2017年7月31日月曜日

論語(10);史記孔子世家 第十七 -(ix)-

孔子は衛を去って魯に行きます。
史記によれば、衛の卿である孔文子が太叔(タイシュク)を攻める策を孔子に聞いたのです。
衛孔文子將攻太叔,問策於仲尼」
孔子は策略を言うことなく衛を去ります。史記の書きぶりだと孔文子の質問が気に入らなくて立ち退いたようにとれます。孔文子という人は孔子を知っていたはずです。なぜこんなことを孔子に相談してよい策略を教えてくれると思うでしょうか。ちょっと不思議です。
魯の哀公が政治の要諦を孔子に聞きます。これに対し
「政在選臣」
と孔子は答えます。つまり“人材の選択にあり”、ということです。これは尤もなことです。しかし、季康子が盗賊の横行を憂慮し孔子に(策を)聞いたところ
「苟子之不欲,雖賞之不竊」
と答えます。即ち、“いやしくもあなたが貪欲でなければ、(盗めば)賞を与えるといっても盗まないでしょう。”ということで、表面上の論理だけからいえばただのきれいごとで、下々がなんでも上にならって振る舞ってくれるものではありません。しかもこの言葉の実質の内容は季康子を非難しているだけです。そうなると盗賊横行対策を聞かれている実務家の対応としてはどうかと思います。

このあと孔子が昔の礼を調べ、事績をまとめたことが書かれています。「礼記」は今知られている限り孔子の著作とは言えないですが、孔子の纏めたものの影響が強いのだろうと思います。
また古代からの詩を編集し、音楽に合うようにしたとも言います。また易をこのんでよく勉強したようです。
孔子は詩書礼楽を自身でまとめ、カリスマ性があって多くの弟子(三千人といいます。)を集めこれに自身の学を伝えました。これにより、これを研究し、論じる学者が後世に輩出し、古代の礼、詩などが今に伝わった訳で、この面では孔子の功績は偉大であると言えると思います。

それに引き続いては孔子の人柄、日頃の立居振舞などについて書かれていますが、多くは論語に記述があることです。
人格者であったこと。我を押し通すことなく、利を求めず、教育にあたっては相手の意欲努力を重視し、父兄長老を敬い、地位の上の人に対しては中正、下の人には和楽をたもち、等々です。
現代の日本人の考え方からすれば窮屈にすぎ、長幼、上下が強調されすぎということですが、現代でも年長者、目上の人に対して無礼な振る舞いが推奨されているわけでもないです。その他の個人のあり方についての記述は現代でも尤もなことと思います。

しかし、考えるに人格者であるのも一つの才能で、凡人には我をはったり、私利私欲を求めたりというのを抑え込むのは容易でないですね。凡人と諦めてだらしなく過ごせば孔子に軽蔑されるだけでしょうが





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2017年7月22日土曜日

論語(9);史記孔子世家 第十七 -(viii)-

このあと史記ではしばらく主旨の良く理解できない散漫なエピソードが続きます。

そして楚が人をやって孔子を招聘しようとした時、陳が妨害して動きが取れなくなったことが出てきます。論語衛霊公第十五にも出てくる話で、子路がこの事態に陥ったことに怒りを覚え「君子もまた窮すること有るか。」と孔子に問います。すると孔子が「君子もとより窮す。小人窮すればここに濫す。」と回答します。君子だって困窮するが、小人が窮すれば取り乱してでたらめをする、というのは名回答です。人は得意絶頂な時と同様に困窮した時も本性が出てしまいます。困窮しても浅ましい立居振舞をしない、というのは人としてそうありたい姿ですね。

この話のあとは、孔子は自分が世に容れられないことを弟子に嘆いて意見を聞く記述があります。子路、子貢、顔回に対し
「《》云『匪兕匪虎,率彼曠野』。吾道非邪?吾何為於此?」
すなわち
“詩に、野牛でも虎でもないのになぜ荒野にさすらうのだろうか、とある。我が道がいけないのだろうか、われわれはどうしてここに困窮しているのだろうか、”
と問いかけます。
子路は、われわれはまだ仁でも知でもないのではないでしょうか、と答え、子貢は、先生(孔子)の道は大きすぎて天下の人は理解して容れられないのです。すこし小さくできないでしょうか、と答えます。顔回は、大きすぎて天下の人容れられないが、容れられないで却って君子であることがわかります、と言います。
仁や知の不足との意見には、孔子は仁者、知者といえども不遇な目に遇わされる例を挙げこれを退け、道が大きすぎるから世間に合わせて小さくしろ、という意見には自分が志を低くして世間に容れられるようにするのは不可、と退けます。そして顔回の見解に賛意を表します。
人の道を極めるという目標に忠実ならば、権門にお世辞をつかい、話を合わせ、世間の風潮に合わせて生きるのは駄目でしょうから、確かに顔回の見解の通り、ということになります。しかし、現実の社会、政治に関わろうとするならば、綺麗事ばかり言ってもいられないでしょう。儒者はとても両立し難いものを両立させようと苦しむ人ということになります。

孔子は結局楚の昭王に助けてもらい、楚に行きます。昭王は孔子を七百里の地を以て封じようとします。しかし子西というものが反対して実現せず、孔子は用いられませんでした。

その後孔子は楚から衛に行きます。ここで子路が衛で政治をするにはどのようなことをするか、と質問する話が出てきます。孔子の回答は
「必也正名乎」
すなわち
“名を正すことだ”

といいます。このくだりは論語の子路第十三に出てきます。名と実が合っていることを大事だとしたのです。理屈ではその通りなのでしょう。しかしこれも実際の政治においては曖昧にして対応する必要が出てくることはいつの世でも変わらないでしょう。逆に名と実があっていない、と正義を振りかざして政敵を非難することが汚いやり方であることもあると思います。





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2017年7月7日金曜日

論語(8);史記孔子世家 第十七 -(vii)-

衛を去った孔子はさすらって鄭(テイ)へ行き、さらに陳にいたります。このころ呉が越王句践(コウセン)を会稽で破っています。孔子は陳に三年暮らしますが、当時の陳は晋、楚、呉の侵略を受けていました。
この事態に対して孔子はなすすべもなく、魯に帰ろうかといいます。陳を去り、蒲(ホ)を通ります。この時たまたま公叔氏が蒲に拠って衛に背きます。そして蒲の人は孔子をとどめました。弟子の公良孺(コウリョウジュ)というものがあり、すさまじく闘い、結局蒲の人は衛にさえ行かなければ出してやる、と言います。孔子はそうすると約束して出してもらいます。
ところが孔子は衛へ行ってしまいます。弟子の子貢が約束に背いてよろしいのですか?と聞くと、
「要盟也,神不聽」
すなわち、強要された盟いだから神は聞き入れていない、と言います。そういう理屈もあろうか、とも思ったりもしますが、これでは苦し紛れに約束をしてしたことを、自分の勝手な判断で約束を破る口実にも見えますね。

しかし衛の霊公は孔子が来たと聞いて、喜んで出迎えます。孔子にはそれだけの人徳と名声があるのでしょう。
霊公は孔子に蒲を伐ってよいか聞きます。孔子はよろしい、と言います。その理由として(この部分を読んだだけではなぜだかわかりませんが)蒲の男子は衛の為に死のうという志があり、婦人は西河の地にたてこもろうとのぞんで、(衛に背いている)公叔に従おうとは思っていない、と言います。恰も孔子が蒲に悪意を持って、あそこは攻めて構わない、と言っているように見えます。

霊公は結局孔子を重く用いることはありませんでした。孔子は自分の抱負、能力に自信があったので、用いられない衛を見捨てます。

ここで仏肸(ヒッキツ)なる者が晋の中牟(チュウボウ)の長官になります。
この時、晋の卿である趙簡子が晋公を引き込んで范氏、中行氏(いずれも晋の卿)を攻め、中牟を撃ちます。この時仏肸は孔子を招聘します。
子路がこれに反対します。子路によれば仏肸は中牟を率いて晋に背いているのだそうです。
しかしその直前には仏肸が晋に背いたとは書いてありません。趙簡子が中牟を攻撃したとだけ書いてあるのです。

孔子は仏肸が晋に背いたことを認めて、それでも反論します。
“至堅のものはいくら磨いても薄くならないというではないか。至白のものはいくら黒土の中で染めても黒くならないというではないか。”
と言います。志が堅固なら悪には染まらないということでしょうか?しかし現に仏肸が悪をなしているならばこれを何らかの形で補佐すれば悪に加担することになると思うのですが
さらにつづけて
“私は苦い瓜ではない。どうして一か所にぶら下がって、食用にならないまま捨てておかれてよいだろうか?”
と言います。

彼は仕官して腕を揮いたかったのでしょう。しかしどうも相手選ばずで処世が下手という印象がぬぐえません。





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