2013年6月25日火曜日

漢書;韓彭英盧呉伝第四



漢書では韓信の伝は淮陰侯列伝第三十二に入っています。
一方、史記においては韓信盧綰列伝第三十三に入っています。漢書の内容は史記の内容をほぼ踏襲しています。

韓信の伝記で面白いのは韓信の股潜りでもなければ背水の陣の話ではなく、むしろ蒯通による天下三分の計(劉邦、項羽、韓信)の説得と、結局殺される運命に陥る部分と思っています。

なお、漢書は史記を写しているのですが、蒯通の説得部分は蒯通の伝を含む蒯伍江息夫第十五に移っています。

韓信は、”今なら自立して天下の三分の一を切り取れる、”という蒯通の説得を聞き入れませんでした。韓信は並みの人より勇気も能力もあった筈です。それにしてなお、すでに手に入れている物をすべて賭けて大博打に出るのは出来なかったのです。もし彼が劉備のような立場なら曹操に頭を下げてなんとかなる可能性はゼロだから、迷わず徹底的に頑張ったでしょう。
実は彼の立場では、そのままおとなしくしている事も謀反同様に大きなリスクテイクだと認識したくなかったのでしょうね。

一旦守りに入った韓信はその後はとても愚かに見えます。高祖に追われている鐘離眜と彼は仲がよくて庇っていました。しかるに韓信が謀反したと誣告され、彼が高祖に会うのを恐れていたら、鐘離眜を斬れば高祖は喜ぶだろうから安心して高祖に会えると誰かが言ったバカな意見を聞き入れ、鐘離眜を自殺させ首を持参しました。それでも高祖に捕えられてしまいました。
この所業は我々凡人から見ても愚かです。そんなことではどうにもならないし、すべての人の信用をなくしてしまいます。
この時点で誰も落ち目の彼のために図ろうとしてくれる人は誰もいなくなっているはずです。

最後に淮陰侯に位を落とされてすっかり拗ね者になって引きこもりになったのに、陳豨に謀反を持ちかけるなどは無謀というものです。自分から死にに行ったようなものです。

非常に才気も勇気もある筈の男が、実にみじめな運命をたどる話は史書にいくらも出てくるのですが、韓信の場合は蒯通の策を入れずに人生の守りに入ったところが、一つ目の失敗、身の安全を図ろうと、庇っていた鐘離眜を死なせたのは二つ目の失敗で、ここで彼は事実上死んでしまったのです。
本当に運命の神は滅ぼさんとするものを愚かにしますね。



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