2014年10月5日日曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(3)



前回では越王勾践は胆を舐めて、恨みを忘れないようにした、と書きましたが、彼はもう少し広い観点に立って努力しています。即ち「身自耕作,夫人自織,食不加肉,衣不重采,折節下賢人,厚遇賓客,振貧弔死,與百姓同其勞。」(自ら耕作し、夫人はみずから機(ハタ)を織り、食物には肉を加えず、衣服は色を重ねず、節を屈して賢人にへりくだり、賓客を厚遇し、貧者を救済し、死者を弔い、一般人と労苦を共にした)とあります。
人心を掴むことに非常に意を用いたわけです。

一方二年後、人質の范蠡は帰国を許可され、戻ってきます。

そして敗戦から七年の努力ののち勾践は呉を討とうとします。ここで逢同というものが、まず外交によって呉を孤立させ、一方で呉を丁重に扱って油断させてから討つことを提案します。

さて一方呉王(夫差)は、越が何かを企んでいて危険である、と伍子胥が忠告したにも拘わらず、越を無視して、北方の斉を討ち、これを打ち破ります。そのあと、愚かなことに呉王は嚭の讒言を信じて知恵袋の伍子胥を自殺させてしまいます。なお、この時の記述は「與逢同共謀,讒之王」とあります。つまり逢同と共に之(伍子胥)を()王に讒言したというのです。この逢同は上に書いたように越王に呉を討つための策を述べている越の謀士です。嚭はまったくの売国奴なのです。
そしてバカなことに呉の政治は嚭に任せられることになります。そうなれば、王に諂い私欲を満たす輩がはびこる事になります。

さて伍子胥を殺して喜ぶのは越です。殺してから三年後、勾践は范蠡に、呉の政治も乱れたし、そろそろ呉を討ってもよいのではないかと聞くと、彼は、「まだその時機ではありません。」と答えます。

最初に勾践が呉の夫差に先制攻撃を仕掛けよう、とした時にも范蠡は反対しました。それなのに勾践は攻め込んで逆に大敗し、会稽山に囲まれています。

范蠡は兵事について自身があると言っています。冷静であり、自分勝手な希望的観測に基づいて行動を起こすような男ではありません。さすがに今度は勾践も范蠡の反対を押し切ってまで戦をしようとはしません。






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