曹操は家財を散じて義兵を集め董卓を滅ぼそうと計画します。董卓はこの時都にいて天下を制圧した形ですが、悪逆無道なことをやっており、征伐されても当然と思われました。
中平六年(189年)12月に己吾(キゴ)において旗揚げします。しかし翌初平元年(190年)正月に各所の群雄が董卓討伐軍を起こし、袁紹が盟主になります。曹操もこれに参画します。
董卓は挙兵を聞くと洛陽を焼き払い、天子を長安に移します。これから先の討伐軍が情けないです。董卓軍が強力なので、諸将はあちこちに駐屯して、誰も先頭に立って進みません。
曹操はこの状況に怒り、兵を進めますが、董卓配下の徐栄に敗れ、流れ矢にあたって敢え無く敗走します。しかし、徐栄は曹操の軍が少ないのによく戦ったのをみて、酸棗は容易には攻めきれないと判断し、兵を引き連れて帰還してくれます。曹操は気概がある男であることがわかります。そしてここではその努力の甲斐も多少なりともあった訳です。
しかし、曹操が酸棗にもどると、諸将は毎日酒盛りの大会議という体たらく。曹操は積極策を提案するも、みんなはいうことを聞きません。
軍事に素人の私が見ても大軍を集めて、毎日酒盛りで撃って出ないなら人や馬の糧秣がたちまち足りなくなるのではないかと思ってしまいます。略奪でもしていたのでしょうか。
結局この袁紹を盟主とする董卓討伐軍は竜頭蛇尾に終わりました。
その後、正史では、曹操が劉虞擁立に反対したこと、当時の司徒王允が呂布と共謀して董卓を殺したこと、劉岱が黄巾の賊に敗れて死んだこと、袁術と袁紹が仲たがいをしたこと、などが書かれています。
そして曹操が昔、父の曹崇が陶謙により殺害されたことの復讐に出た話が出てきます。なお、「世語」での記述では、陶謙が兵を出して曹崇の家族全員を死に至らしめたというの事のようです。
一方、韋曜(イヨウ)の「呉書」では、陶謙は部下に曹崇を護送させたのですが、あろうことか、この部下が曹崇を殺害し、財物を奪って逃げてしまった、という話になっています。曹操はその責任はすべて陶謙にあり、ということで陶謙を討伐したわけです。
曹操軍は陶謙討伐にあたり、通過した地域では多数の者を虐殺した、とあります。責任は陶謙にあるのに、陶謙を殺すことはできず、罪もない住民を虐殺したのですから、ただの残虐行為です。董卓と選ぶところがありません。
その後は呂布との闘いがしばらくあります。勝ち負けありますが決着はつきません。
建安元年(196年)曹操は天子(献帝)を迎えようとします。諸将のうちには疑念を抱くものもあったようです。「諸將或疑。」と書かれています。何が疑念かが書いてありませんが、天子を頂くのが本当に得かどうかだと思います。結局荀彧と程昱が勧めたので曹洪に迎えに行かせます。
思想的傾向から推し量れば、荀彧は漢帝を迎えて誠心誠意漢の再興を図ろうとしたように思われますし、程昱は曹操が天下に号令するのに都合の良い切り札を握れると考えていたと思われます。
しからば曹操はどうなのでしょうか。三国志演義の曹操なら、間違いなく程昱の構想でしょうが、正史でははっきりしません。
しかしこの時迎えに行った曹洪は董承らに阻まれて不成功でした。
その後まもなく曹操は障害を排除し洛陽に赴き、帝を許(曹操の本拠地)に迎え入れることに成功しました。
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