2017年7月22日土曜日

論語(9);史記孔子世家 第十七 -(viii)-

このあと史記ではしばらく主旨の良く理解できない散漫なエピソードが続きます。

そして楚が人をやって孔子を招聘しようとした時、陳が妨害して動きが取れなくなったことが出てきます。論語衛霊公第十五にも出てくる話で、子路がこの事態に陥ったことに怒りを覚え「君子もまた窮すること有るか。」と孔子に問います。すると孔子が「君子もとより窮す。小人窮すればここに濫す。」と回答します。君子だって困窮するが、小人が窮すれば取り乱してでたらめをする、というのは名回答です。人は得意絶頂な時と同様に困窮した時も本性が出てしまいます。困窮しても浅ましい立居振舞をしない、というのは人としてそうありたい姿ですね。

この話のあとは、孔子は自分が世に容れられないことを弟子に嘆いて意見を聞く記述があります。子路、子貢、顔回に対し
「《》云『匪兕匪虎,率彼曠野』。吾道非邪?吾何為於此?」
すなわち
“詩に、野牛でも虎でもないのになぜ荒野にさすらうのだろうか、とある。我が道がいけないのだろうか、われわれはどうしてここに困窮しているのだろうか、”
と問いかけます。
子路は、われわれはまだ仁でも知でもないのではないでしょうか、と答え、子貢は、先生(孔子)の道は大きすぎて天下の人は理解して容れられないのです。すこし小さくできないでしょうか、と答えます。顔回は、大きすぎて天下の人容れられないが、容れられないで却って君子であることがわかります、と言います。
仁や知の不足との意見には、孔子は仁者、知者といえども不遇な目に遇わされる例を挙げこれを退け、道が大きすぎるから世間に合わせて小さくしろ、という意見には自分が志を低くして世間に容れられるようにするのは不可、と退けます。そして顔回の見解に賛意を表します。
人の道を極めるという目標に忠実ならば、権門にお世辞をつかい、話を合わせ、世間の風潮に合わせて生きるのは駄目でしょうから、確かに顔回の見解の通り、ということになります。しかし、現実の社会、政治に関わろうとするならば、綺麗事ばかり言ってもいられないでしょう。儒者はとても両立し難いものを両立させようと苦しむ人ということになります。

孔子は結局楚の昭王に助けてもらい、楚に行きます。昭王は孔子を七百里の地を以て封じようとします。しかし子西というものが反対して実現せず、孔子は用いられませんでした。

その後孔子は楚から衛に行きます。ここで子路が衛で政治をするにはどのようなことをするか、と質問する話が出てきます。孔子の回答は
「必也正名乎」
すなわち
“名を正すことだ”

といいます。このくだりは論語の子路第十三に出てきます。名と実が合っていることを大事だとしたのです。理屈ではその通りなのでしょう。しかしこれも実際の政治においては曖昧にして対応する必要が出てくることはいつの世でも変わらないでしょう。逆に名と実があっていない、と正義を振りかざして政敵を非難することが汚いやり方であることもあると思います。





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