2017年6月27日火曜日

論語(7);史記孔子世家 第十七 -(vi)-

孔子はまた魯から出て今度は衛へ行きます。衛の霊公は孔子に魯と同等の碌を与えます。しかし讒言する人がいて、孔子は罪に落とされるのをおそれて衛を去り陳へ行こうとします。

衛から陳へ行く途中の、匡を通った時に難に会います。
匡の人は孔子を、風貌の似ているかつて匡の人に乱暴をはたらいた陽虎と取り違え、何日も拘束します。このため食糧を絶たれ困窮します。

この事件のあと孔子は結局衛に引き返します。
霊公の夫人の南子という人が、人を孔子に遣わして、次のように言わせます。
「四方之君子不辱欲與寡君為兄弟者,必見寡小君。寡小君願見。」
野口定男さんの訳によれば
“四方の諸国の君子で、わが国の君主(霊公)と親交したいとのぞむことをいとわないものは、必ず君主夫人(南子)に謁見いたします。君主夫人はあなた(孔子)にお目にかかりたいと願っておられます。“
これを聞いて孔子は南子に謁見します。孔子はこれについて、やむを得ず謁見したと子路に言い訳しています。そして
「予所不者,天厭之!天厭之!
“わしに後ろ暗いところがあれば天がわしを見すてるだろう、天がわしをみすてるだろう。”
と言います。
何らかの行政上の地位を得ないなら、政治の抱負を実行できないでしょうから、一般論からいえば南子に会ったことが、悪いことであるとは言えませんが、あとに述べるように、すぐに衛を離れることになるのですからここで南子に会ったのは、処世の術としては先の見通しが悪いという気がします。
その事件とはこうです。
「靈公與夫人同車,宦者雍渠參乘,出,使孔子為次乘,招搖市過之
野口さんの訳では
“霊公は夫人と同車し、宦者の雍渠が陪乗して外出したが、その際、孔子を後車に乗せて行った。一行は市中を逍遥した。”
とあります。孔子は後ろの車に乗せられたのでしょうね。これで孔子は
「吾未見好德如好色者也。」
すなわち
わしはまだ色を好むように徳を好むものを見たことがない。“
と嘆いて衛を去ります。

この言葉は論語の子罕第九と衛霊公第十五と両方に出てきます。これは普通に健全な嘆きと思いますが、昨今の日本の風潮では、徳より色を好むのを非とも恥とも思わぬ人の方が人権尊重の精神に富んでいる、と言われそうですね。

2017年6月18日日曜日

論語(6);史記孔子世家 第十七 -(v)-

以下、史記の孔子世家は説明の十分でない話が続きます。

魯の国で孔子は政治をあずかり、国はよく治まったとあります。治まったのは分かりますが、それは結論であって、どういう施策をしたのかはわかりません。本当によく治まったのなら実務家として優れたところがあるはずですが、内容がわかりません。

しかしよく治まった結果、斉の人間がまた魯が強国になるのではないかと心配します。そこで踊りのできる着飾った美女を80人を、飾り立てた馬とともに魯の君に送ります。そしてその馬や女を魯の都城の南方の高門の外に連ねた、とあります。
そもそもこれが不思議です。魯の君に贈るというのだから連絡して魯の王のもとに送ればよいだけなのに、城門の外に連ねたのです。なぜそんなことを勝手にできたのでしょう?

これからあとの史記の内容も納得いかない話です。
「季桓子微服往觀再三,將受,乃語魯君為周道游,往觀終日,怠於政事。」
となっており、野口さんの訳によれば
“季桓子(季孫氏の当主で魯の宰相)が人目につかない服装で再三でかけて見物し、それを受け入れようとして、魯君に告げて、ともに都城の内外をあまねく巡遊し、それにかこつけて終日女楽を見物し、政事を怠った。”
です。季桓子に、ではなく、君主に贈られたもので、季桓子が下手に追いかければわが身を危険にさらしそうなのに、付きまとっているわけです。そして女楽を楽しんで政事を怠った、とされるのも君主でなく季桓子なのです。
なぜこんなことがまかり通っているのでしょうか。

子路が嘆いて職を辞すべき、と孔子に進言すると、孔子の答えが、「魯は郊祭(天地を祭る行事)を行おうとしている。その時、(ひもろぎ、お供えの肉)を礼式通り大夫におくるようなら留まろう。」です。どうしてそんなことが重要な判断基準になるのかよくわかりません。しかし結局、お供えの肉は配られなかったので孔子は諦めて辞職します。

ところで、ここでまた女楽を受け、三日の間政(まつりごと)を聞かず、と前と同じ話を述べられ、さらにお供えの肉を配らなかったのも魯の君主の話ではなく、季桓子なのです。
魯の定公は何をしていたのでしょう?この辺の事情がまったく分かりません。

さて音楽官が立ち去る孔子を送って行って「罪のないのにどうして」と聞いたところ、孔子は女楽にかこつけて季桓子の行いを謗った歌を歌います。季桓子はあとからその歌を聞いて、孔子に罪せられたことを嘆いたとあります。

季桓子にその程度の良識があるのなら、政を怠ったのも三日ですし、孔子は去らずに季桓子を諫めたらよかったのに、と思うくらいです。
孔子はあっさり身を引いて、魯の政治を混乱させる、という斉の企みは取り敢えず成功させてしまったのですから。





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2017年6月17日土曜日

論語(5);史記孔子世家 第十七 -(iv)-

次の話題は孔子が定公に、
「臣無藏甲,大夫毋百雉之城」
と進言した件に関わります。ようするに
“臣下は兵を私蔵すべきでなく太夫は百雉()(以上の)城邑をもってはいけない。” と提案したのです。ここで雉は三堵(トツ)で、堵は高さ一丈、長さ一丈だそうです。

臣下がむやみに私兵を蓄えるのは国の乱れるもとですから、もっともな提案ですが、こういう話はうまく実行できるかが問題となります。対象となる太夫は孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の城邑でした。

以下の史記の説明はしかし、論理のつながりの明解でない話になっています。

定公は孔子の話に乗って子路(孔子の弟子)を季孫氏の家宰にして三つとも破壊しようとします。
なぜ季孫氏の家宰に三家の城邑の破壊を命じるとそれが達成できるのかがわかりません。それでも不思議なことにまずは叔孫氏がその城邑である郈(コウ)を破壊します。

ところが子路が家宰になった季孫氏の城邑の費を壊そうとすると、いろいろ問題児である公山不狃(コウザンフチュウ)、および叔孫輒(シュクソンチョウ)なる男が費の人を率いて反抗し、魯の都(曲阜)を襲いました。これだけではなぜ襲撃が起きたかがわかりません。費の人が自分たちの住む城郭を壊されることに不安を抱いたのを公山不狃と叔孫輒が扇動したのだと私は勝手に想像しています。

情けないことに、費の人に攻められた定公、季孫、孟孫、叔孫は季氏の宮(宮殿?)に逃げ込みました。「登武子之臺」とあって、季武子が作った台に登ったのだそうです。
ここで孔子は申句須(シンコウシュ)と楽頎(ガクキ)に台を降りてこれを伐つことを命じます。まさか台から二人降りて行っただけではどうにもなる筈はなく、台の下に味方の兵がいたのか、あるいは台そのものが広大で、兵もそこそこいたのでしょうか。これで費の人は敗走します。その結果、公山不狃と叔孫輒は斉に逃げたとのことです。そしてやっと費を破壊します。
季氏の家宰となった子路は何をしていたのでしょう?役に立ったのでしょうか?何も記述がありません。

最後に孟孫氏の城邑の成を壊そうとすると、斉の宰が、成は孟氏の支えで、成がなくなると孟氏も無くなる。そうなると、斉の国の人が魯(の北門)に攻めてくる、と言って止めます。
定公はそれでも成を包囲したのですが勝てなかった、とあります。

これは尻切れトンボの話です。臣下の城邑を君主が兵を率いて包囲して勝てなかったのですから後々ごたごたになりそうな話ですが、ここには何も書いてありません。

これでは結局孔子は初めの思想だけはよいものの、禍根を残しただけなのではないでしょうか。





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2017年6月12日月曜日

論語(4);史記孔子世家 第十七 -(iii)-

斉の景公は結局孔子を取り立てることはできませんでした。その後、孔子はまた魯にもどったようです。
魯の昭公が亡くなったあとに定公が立ち、この定公とのやりとりが出てきます。しかしその内容は、土製の瓶から出た羊(らしきもの)の説明とか、城を毀したら出てきた骨についての現代人から見れば荒唐無稽な説明です。

続いて魯国の家臣(豪族)の内訌が語られ、みんな勝手なことをやっている有様となり、孔子は退いて詩書礼学を修めて沢山の弟子ができたとあります。孔子には名声があり、影響力もある人物と見られていたのでしょう。

魯の家臣である季氏のそのまた家宰(カサイ;家の仕事を家長に代わって執り行う者)である公山不狃(コウザン フチュウ)なる人が、季氏の邑である費というところによって季氏に背きました。そしてなぜか孔子を招致します。
孔子は、費は小邑であるが、我が道が行われるかも知れない、として出かけようとします。
子路はこれを喜ばず止めました。理由ははっきりしませんが、結局孔子は行きませんでした。

この後の記述を見るに、孔子伝は自分を用いてくれる君主をもとめてさすらう旅の記録です。
“忠臣は二君に仕えず、”というような考えはないようです。用いてくれて自分の理想とする政治ができるなら、どこでも行く、というスタンスなのです。孔子の立場に沿って考えるならば、孔子が相手にしているのは目の前の魯の君主ではなくて、天下であり、天下に道を行わせよう、ということなのかも知れません。
しかしそれなら魯の内部で勢力争いのごたごたを起こしていて、ふるまいからして君子とは言えないような公山不狃の招きに応じて、小邑である費などへ行くのはあまり説得力のない行動にみえます。

それでも孔子の識見は買われていたようで、魯の君主である定公は孔子を中都(魯の邑)の宰(長官)とし、さらに司空、大司冦(ダイシコウ;司法大臣)と引き上げます。

次に魯が斉の景公と和好の会を開くエピソードが出てきます。史記によればこれには裏がありました。斉の大夫が景公に、魯は孔子を用いて勢いが盛んになって斉にとって危険だ、と説き、景公は和好の会を魯の定公に提案しているのです。史記にははっきりした記述はないのですが、定公を捕らえるとか、暗殺するとか考えたのかも知れません。

ここで孔子は実際的な対応をします。
定公は気楽な親睦の会で平常時の車で行こうとしますが、孔子は諸侯が国境を出る時は文武の官を従えるのが古来のしきたりだから、と左右の司馬(武官)を連れて行くことを献言し、実行されます。
会見の席で斉の役人がやらせた夷狄の舞楽の一団が、旗とかお祓いの道具の他、槍、剣、盾などを持っていたのですが、孔子は夷狄の楽はよくない、としてやめさせます。そして景公は楽人を退去させます。
これは、暗殺の危険を避ける意義はあったと思います。
その次に斉の役人が持ち出した余興について、次のように記述されています。
「優倡侏儒為戲而前。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,曰:「匹夫而營惑諸侯者罪當誅!請命有司!」」
野口さんの訳によれば
優倡(俳優)・侏儒(こびと)がたわむれながらすすんできた。孔子は小走りにすすみ、片足ずつ階段をあがり、最後の一段をのこして、「匹夫でありながら諸侯をまどわすものは、その罪は誅殺に該当いたします。役人に命じて善処させましょう」“
と言い、優倡と侏儒は手足をきられてばらばらにされます。優倡と侏儒が戯れながら出てきたところで、ただ追い出すならとにかく、現代人から見ればずいぶん過酷な処置をさせたものです。

こうしたことで、景公は厳格に義を通す孔子を恐れ、帰国後家臣と相談し、斉が侵略により魯から奪っていた田を返すことにします。

ここの書き方では孔子流の義の主張の色彩の強い書き方ですが、要は孔子は相手に強く出て外交的成果を挙げたことになります。単に世事に疎い道学者的人物にとどまっているだけの人ではなかったように見えます。





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