2014年10月19日日曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(5)


史記では勾践の六代あとの無彊(ムキョウ)が楚を討って大敗し、殺される記述があります。結局越も後々には衰退することになります。

そしてそのあとは、越王勾践世家第十一という章であるのに、范蠡個人の話が続きます。
勾践は范蠡と国を分割して治めよう、とまで言ってくれますが、范蠡はこれを断り、斉に行き名前を鴟夷子皮(シイシヒ)と変え、そこで財を数十万金溜めたといいます。
どうやって溜めたのかといえば、「耕于海畔,苦身戮力」即ち“海の畔で耕作し、体を労し、力を尽くして”と書いてあるだけです。
海の近くで農作業を一所懸命がんばったというだけです。それで大金が溜まれば誰も苦労しません。素晴らしい理財の才があるのでしょう。

斉の人は范蠡が賢明だと知り、宰相にしたといいます。
幾ら金持ちになったといっても政治家として力があるとは限らないし、また斉王に献金したとも書いていません。唐突な話に見えます。彼が実は越にいた范蠡で、勾践をして呉を滅ぼさしめた賢人である、とかいう噂でもあったのではないかと思ってしまいます。

しかし、彼はいつまでも宰相をやっていません。「居家則致千金,居官則至卿相,此布衣之極也。久受尊名,不祥。」“家にあっては千金を致し、官にあっては卿相となっている。これは平民の極致だ。久しく高貴な名誉をうけるのは不吉だ。”と言って宰相の印璽を返し、財産を知友黨に分けて、高価な宝物だけを懐中にして去り、陶に行きます。そこが通商の要地だからそこで通商に関わろうというのです。

宰相として力を振うのも重要であるし、国の、あるいは人様の役に立てるが、いつまでも大金持ちの宰相をやっていれば、何も悪いことをしなくても自然に敵をつくり、人に陥れられる危険があることを知って身を引いたのでしょう。まさに人生の達人です。

財産を知友黨に分けて立ち退くのも、そういうことをしても全く暮らしに困らぬほどに財産を溜めたればこそ出来るのですが、単に気前がよいのではなく、その土地で儲けたものを残らず持ち去れば悪くいう人が必ず現れるし、讒訴される可能性もあったからでしょう。

彼は特別の才覚のある男と見えて、自ら朱公と称して、陶で農業、牧畜、商取引を行い大金持ちになります。そして天下の人々が彼を陶朱公を称揚します。






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2014年10月13日月曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(4)



呉王夫差の十四年に、呉王は兵を率いて北上し、黄地というところで諸侯と会盟したしました。中国に覇を唱え、周室を全うしようとしたのです。
この時、呉の国には老幼と太子が留守番している状態になりました。もし伍子胥が生きていたなら、越が窺っているのに大軍を率いて他国に行き、国を留守にするのは危険だと必ず忠告したことでしょう。

果たせるかな、このタイミングで勾践は范蠡に呉を討ってはどうかと謀ります。今度は范蠡は賛成します。

ここで奇妙に見える記述があります。「乃發習流二千人,教士四萬人,君子六千人,諸御千人,伐」です。野口・近藤・頼・吉田さんたちの訳では「習流二千人」は「水泳練達の兵二千人」とのことです。私の理解では揚子江は呉の中を流れていて、呉と越の国境ではありません。なんで水泳練達の兵が殊更必要なのでしょう。どうもよく理解できません。

この時の戦で呉を破り、呉の太子を捕虜にし、これを殺します。
呉は会盟の最中でしたので自国の敗戦をひた隠しにし、会盟を終えてから和平を請願します。
しかも、この会盟では呉王が長にならず、晋の定公が長になったのですから呉王は何をしたのだかわかりません。
さて越はまだ呉を滅ぼす力が不足と判断し、ここで一旦講和します。

この四年後(呉王夫差十八年)に越はまた呉に戦をしかけるのですが、この時呉はすでに斉や晋との戦いで兵を失い疲弊していたので、なすところなく敗れました。その後越は呉を二十年に討ち、二十一年に討ち、二十三年に完全に滅亡させます。
二十三年の時、呉王夫差は太夫の公孫雄を派遣して和平を請います。その内容は、以前に会稽で勾践を包囲したときに、あえて命にさからわず、君王(勾践)と和平を結んで(君王は)帰国することができた(夫差不敢逆命、得與君王成以歸。)。だから今回はこちらが許して貰いたい、というものでした。

勾践は同情して許そうとします。しかし范蠡はこれに反対します。「前は天が越を呉に与えたのに、呉が天命に逆らって取らなかったのです。今、天は呉を越に与えたのだから逆らってよいものでしょうか。」といい、厳しい条件を呉王に伝え自殺に追い込みました。

ここまでの范蠡の話は、有能な人であったことを示しているかも知れませんが、同等のアドバイザーはこの時代にも幾らもいたかも知れません。

ここから范蠡が優れた洞察力により身を処す話が出てきます。
勾践が覇者となり、諸侯は勾践を覇王と呼んだのですが、范蠡は越を去り斉へ行きます。そして彼が同僚であったあの種(ショウ)に書を送り
「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去?」
と言ってやりました。すなわち
“飛んでいる鳥が射つくされると、よい弓はしまわれ、敏捷な兎が死ぬと、猟犬は烹()られます。越王は頸(クビ)が長く、口が鳥のようにとがっています。艱難をともにすることはできますが、楽しみをともにすることはできません。あなたはなぜ去らないのですか。”
用がなくなった大手柄を立てた臣下、というのは時に鬱陶しく邪魔に見えることはあると思います。さりながらそこまで思いいたらず、自分の手柄のお蔭で居心地よく暮らせることを期待してそのまま居座ってしまうのが普通でしょう。思い切って離れて他国に行ってもそこで富貴で安全に暮らせるかどうかわかりませんし。

一方種は手紙をみて病気と称して朝廷にでるのを辞めました。この行動は中途半端で、結局反乱を計画している、と讒言され、王に自殺させられます。





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2014年10月5日日曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(3)



前回では越王勾践は胆を舐めて、恨みを忘れないようにした、と書きましたが、彼はもう少し広い観点に立って努力しています。即ち「身自耕作,夫人自織,食不加肉,衣不重采,折節下賢人,厚遇賓客,振貧弔死,與百姓同其勞。」(自ら耕作し、夫人はみずから機(ハタ)を織り、食物には肉を加えず、衣服は色を重ねず、節を屈して賢人にへりくだり、賓客を厚遇し、貧者を救済し、死者を弔い、一般人と労苦を共にした)とあります。
人心を掴むことに非常に意を用いたわけです。

一方二年後、人質の范蠡は帰国を許可され、戻ってきます。

そして敗戦から七年の努力ののち勾践は呉を討とうとします。ここで逢同というものが、まず外交によって呉を孤立させ、一方で呉を丁重に扱って油断させてから討つことを提案します。

さて一方呉王(夫差)は、越が何かを企んでいて危険である、と伍子胥が忠告したにも拘わらず、越を無視して、北方の斉を討ち、これを打ち破ります。そのあと、愚かなことに呉王は嚭の讒言を信じて知恵袋の伍子胥を自殺させてしまいます。なお、この時の記述は「與逢同共謀,讒之王」とあります。つまり逢同と共に之(伍子胥)を()王に讒言したというのです。この逢同は上に書いたように越王に呉を討つための策を述べている越の謀士です。嚭はまったくの売国奴なのです。
そしてバカなことに呉の政治は嚭に任せられることになります。そうなれば、王に諂い私欲を満たす輩がはびこる事になります。

さて伍子胥を殺して喜ぶのは越です。殺してから三年後、勾践は范蠡に、呉の政治も乱れたし、そろそろ呉を討ってもよいのではないかと聞くと、彼は、「まだその時機ではありません。」と答えます。

最初に勾践が呉の夫差に先制攻撃を仕掛けよう、とした時にも范蠡は反対しました。それなのに勾践は攻め込んで逆に大敗し、会稽山に囲まれています。

范蠡は兵事について自身があると言っています。冷静であり、自分勝手な希望的観測に基づいて行動を起こすような男ではありません。さすがに今度は勾践も范蠡の反対を押し切ってまで戦をしようとはしません。






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2014年10月4日土曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(2)



これからあと実際の敗戦処理は越の大夫の種(ショウ)の仕事で、種は講和の使者にたちます。そして勾践は臣僕、その妻は下婢になるという話を持ち出します。
呉に仕えていた伍子胥が講和はダメだと呉王に言い、種は一旦帰ります。越王はしかたなく破れかぶれの決戦しようとしますが、種はしぶとくて、呉の太宰(漢代なら天子の師です。最高級の官位の者でしょう。)の嚭()が貪欲で利によって誘えると説きます。

勾践は聞き入れて、種に美女、宝器を嚭に贈らせます。これにより嚭のとりなしで種は再び呉王にまみえ、勾践の降伏を受け入れてもらうように頼みます。また、嚭も口添えします。
伍子胥はあくまでも反対しますが、結局講和が成立してしまいます。

そして越王勾践は帰国します。
帰国した勾践は胆を側において坐臥するとき、飲食するときに嘗めたとあります。臥薪嘗胆といいますが、嘗胆は上に書いたように記述がありますが、史記のこの部分では薪の上に寝たとは書いてありません。
また余計なことかも知れませんが、胆は新しいのと頻繁に取り換えないと腐ってしまうのではないかと心配します。

勾践は国政を范蠡に任せようとしますが、范蠡は、「種は兵事について蠡に及ばないが、蠡は国家を鎮撫し人民を親しくなつかせることは種に及ばない」と言います。
そこで国政は種に任されます。

これは范蠡の偉いところです。敗戦国とは言え、君主が宰相として用いようというのにもしかしたら、競争相手であるかも知れない種を推薦するのです。結果的にその後、范蠡は大きな活躍をしますが、ここで遠慮してそれっきりうずもれてしまう可能性だってあったと思います。

その上、范蠡は講和の人質として柘稽(シャケイ)という者と呉に留まるのです。范蠡に国政を委ねるならば種が人質になったのではないでしょうか。

また、なんでこんな人質が有効なのでしょう。勾践の子供というのならわかりますが、いかに優秀とは言え臣下です。見捨てることも可能です。范蠡からみれば両国の間でなにか齟齬があれば忽ち殺されてしまう立場にみずからを置くのです。

自分を知り、確固たる考えがあり目先の動きでふらふらしない人間なのです。度胸もあったのでしょう。到底凡人の及ぶところではないと思います。






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