先に書いた「漢書; 古今人表第八」は漢書の「表」ですが、今度は「列伝」に関する話です。
何かの古典の中で、丞相の丙吉は”人が道端で死んでいるのは平気で見逃したが、道を歩んできた牛が喘いでいるのを見て心配した”というような話が出て、丞相の心がけのあり方が立派であるようなことが書いてありました。
これはいかにも納得できない話で、丙吉が奇を衒って変な行動をしたのか、周囲の人が、丙吉の奇行を妙にありがたがって、そのように言い触らしたのかと思いました。
漢書の列伝で初めて事の経緯を知りました。
道端(清道と書いてあり、丞相の外出用に清掃された道とのこと)で起きたのは喧嘩騒ぎで、死傷者が道端に倒れていたのですがそれは無視しました。その後で牛追いの牛が舌を出して喘いでいたので気にして何里歩いて来たかを牛追いに尋ねたのです。
理由を聞かれた丙吉の回答は、道端の死傷者の件はその係りである長安令とか京兆尹が処理すべきもので、丞相は年度末に彼らの仕事を査定し、奏上するのが仕事である。一方、今の季節は春(少陽と書いてあります。)の農事にいそしむ時候で、むやみに熱くなる筈はない。牛が短い距離あるいて暑熱で喘ぐようであれば、季節はずれの陽気で、これは国にとって災いのもとになるから(天下を心配する丞相が)心配するのだ、という話でした。
それも理屈か、と一応納得しました。
丙吉は、巫蠱の事件(武帝を呪い殺そうとしたという話でありますが、実は冤罪事件で房太子(武帝の子)が死にました。)で、生まれて数か月で獄に繋がれていた房太子の孫で、武帝の曾孫である病已(へいい)を憐れんで、その養育を援助し、成長させました。のちにこの病已を帝位に推薦し、病已は宣帝として即位できました。丙吉はそれを誇らないどころか昔のことは一切口外しませんでした。よって宣帝は、丙吉に大恩があるのを知りませんでしたが、そのうちに機会があって知るところとなり、丙吉は諸侯から丞相にまでなります。
彼が宣帝に自分からは保護を与えたことを決して言わず、恩着せがましい態度をとらず、得意になって横暴な振る舞いをするようにならなかったのはなかなかの人物ですね。
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