2017年9月3日日曜日

論語(12); -処世の心掛け(i)-

これからあと論語そのものについて書きます。

まず論語では一つのやり方を拳拳服膺していれば安心ということは勧めず、それだけでは不十分だ。何か整えるもの、制約するものが必要だ、という教えが出てきます。しかも制約するものと制約されるものが相互に依存しているような書き方で出てきます。
確かにものごとの二つの側面を知ってバランスをとるのは、中庸のとれた君子に値するふるまいができる、ということはあります。しかし自分はこうした主張のなかには(専門家はそうは言いませんが)、古代の些細なことで命を失う危険もある中での処世の術を感じます。

例えば為政第二の15に次の有名な言葉があります。
「學而不思則罔,思而不學則殆。」
本をよみ先生に教わっても自分で考えないならものごとははっきりしない。しかし自分で考えるだけでは(独断に陥って)危険である。
ということです。“学ぶ”ということと“思う”ということのどちらか一方に偏してはならないと説きます。
教わったことの意味を深く考えることもなく鵜呑みにしてしまう、ということはあり得ることと思います。しかし受動的ですからそれで“罔(クラ)シ”という状態になっても本人も自身の状態についてあまり自覚がなかったりします。もちろんこれでよい訳ではありませんが、これで本人にとって直ち危険を招くおそれは少ないと思います。
一方、自主的によく考える場合は、自分が考えるのですから自分の判断という自覚はあります。それで書物その他で多様な知見、人の意見を勉強しないまま自分の思い込みで発言、行動することになります。こちらの方は本当にわが身が“殆(アヤフ)シ”ということになりかねません。それでも大局的、あるいは長期的に正しい判断に基づく行動で難にあったなら、仕方がないでしょうが、考えが足りず愚かしい主張や行動で自分が破滅したら酷い事です。古代の処世としては(あるいは現代の処世でも)後段の「思而不學則殆」つまり、考えて結論を出すということは必ず「学ぶ」という制約を加えよ、という方が本当の注意なのだと感じます。

また学而第一の12
「禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
とあります。
礼は礼式すなわち礼儀にかなうマナーと思っております。和は他の人と調和しているということらしいです。
さて、この文の主旨を書いてみると次の通りです。
礼の運用では和が大事だ。和のよろしきを得て古の聖人のやりかたも美しかった。しかし人の和だけによっていくと、(礼式の実行が)うまく行われないことがある。礼で節度をあたえないとうまくいかない。
書き出しが礼の運用において和が必要だといっているのに対し、最後の方で、和だけだとうまくいかないから礼で節度を与えないといけない、というのは文の構成がおかしいです。この文章は変だと言った偉い先生がおられるかどうかは寡聞にして存じませんが、自分は変だとおもいます。

それはとにかくとして、大雑把に言えば和と礼はほどよく組み合わせよということです。しかし、礼式をきちんと行う、名分を正すというのは必要だけれども人に押し付けるようなことでは摩擦を招き、却ってうまくいかなくなるので、和という制約を加えよ、ということが一番大切な注意に感じます。あまりに和だけ大事にすると節度がなくなりいい加減に流れるので礼により整えるべしというのは、儒家的ではあるけれどつけたりのように思うのです。
摩擦を起こし人の恨みをかってしまったら、すぐには災難がこなくてもあとで思わぬしっぺ返しがあるともかぎらない、という処世の知恵が重要なのだと思います。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村