2018年10月13日土曜日

論語(27); -君子と小人(xii)-

子張第十九の7に子夏の言ったこととして
「百工居肆以成其事,君子學以致其道。」
“種々の職人は仕事場にいて、それでその仕事を仕上げる。君子は学問してその道を完成する。”
があります。

肆(シ)というのは朱子によれば「官府造作之處」ということで、役所の器物を作る仕事だそうです。どうして君子に対して役所の器物で働いている人が挙げられるのかちょっと不思議です。お役所の官僚に対して生活のために下働きをしている人を対比させているのでしょうか?
肆については「市場」という解釈もあるそうです。この解釈だと市場で生活のため働いている一般人が君子に対してとりあげられていることになります。
君子の道の完成の中身についてはもう一度論語を全部読み直す必要がありそうですね。

子張第十九の8は珍しくも小人についてだけの記述です。
「小人之過也必文。」
これもまたしても子夏の言葉です。
“小人が過ちをすると必ずつくり飾ってごまかそうとする。
ということです。
論語では学而第一の8
「過則勿憚改」
“過ちがあったら(面目などにこだわらず)、速やかに改めるのがよい。”
あるいは衛霊公第十五の30
「過而不改,是謂過矣。」
“過ちを犯してその過ちを改めないのが本当の過ちだ”
とあり、過つことがあっても非を認めて改めるのが君子だと考えてきます。対して言い訳やごまかしをするのが小人となります。ここでは小人のことについて述べて君子のあり方を説明していることになります。
しかし非というのが誰にとっても自明なら上の議論は分かりやすいですが、自明でない場合については非を認めないのは本人が非と思っていない、ということもあります。そもそも理非曲直をわきまえることが君子のはじまりになりそうですね。

次の子張第十九の9では、また子夏の言葉ですが
「君子有三變:望之儼然,即之也溫,聽其言也厲。」
とあります。
“君子は(人に接する時)三つの変化がある。遠くから見ると厳然としている。(威厳がある。)近くに接してみると温和であり、その言葉を聞くと厳正さがある。”
ということです

君子は威厳があって人に侮られることなく、しかし人には穏やかに接する、というのが論語における君子の人へのあるべき対応の基本です。

この子張第十九は子夏のことばが続きますが、子張第十九の10もまたしても子夏で、
「君子信而後勞其民,未信則以為厲己也;信而後諫,未信則以為謗己也
“君子は(人民に)信用されてから人民を使う。信用されていないで使うと自分達を苦しめると思うからだ。(君主に対して)信用されてから諫める。信用されていないと自分を誹謗すると思うからだ。”

となっています。ここで出てくる君子は官途についた人をさすのでしょう。人民に信用されたあとで使う、君主に信用されたあとで諫言すると言うのは良いですが、その信用を得るためにはどうしたらよいのかはよくわかりません。論語で繰り返し述べられる君子の振る舞いをしていればよいのでしょうか?




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2018年10月8日月曜日

論語(26); -君子と小人(xi)-

子張第十九の3に子夏の門人が子張に、友と交わる道を聞いた話が出てきます。すると子張は逆に君たちの先生である子夏はなんといったのかと聞きます。門人たちは、交わってよい人なら交わり、良くない人なら遠ざかるように、と言われましたと回答します。これは子夏が孔子から言われていたことなのでしょう。すでに自分の先生に聞いているのだからなぜ、子張にわざわざ訊いたのかの事情は分かりません。
そしてその意見に対しての子夏の意見は、

「異乎吾所聞:君子尊賢而容眾,嘉善而矜不能。我之大賢與,於人何所不容?我之不賢與,人將拒我,如之何其拒人也?
つまり、
“自分の(孔子から)聞いたのとは違う。君子は優れた人を尊敬するが、一般の人々も受け入れ、善い人を褒めつつも駄目な人にも同情する。自分がとてもすぐれているならどんな人も包容でないことがあろうか。こちらが劣っているなら向こうがこちらを拒むだろう。どうして(こちらから)人を拒むことがあろうか。”

ということになっています。これも子張が孔子から聞いたことなのでしょう。
学而第一の8において
「無友不如己者
すなわち、“己(おのれ)に如かざる者を友とすること無かれ、”とあります。子夏の言に対応します。
一方同じ学而第一の6においては
「汎愛眾,而親仁
すなわち、“ひろく衆を愛して仁に親しみ”とあります。子張の言に対応します。

完成した君子ではなく見識の定まらぬ時は子夏の説いた振る舞いがただしく、完成した君子ならば子張の聞いた振る舞いもできるようになる、というところなのかと考えます。

次の子張第十九の4には子夏の言葉として
「雖小道,必有可觀者焉;致遠恐泥,是以君子不為也。
すなわち
“農、医、卜のような各種の技芸(小道)でも必ず見るべきものがある。ただ君子の道を遠くまで進もうとするものには、それに拘泥して邪魔されることがあろう。だから君子はそれをしないのだ。”
となっているのです。君子の道を極めるには余計な事に目を移すな、というところでしょうか。
ここで小道は朱子の論語集注で農、圃、医、卜が挙がっているのでそれに従えば上記のような解釈になります。なお圃と農の区別を私は良く知りません。
朱子の挙げたもの(現代では卜は別としても)を排除すると、空疎な道徳論を唱える道学者風の人が偉いということになりそうです。

小道を茶道、華道、囲碁、将棋のような技芸事を考えれば、納得できそうですが、それらでさえそんなに排撃すれば堅苦しいだけの人物になるのではないでしょうか。





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