斉の景公は結局孔子を取り立てることはできませんでした。その後、孔子はまた魯にもどったようです。
魯の昭公が亡くなったあとに定公が立ち、この定公とのやりとりが出てきます。しかしその内容は、土製の瓶から出た羊(らしきもの)の説明とか、城を毀したら出てきた骨についての現代人から見れば荒唐無稽な説明です。
続いて魯国の家臣(豪族)の内訌が語られ、みんな勝手なことをやっている有様となり、孔子は退いて詩書礼学を修めて沢山の弟子ができたとあります。孔子には名声があり、影響力もある人物と見られていたのでしょう。
魯の家臣である季氏のそのまた家宰(カサイ;家の仕事を家長に代わって執り行う者)である公山不狃(コウザン フチュウ)なる人が、季氏の邑である費というところによって季氏に背きました。そしてなぜか孔子を招致します。
孔子は、費は小邑であるが、我が道が行われるかも知れない、として出かけようとします。
子路はこれを喜ばず止めました。理由ははっきりしませんが、結局孔子は行きませんでした。
この後の記述を見るに、孔子伝は自分を用いてくれる君主をもとめてさすらう旅の記録です。
“忠臣は二君に仕えず、”というような考えはないようです。用いてくれて自分の理想とする政治ができるなら、どこでも行く、というスタンスなのです。孔子の立場に沿って考えるならば、孔子が相手にしているのは目の前の魯の君主ではなくて、天下であり、天下に道を行わせよう、ということなのかも知れません。
しかしそれなら魯の内部で勢力争いのごたごたを起こしていて、ふるまいからして君子とは言えないような公山不狃の招きに応じて、小邑である費などへ行くのはあまり説得力のない行動にみえます。
それでも孔子の識見は買われていたようで、魯の君主である定公は孔子を中都(魯の邑)の宰(長官)とし、さらに司空、大司冦(ダイシコウ;司法大臣)と引き上げます。
次に魯が斉の景公と和好の会を開くエピソードが出てきます。史記によればこれには裏がありました。斉の大夫が景公に、魯は孔子を用いて勢いが盛んになって斉にとって危険だ、と説き、景公は和好の会を魯の定公に提案しているのです。史記にははっきりした記述はないのですが、定公を捕らえるとか、暗殺するとか考えたのかも知れません。
ここで孔子は実際的な対応をします。
定公は気楽な親睦の会で平常時の車で行こうとしますが、孔子は諸侯が国境を出る時は文武の官を従えるのが古来のしきたりだから、と左右の司馬(武官)を連れて行くことを献言し、実行されます。
会見の席で斉の役人がやらせた夷狄の舞楽の一団が、旗とかお祓いの道具の他、槍、剣、盾などを持っていたのですが、孔子は夷狄の楽はよくない、としてやめさせます。そして景公は楽人を退去させます。
これは、暗殺の危険を避ける意義はあったと思います。
その次に斉の役人が持ち出した余興について、次のように記述されています。
「優倡侏儒為戲而前。孔子趨而進,歷階而登,不盡一等,曰:「匹夫而營惑諸侯者罪當誅!請命有司!」」
野口さんの訳によれば
“優倡(俳優)・侏儒(こびと)がたわむれながらすすんできた。孔子は小走りにすすみ、片足ずつ階段をあがり、最後の一段をのこして、「匹夫でありながら諸侯をまどわすものは、その罪は誅殺に該当いたします。役人に命じて善処させましょう」“
と言い、優倡と侏儒は手足をきられてばらばらにされます。優倡と侏儒が戯れながら出てきたところで、ただ追い出すならとにかく、現代人から見ればずいぶん過酷な処置をさせたものです。
こうしたことで、景公は厳格に義を通す孔子を恐れ、帰国後家臣と相談し、斉が侵略により魯から奪っていた田を返すことにします。
ここの書き方では孔子流の義の主張の色彩の強い書き方ですが、要は孔子は相手に強く出て外交的成果を挙げたことになります。単に世事に疎い道学者的人物にとどまっているだけの人ではなかったように見えます。
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