2016年10月30日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (5)

当時活動した英雄の中に呂布という者がいます。曹操と戦って敗れ、劉備を頼りました。呂布は当時名が高かったから劉備も利用価値を考えて迎えたのかもしれませんが、これは甘かったのです。劉備が袁術を攻撃している間に呂布は下邳(カヒ)を襲撃して奪い取ってしまいます。
劉備は小沛にしばらくいましたが、また呂布に攻撃され、逃げて曹操に身を寄せます。

この時、曹操配下の程昱が進言します。
觀劉備、有雄才而甚得衆心、終不爲人下。不如早圖之」

今鷹さんと井波さんの訳によれば
“劉備を観察しますに、ずばぬけた才能をもっているうえにはなはだ人心をつかんでおります。最後まで人の下にいる人物ではありません。早く始末されるがよいと存じまが。”
となっています。

これに対し、曹操は、今は英雄を収攬する時機で、劉備一人を殺して天下の人身を失うのはよくない、として劉備を殺すことはしませんでした。程昱は人を見る目があったということです。しかしこの時の曹操の意見も一般的には愚かとは思えません。寧ろもっともな意見を言っています。

さらに、「魏書」に、当時の英雄の一人、袁紹が元大尉の楊彪、大長秋の梁紹、少府の孔融と仲が悪く、過去のことを持ち出して曹操に彼らを処刑するように仕向けた件での曹操の回答があります。曹操は、「今天下は乱れ、上下の信頼関係が失われ、人は自分のことばかり考え信頼されていないという懸念を持っている。漢の高祖が雍歯(ヨウシ)という仇敵をゆるしたので人心の安定を得たことを忘れてはならない、」として、これらの人々をこの時は処刑はしませんでした。

この限りでは曹操は心の広い立派な人だったようにも見えます。

しかし、上に挙がっていたうちの一人の楊彪なる人物は有能な当時の名士であり、高官に登った男ですが、袁術と縁組を結んでいました。その袁術が天子を僭称しました。一方、曹操は楊彪とは折り合いがよくなかったので袁術との姻戚関係を理由に楊彪を捕縛し、殺そうとしています。孔融、荀彧等は心配し、尋問担当の満寵(マンチョウ)に「説明を聞くにとどめ、いためつけることのないように、と頼んでいます。満寵は尋問はしましたが、罪が明確でないのに処刑しては人望を失う、と曹操に進言し、楊彪は危うく命が助かります。

一方助命嘆願した孔融(彼も上に書いたとおり袁紹が曹操に始末を唆した対象です。)の方は、建安13(208)に孫権の使者に対し太祖(曹操)誹謗の発言をした、という理由のもとに市場で斬られています。彼の小さな子供(男子が9歳、女子が7歳)も含め一族皆殺しにされました。

曹操は袁術に対してはもっともらしいことを言いながら、結局気に入らない相手には結構厳しいことをやっています。

「崔琰伝」の中に次のような記述があります。
「初、太祖性忌。有所不堪者、魯國孔融、南陽許攸、婁圭。皆以恃舊不虔、見誅。而琰最爲世所痛惜、至今寃之。」
井波さん、今鷹さんの訳によれば
“そのかみ、太祖は嫌悪の情が強い性格で、我慢できない相手がいた。魯国の孔融、南陽の許攸・婁圭(ロウケイ)はみな、昔の関係をたのんで不遜な態度をとったことから処刑された。ところが崔琰はもっとも強く愛惜され、現在に至っても彼の死は無実だとされている。”
ということです。

劉備についてはどうでしょう。蜀書の先主伝(劉備の伝記)の末尾にある評の出だしは
「先主之、弘毅寬厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉
とあり、井波さんの訳では
“先主(劉備)は度量が広くて意思が強く心が大きく親切であって、人物を見分け士人を待遇した。思うに漢の高祖の面影があり、英雄の器であった”
ということで、その人柄が褒められています。
そして評の末尾には
「然、折而不撓、終不爲下者。抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。」
とあります。
井波さんの訳によれば
“しかしながら敗れても屈服せず、最後まで(曹操の)臣下にならなかったのはそもそも彼(曹操)の度量からいって絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、単に利を競うためというのではなく、同時に害悪を回避するためでもあった。“
ということです。

劉備は、程昱のみならず周囲の人にも並外れた男と思われる人物であり、自身も大きすぎる人物故に彼(曹操)の下ではいずれ邪魔にされるようになる、と直感で分かったということなのでしょう。
曹操は人の好悪が激しく、権力を振り回して気に入らない人間を始末するという面があったのです。人柄という意味では劉備に劣っていたのではないでしょうか。





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2016年10月22日土曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (4)

曹操は家財を散じて義兵を集め董卓を滅ぼそうと計画します。董卓はこの時都にいて天下を制圧した形ですが、悪逆無道なことをやっており、征伐されても当然と思われました。
中平六年(189)12月に己吾(キゴ)において旗揚げします。しかし翌初平元年(190)正月に各所の群雄が董卓討伐軍を起こし、袁紹が盟主になります。曹操もこれに参画します。

董卓は挙兵を聞くと洛陽を焼き払い、天子を長安に移します。これから先の討伐軍が情けないです。董卓軍が強力なので、諸将はあちこちに駐屯して、誰も先頭に立って進みません。
曹操はこの状況に怒り、兵を進めますが、董卓配下の徐栄に敗れ、流れ矢にあたって敢え無く敗走します。しかし、徐栄は曹操の軍が少ないのによく戦ったのをみて、酸棗は容易には攻めきれないと判断し、兵を引き連れて帰還してくれます。曹操は気概がある男であることがわかります。そしてここではその努力の甲斐も多少なりともあった訳です。

しかし、曹操が酸棗にもどると、諸将は毎日酒盛りの大会議という体たらく。曹操は積極策を提案するも、みんなはいうことを聞きません。
軍事に素人の私が見ても大軍を集めて、毎日酒盛りで撃って出ないなら人や馬の糧秣がたちまち足りなくなるのではないかと思ってしまいます。略奪でもしていたのでしょうか。
結局この袁紹を盟主とする董卓討伐軍は竜頭蛇尾に終わりました。

その後、正史では、曹操が劉虞擁立に反対したこと、当時の司徒王允が呂布と共謀して董卓を殺したこと、劉岱が黄巾の賊に敗れて死んだこと、袁術と袁紹が仲たがいをしたこと、などが書かれています。

そして曹操が昔、父の曹崇が陶謙により殺害されたことの復讐に出た話が出てきます。なお、「世語」での記述では、陶謙が兵を出して曹崇の家族全員を死に至らしめたというの事のようです。
一方、韋曜(イヨウ)の「呉書」では、陶謙は部下に曹崇を護送させたのですが、あろうことか、この部下が曹崇を殺害し、財物を奪って逃げてしまった、という話になっています。曹操はその責任はすべて陶謙にあり、ということで陶謙を討伐したわけです。

曹操軍は陶謙討伐にあたり、通過した地域では多数の者を虐殺した、とあります。責任は陶謙にあるのに、陶謙を殺すことはできず、罪もない住民を虐殺したのですから、ただの残虐行為です。董卓と選ぶところがありません。

その後は呂布との闘いがしばらくあります。勝ち負けありますが決着はつきません。

建安元年(196)曹操は天子(献帝)を迎えようとします。諸将のうちには疑念を抱くものもあったようです。「諸將或疑。」と書かれています。何が疑念かが書いてありませんが、天子を頂くのが本当に得かどうかだと思います。結局荀彧と程昱が勧めたので曹洪に迎えに行かせます。

思想的傾向から推し量れば、荀彧は漢帝を迎えて誠心誠意漢の再興を図ろうとしたように思われますし、程昱は曹操が天下に号令するのに都合の良い切り札を握れると考えていたと思われます。
しからば曹操はどうなのでしょうか。三国志演義の曹操なら、間違いなく程昱の構想でしょうが、正史でははっきりしません。
しかしこの時迎えに行った曹洪は董承らに阻まれて不成功でした。

その後まもなく曹操は障害を排除し洛陽に赴き、帝を許(曹操の本拠地)に迎え入れることに成功しました。





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