2013年6月30日日曜日

漢書;王莽伝第六十九(2)



今度は王莽の我が子殺しの話です。

元帝の皇后が王莽の伯母だったのですが、成帝(つまり伯母の子)が元帝のあとに即位しました。
その成帝は愚かにも趙姉妹を寵愛しました。しかし、この姉妹は不生女でした。それだけならまだいいですが、この姉妹は成帝が他の女に産ませた子供を嫉妬のあまり帝に哀願して殺させていました。バカなことに成帝は許していたのです。その結果、成帝は結局跡継ぎがないまま死んでしまいました。この赤子殺しの悲惨な話は「外戚伝第六十七」に出ています。

次に立った哀帝は王氏とはつながりの無い人です。哀帝の母は丁氏、妻は傅氏で、これらの一族が力を振うことになります。もう一つ、あろうことか、哀帝の同性愛の相手である董賢の一族も勢力を伸ばしました。呆れたことに董賢自身が大司馬に任命されています。
よって漢は成帝時代から自ら潰れる下地を作っていたのです。

元帝の妻である王莽の伯母は、哀帝の時代に王氏を政治から引かせました。これは利口な措置です。王莽のスタンドプレーで彼の評判が上がるだけでも憎まれて陥れられ一族誅殺などの目に会いかねません。

従ってこの時期は王莽も引退していました。この時の次男の王獲の事件についての記述が王莽伝にあります。王獲が奴僕を殺したので王莽は痛切に彼を責めて自殺させたのです。

伝には奴僕を殺した理由、経緯の記述はありません。しかし二千年前の当時は、奴僕どころか一般人民の命でさえ軽んじられていました。誰か金持ちや名門の者が自分の家の奴僕を殺したところで罪にかかるとは思えません。
王獲の奴僕殺しに何か落ち度があったとしても、叱っておしまいでしょう。しかし次男を自殺に追い込んだことにより、王莽は奴僕一人のためにも息子を死なせた公平な措置をする人として名を挙げた訳です。
これがもし他人が自分の奴僕を殺した時にこれを責め、その人を自殺させたなら誰も王莽を褒めないどころか、逆に評判が悪くなるでしょう。
次男を自殺に追い込むことは、王莽は聖人並みに正しいことを行うという事を宣伝できる絶好の材料になりました。

王莽はさらに長男を殺します。

哀帝が在位六年で紀元前一年に亡くなると、平帝があとを継ぎます。年齢わずかに九歳です。母親は衛氏です。そして伯母の太后により王莽は大司馬に任命され、六年ぶりに政治表舞台に登場します。そして政敵の粛清を行います。

成帝が寵愛した趙姉妹のうち妹は、成帝の死亡時に薬の投与量を間違えた廉により自殺させられましたが、姉は生き延びていました。しかしこの姉は王莽により自殺に追い込まれました。哀帝関連では、妻の傳氏は自殺、董賢も自殺、丁氏、傳氏、董賢の親族は遠方に流されました。

あと警戒を要するのが平帝の母親の実家(外戚)の衛氏です。王莽は、衛氏は故郷の中山にとどまり、上京してはならぬ、としました。これは危険な措置です。平帝が成人したら衛氏を優遇しようとするかも知れません。その時は王莽の身に危険が迫ります。
王莽の長男の王宇はむしろ衛氏と恨まれることを恐れ、衛后から上書して上京を求めるように画策しました。しかし王莽は許可しません。
そこで王宇は呉章、妻の兄の呂寛らと相談しました。呉章に、王莽は鬼神を気にするので、血を王莽邸の門にふりかければ驚きおそれ、怪異の意を悟って衛氏に政権を渡す気になるかも知れぬ、と言われ、呂寛に王莽の門に血をかけてもらいました。しかしこの工作は失敗で、犯人が発覚しました。
王莽は思い切りこの件を政治的に利用しました。事件を衛氏の陰謀とし、衛氏一門を自殺させます。呂寛を徹底的に追及して、多くの政敵がみなこの事件に連座させられ、自殺に追い込まれました。「死ぬ者が百を以て数えられるほどであり、海内が震動した。」と書かれています。
ここで王宇は獄に繋がれ、毒を飲んで死にました。要するに毒を飲まされたのです。
この時王莽は、“宇が呂寛らのために道を誤り流言して衆を惑わしたので、これを誅しました。”と奏上し、太后よりお褒めの詔を賜っています。

これは政敵を誅滅させる絶好のチャンスで、王莽はこれを最大限に利用したのです。大事な息子さえ殺すのだから、衛氏その他の王莽の政敵達の陰謀は本当なのだと強く世間に印象づけられます。
息子殺しはここ一番のパフォーマンスになってくれました。
まことに酷薄非情な人であります。

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漢書;王莽伝第六十九(1)



王莽伝は小竹武夫さんの訳では上、中、下の三つに分かれています。とにかく王莽伝は長くて、訳註も膨大になり読みやすさの便宜を考えて訳者が分離したのでしょうか。

他の人に比べて伝記が長いからと言って班固に尊敬されている訳ではありません。班固は王莽の人柄を否定的に描いています。

王莽伝が長い原因の一つは美辞麗句の上奏文、詔、言説の引用が多い所為もあると思います。それらは古来の中国の習慣に倣い、ふんだんに過去の事例、過去の文献になぞらえ、自己の主張の根拠、正当性を述べています。
逆に、詔、奏上、言説などは主旨だけを書き、起こったことを記述して、強いて読みたい人は後ろにその言いぐさの全訳を付けたから参照せよ、としていただけたらとても読みやすくなると思います。

王莽は元帝の皇后の甥(皇后の弟の子供)ですから、潜在的には今を時めく王家の余禄にありつけるチャンスは十分です。但し彼の場合、彼の父(元后の弟)は列公にならないうちに早く死んでしまったので従兄弟たちが、親の七光りで車馬、音楽、女色を楽しんでいるのに、自分は孤児で貧乏という不遇な環境だったのです。
しかし、評判というのが大事な世の中で、彼の立場ならば上流社会の間でよい評判を得るように努力すれば、名声を上げるのは、門地、財産が無い全くの田舎の青年に比べたら比較にならないくらい有利です。

彼はかなりわざとらしいことをやりますが、不思議なことに偽善家と軽蔑されず、それが通ります。厚顔で押し通したらなんとかなったのです。

なにしろ本家の伯父の王鳳が亡くなった時は、看病のためずっと床に侍し、髪は乱れ、顔は垢だらけ幾月も着物を脱ぐことが無かったといいます。その結果、王鳳の遺言のお蔭で彼は黄門郎に任命され、さらに射声校尉に進むことができたとのことです。

一方では世間の評判を上げるために奇異な行動を恥ずかしげもやり、他方では政敵は罪に落として誅殺されるようにして出世しました。
「おのれに附き順う(したがう)者は抜擢したが、逆らい恨むものは誅滅した。」とありますから怖い人ですね。

どんなところにも人柄の卑しい人間はいるもので、王莽の意を汲んで、王莽が出世したり王莽の権力が拡大するようにと奏上し、表向きは王莽が遠慮するが、さらに押して、結局そうなり、奏上した自分も王莽の引きでうまい汁が吸える、と言うことが着々と実践されます。

陳崇という大司徒司直の地位にあった者が、張竦という博学の男と仲が良かったのですが、この男に頼んで王莽の功労徳沢をたたえる上奏文を代作してもらってこれを奏上しています。文庫本での訳でおよそ十ページにもわたっていかに王莽の功績が大きくて、王莽が立派な人間であるかを古代の偉人の事績と対応させて、たらたらと述べ、地位をあげよ、名誉を与えよと提案しています。ゴマすり文書の代表例です。
これは当時の摂政の太后(王氏。当時の平帝は子供)に提出されていますが、太后に読んで貰いたいのではなくて、むしろ王莽に読んでもらいたいから作られた文章です。

こんな歯の浮くような称賛(王莽に対してお世辞たらたら)の文章など出したら、普通なら却ってその上奏の心根を上司に見すかされ、蔑まれそうです。しかし王莽は、書いた人間を蔑むのでもなく、そいつに向かって注意することもありません。この陳崇の上奏文の場合は太后からみんなに下げ渡され、評議にかけられるのですが、別の事件が起こり、記述はそちらの方に行ってしまいます。
しかし、こうした文章が上奏される、ということが王莽の人柄を表しています。王莽が高潔な人なら、こんな上奏文書いたら、蔑まれて却って損してしまいます。

王莽とはそういう人だった、としか言いようがないですが、それ故に王莽に取り入って自己の出世を図ろうという人が沢山ついて来たし、王莽自身もそれによって首尾よく権力を握り出世をするという構造ができ上がったのでしょうか。

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2013年6月28日金曜日

漢書;公孫弘卜式児寛第二十八



公孫弘の伝記は、漢書では卜式および児寛と一緒に「公孫弘卜式児寛第二十八」に入っています。史記とかぶるのばかり扱っていますが、史記では公孫弘の伝記は「平津公・主父列伝第五十二」にはいっています。平津公というのが公孫弘です。

大器晩成というのでしょうか、四十過ぎになって「春秋」と「雑家の説」を勉強したそうです。もっとも「春秋の雑説」という書き方をしている人もあり、これが儒家、法家、墨家、名家、道家が入り混じった「雑家の学」なのだそうです。手に入る書物をこつこつと独学したのでしょうか。
貧しくて豚を買って暮らしていたというから、四十歳過ぎまで生活に追われていたのでしょうね。この紙のない時代に、お金がないのにそれでも学に志すというのは立派な心がけというものです。

武帝が即位した時、賢良・文学の科の士を招いたのですが、この時六十歳の公孫弘が選抜されました。当時の六十といえば大変な老人の筈です。しかしまもなく匈奴に使いして、その報告が武帝の気に入らず、無能と決めつけられたので辞職して国に帰ったとあります。

普通ならばあとは故郷で豚を飼って余生をおくって終わりです。
しかし六年後に彼は復活します。菑川国で公孫弘を推薦したのです。公孫弘は辞退したにも拘わらずです。もう六十六歳なのに、なにか人に期待させるものがあったのではないでしょうか。

ここで天子の下問に答案を書かされたのですが、その答案は席次は下位だったのです。しかし天覧に供したら武帝を喜ばせ一番とされたのです。史記にはこの下問の文章も、公孫弘の答も出ていませんが、漢書には長々と出ています。簡単にいえば下問は「上古の時代は風俗が正しく、人民の行いも正しく、瑞祥が現れてよかった。(今はそうでもない。)どうしたら今もそのようにできるか。天と人の関わりあう道は何に基づくか、吉凶の効験はどうしたら期することができるのか。」で、公孫弘の回答はおよそ以下のような事です。「上古は天子自身が率先し身を正し、民を遇するに信があったからです。能力によって官職につき、徳のあるものが進み、功のあるものが上に立つ、という人選の原理と、無用の言葉を去り、無用の器を作らせず、民の時を奪わないようにする、行政指針と、罰が罪に相当し、賞が賢労に対応させる賞罰の正当性があればうまく行きます。(そのあと礼、気、仁、義などについて美辞麗句をならべて議論しています。)」
質問も回答も空疎に見えるのですが、回答で建前を上手に飾って述べる文飾技術が儒者的な公孫弘の能力とみえます。
公孫弘はみてくれも立派に見えたようです。
あとは処世術が巧みで、天子(武帝)の前で直接自己主張をせず、天子に決めさせるように仕向けたり、奏上して裁可されない時に、公の場では争わず、あとで汲黯という者と一緒にこっそり天子のところへ行き、汲黯に提案を言わせて自分はそれを支持して天子に言う事を聞いてもらった、というのはよく知られています。臣下みんなで話がついていた事を、公に持ち出して天子が反対したら、あっという間に寝返ってしまった例もあるそうです。
しかし一方において、事績を見るに、天子にお世辞を使ってあきらかに不埒なあるいは愚かなことを勧めたようにはみえません。汲黯は公孫弘に不平があったかも知れませんが、硬骨漢の汲黯だって提案施策自体には賛成だったものを政策として推進したのです。
つまり主君が怒らないように、摩擦の無いように事を進めただけ、と言えます。

また、彼は個人の生活は質素で、権力を笠に着て私腹を肥やしたりはしませんでした。

これではしかし君主の信頼が厚くても、失政がなくても、私生活上の疵がなくても、どうも癪に触って憎む、という人もでてくるでしょうね。曲学阿世と罵る人が出たのも尤もな事です。司馬遷なども人間として高く評価していませんでした。実は陰険なことをしていたと謗っています。しかし、その彼でさえ公孫弘が私利私欲とは無縁の人であったことは認めています。

公孫弘は平和な時代の専制君主に仕える宰相としては有能だったのではないでしょうか。
争臣なるものは、裏表がなくて誠意があってかっこいいかも知れませんが、(時には命をかけて)天子と争ったという事実が残るだけで、施策は何も実行されなかったかも知れません。
公孫弘はその当時においては合理的である施策を、天子に呑みやすいように、そして自分に身の危険が及ばないように話をオブラートにつつみ、天子に呑ませて必要な施策を実行に移せたのではないでしょうか。

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2013年6月27日木曜日

漢書;張陳王周伝第十



史記では張良の伝記は列伝ではなく、留侯世家第二十五になっています。高等学校の頃、世家というのは伝記の中で特に諸侯の伝記だが、孔子だけ特別扱いで世家になっている、という説明を聞いたか、あるいは読んだかの記憶があります。
しかし列伝にも王や諸侯にあたる人があり、あまり自分にとってはその区分けは明瞭ではありませんでした。

実際に史記を読んで、ただちに思ったのは、世家という分類を列伝と分けて作る意味は、春秋戦国の頃の諸国の王侯家の歴史を立てるからであって、これは何代にもわたり国主が連綿と続いていて、これらについての記録は一つの国の歴史であり、一代記である列伝とは性質が異なるからだ、ということでした。だから、世家と列伝に分かれるのだ、と自分としては考えたのです。

しかしその理屈からいうと張良の留侯世家や孔子世家は、一代記ですからわざわざ世家というのは変で、留侯伝、孔子伝で十分です。しかも他にもそうした世家の例が幾つもあります。

Wikipediaによれば世家の意味は“世々家禄を受ける者”であるが、諸侯のみならず“時代を超えて祭祀を受ける者”についても世家を立てたのだ、という説明がなされています。
大雑把にいえば春秋戦国の各国の諸侯の歴史と列伝の中で特に偉い人の記録ということになる訳です。

漢書では世家はありません。これは漢に就いてだけ書く断代史だから世家がないのだ、という考え方をすれば、世家はやはり一つの国の歴史にふさわしいということになると思うのですが...
張良についての記述は陳平、王陵、周勃と一緒に一つの伝(張陳王周伝第十)に入っています。そして史記に伝記のある人のは、漢書は流用で済ませていますから内容は史記と同じです。

張良は、「籌を帷幄の内に運らし、勝を千里の外に決した」事でよく知られています。非常に知恵のある参謀です。
しかし、伝記の初めの方を見ると、張良の家は代々韓の国の宰相の家柄であったが、秦が韓を滅ぼしてしまったので、これを恨みに思い、全財産を傾けて刺客をもとめて仇を報いようとした、とあります。力のある男を雇って鉄槌で行幸してくる始皇帝にぶつけさせたが暗殺失敗で、追及されて逃げて下邳に隠れたそうです。結構血の気があります。下邳で任侠の徒として人殺しをした項伯を匿ったとあります。これもあまり名参謀のイメージではありませんね。

陳勝、呉広の乱がおきた時も若者を百余人を集めたそうです。そして沛公に会いこれに従属したのです。この辺の振る舞いは、後の黄巾の乱の時代の若かりし劉備とやや似ています。

沛公は度量が大きく張良のいう事をよく聞いたので、張良もすっかり感激して従ったようです。しかし、そのあと一度は出身国である韓の王を再び立てさせ、張良はそこの司徒となり、韓王とともに韓の地を攻略して数城を得たとあります。残念ながらその後、得た城は秦に取り返され、潁川で遊撃の任務にあたったようです。
結構忠義の人であり、初めから武将としてやる気がなかった訳でもないのかと思います。しかし頭がよく見通しが良すぎて、戦で無理乱暴をしないから武将としてはやや不向きだったのではないでしょうか。


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