崩御すると、自分は房太子やその母の衛皇后とかねて仲が悪かったので立場が危ないと考えます。そしてまず武帝の病は巫蠱つまりつまり呪いによるものと奏上します。古代の人だから呪いといったものも本気で信じるでしょう。それにそういわれれば人によっては体の調子がよくないような気もしてくるものです。江充は狙いを付けた相手の土地の土を掘り返して木偶人形が出たと言い立て、呪術師に自白を強要し、沢山の人を死に追いやります。あらかじめ木偶人形を埋めておいてから告発するのですからたまったものではありません。これで人々は恐慌をきたし人に責任を擦り付けようと誣告したりするものだから、全国での巫蠱騒動の犠牲者は数万になったそうです。(漢書 蒯伍江息夫伝第十五)

そしてついに宮中まで捜索し、後宮、皇后のところまで捜索し、ついに太子宮で木偶人形を発見します。もちろんこれは江充が仕込んだものです。房太子は弁明することもできず追い詰められて江充をとらえて殺します。しかし結局房太子も謀反人として攻撃され、縊死します。そして衛皇后までも自殺に追い込まれてしまいました。この悲劇は大きく広がっていて、衛子夫の生んだ房太子の姉二人も江充の陰謀で殺されていますし、房太子の子供である三人の男の子と一人の女の子も殺されています。この騒動の結果衛氏はあらかた滅ぼされてしまいました。一人の女性が帝の寵愛を受けることは、それにより血のつながる衛青、霍去病のような優秀な人材が力を振える道を開いたのですが、逆に陰謀家により大変な災難を被る不条理を伴っていたようです。




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2022年3月7日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(9) -王皇后(iv)-

 さて臧児の娘が栗姫に代わって王皇后(景帝の皇后)になったことはすでに述べています。これには陰謀家の嫖(=館陶長公、主文帝の娘)がからんでいて、その陰険な策謀は「外戚伝 第六十七上(7-王皇后(ii)-」に書いた通りです。そしてその王皇后には一男三女が生まれたのですが、そのうちの男子に嫖は自分の娘を押し付けたこともすでに記した通りです。外戚になれば一族郎党高位にのぼり贅沢ができるのですが、そのためにはそもそも外戚にならないと話になりません。

王皇后の男子は立って皇帝になりました。これが前漢の武帝です。その結果、この男子に嫁していた嫖の娘は皇后(陳皇后、嫖の夫は陳午という)になります。嫖の計画はうまく行ったのです。彼女について漢書には

「及帝即位,立為皇后,擅寵驕貴,十餘年而無子」

との記述があります。

小竹武夫さんの訳によれば

“帝が即位すると、立って皇后となり、寵愛をほしいままにして尊貴に驕り、十余年を経ても子がなかった”

です。寵愛され、贅沢ができたのでしょうが、子供ができなかったのは不幸なことでした。しかも陳皇后はさらなる不幸に襲われます。強力なライバル衛子夫が現れました。衛子夫が寵愛を受けている話を聞いて陳皇后はほとんど死なんばかりでした。ここで何をやったか、というと

「后又挾婦人媚道,頗覺」

とあります。この部分の小竹さんの訳は

“皇后はまたひそかに婦人の媚道を行い呪詛していたことが次第に発覚し”

となっています。婦人媚道とはどうも男の愛を得る呪術のようです。そしてそのいかがわしい行いの情報を得て武帝は徹底的調査を行います。そして

女子楚服等坐為皇后巫蠱祠祭祝詛,大逆無道,相連及誅者三百餘人。楚服梟首於市」

ということになります。

“女子楚服らが皇后の巫蠱に祠祭祝詛したこと、大逆無道という罪に坐し、相連累して誅殺されたもの三百余もあった。楚服は市場でさらし首になった。”

と訳されています。巫蠱はまじない師という意味と、まじないで人を呪うことという意味があります。訳をよんでもなんとなくすっきりしません。楚服らが皇后のまじない師に神に災いをもたらすように呪詛させた、ということなのでしょうか。ここで誰が呪われたのでしょう?衛子夫なのでしょうか?

三百余名誅殺され、首謀者がさらし首ですから大変です。現代の日本では丑の刻に藁人形を神社のご神木に五寸釘で打ち付けて相手の死を祈っても、犯罪要件を構成しないので罪にもなりませんが、前漢の時代には大罪になってしまったのです。

そして陳皇后はといえば死罪にはなりませんでしたが、皇后を廃され長門宮に閉じ込められました。

この処分ののち、堂邑侯午(陳午)がなくなったという記述があります。堂邑侯は陰謀屋の嫖の夫です。午のあとは息子の須があとを継ぎましたが、いろいろ不都合があって自殺に追い込まれています。嫖にとってはつらい運命です。しかし彼女は

「主寡居,私近董偃」

とあります。小竹さんの訳では

“公主()は寡居してひそかに董偃(トウエン)に親しんだ

とあります。ここで董偃は街で見かけて嫖が一目ぼれして引き取った美少年で、不義密通の相手になったそうです。董偃は三十で亡くなりましたが、なんと公主は夫の陳午ではなくて情夫の董偃と合葬されることを希望して死んだのでそのようにされているのだそうです。




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