2016年12月12日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (8)

建安五年(200)八月に袁紹は前進し、合戦して曹操に対して優位にたちます。さらに袁紹は官渡にまで進出してきます。この時、曹操軍は食糧が足りなくなって、曹操はいったん許に帰ろうかと荀彧に相談します。
しかし、荀彧から今敵を制圧しなければ付け込まれる、と撤退に反対されます。ここで荀彧は、”曹操は武勇に優れ、英明でもあるし、天子を奉っているから正義もあるし、必ず成功します。”という説き方をしています。
すくなくも、荀彧は天子を奉戴する正義を信じていたのでしょう。しかし曹操は建前としてでもあまりそのような主張はしていなかったのではないでしょうか。

さて袁紹のところから逃げてきた許攸という者が曹操に、袁紹軍の糧秣を貯蔵している烏巣の淳于瓊らの軍の攻撃を進言します。曹操はその策を聞き入れ、本陣は曹洪にまかせ、曹操みずから攻撃にでます。

これに対し袁紹の方は、糧秣輸送軍の支援に力を尽くすよりも、むしろ曹操の本営を攻撃して撃破すれば糧秣輸送軍の方は自然になんとかなる、という提案にのり、曹洪が守る本営の攻撃に張郃、高覧を派遣する一方、烏巣には不十分な数の騎兵を応援にだします。しかし、糧秣輸送軍は打ち破られ、淳于瓊は死にます。一方曹操の本陣に向かった部隊は淳于瓊が敗けたことを知って曹操に降伏してしまいます。
これで袁紹軍は糧秣をすべて失い、本陣を攻めた張郃と高覧の兵を失って惨敗となります。

正史の記述の流れでは、曹操は正しい進言を採用し、袁紹は間違った意見を採った、ということになります。たしかに結果を見ればそのように見えます。
しかし曹操の果断さと軍事的センスの良さが成功をもたらした面があると思います。
曹操が袁紹の立場で曹洪の守る本営を大軍集中で攻撃したらこれを落とせたかもしれないし、あるいは逆に袁紹が曹操の立場なら、中途半端な烏巣攻撃で淳于瓊の軍に糧秣を守り切られてしまったかも知れないと思えるのです。
曹操は最終的には官渡の戦いに大勝し、許にもどりました。

一方、袁紹は敗れて這う這うの体で黄河を渡って逃れ、帰還しました。それからふたたび離散した兵を収容し、背いた諸郡県を平定しました。
しかし結局建安七年(202年)に病死します。

このあと袁紹の子供たち(長男の袁譚、三男の袁尚)は兄弟であらそって、曹操はこれに乗じて、旧袁紹の支配地はすべて取り込むことに成功します。





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2016年12月4日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (7)

これから曹操は袁紹と対峙し、白馬の戦い、官渡の戦い、と曹操の中国北方の覇権を決定的にする戦いがあります。

建安五年(200)袁紹は河南侵攻の意思を固め、劉備征伐に曹操が出ている隙に黄河南岸の白馬を攻撃します。劉備征伐から戻った曹操は荀攸の進言に従い、まず白馬から数km離れた延津(エンシン)から楽進と于禁に渡河して背後をつく様子を見せて袁紹軍を分散させ、それから、張遼と関羽(当時曹操に降伏して配下にいた。)に白馬を攻撃させます。
この時関羽は敵中深く侵入し、敵将の顔良を斬っています。三国志演技にも有名なエピソードとして出てきます。これにより白馬の包囲は解けます。
一方渡河した于禁と楽進は袁紹の守備陣を焼き払います。

曹操は白馬の民を移住させ、黄河に沿って西方に向かいます。袁紹はこれを追って渡河し延津の南まで来ます。曹操は兵を南阪の下に陣営を築きます。

この時白馬の(曹操軍の)輜重部隊が移動してきました。諸将は袁紹軍の騎兵を恐れ、引き返すことを進言しますが、荀攸は輜重部隊を、袁紹軍を誘う囮にする策を進言し、曹操軍はとどまります。袁紹は配下の騎兵の将、文醜と劉備に曹操の攻撃をさせます。しかし輜重部隊を襲う事で文醜軍の陣形が乱れ、曹操軍はこれを散々に打ち破ることに成功します。文醜はここで戦死します。

これらの記録を見るかぎり、袁紹軍は曹操軍に翻弄され続けてています。曹操は優秀な人材の進言をよくきき、吟味して、優れた大局観のもとで兵を動かしていたように見えます。

一方袁紹の方は、かつて果断に宦官を征伐し、董卓征伐の諸侯同盟軍を起こしたり、公孫瓚に冀州を攻めさせて韓馥を怯えさせ、韓馥に冀州を献上させたり、さらに公孫瓚を滅ぼして、結局冀州、青州、幽州、幷州にまたがる大勢力を築き上げたりした男の面影はなぜかありません。
曹操という大才のある人物には通じなかったのでしょうか。

さて、関羽は顔良を斬ったあと間もなく、劉備のもとに逃げ帰ります。関羽は武将として優れ、曹操も恩をかけたはずですが、劉備との絆は断ちがたいものがあったのです。関羽は人情に厚い男だったのですが、逆に見れば劉備の人を引き付ける力はおどろくべきものと思います。
劉備は当時袁紹の客将で大した勢力もありませんでした。劉備についてなかなかの人材で、人望も能力もある、とそこそこの評価もありましたが、のちに帝位に就くとまでになるとは誰も予想していたわけではありません。
一方、曹操は当時すでに天下を争うほどの勢力でした。しかも関羽は曹操のもとですでに大きな手柄を立てて能力を認められています。曹操のもとにいれば武将として出世の可能性は大いにあったと思います。
劉備の下に付いていていては出世して天下に名を馳せるどころか、敗戦に巻き込まれ、命を落とす可能性も大いにあったのです。

関羽は何か曹操にある部下として仕えるには危険な部分を感じ取っていたのでしょうか。あるいは曹操は結局漢室を扶け盛り立てる本当の忠義の人ではない、と見限ったのでしょうか。


さて、この戦乱の時代に曹操が北の強敵と戦っているのですから、その留守に曹操の本拠地である許を襲撃を考える人間がいてもよさそうです。
しかしその覇気と能力のあった呉の孫策は許を襲撃する計画は立てましたが、刺客に殺害されました。
劉表は構想力も覇気もない男で荊州に居座ったまま動きません。
黄巾の賊くずれの劉辟という者が袁紹に味方し、許の近郊を荒らしました。袁紹は劉備に命じて劉辟を援助させます。しかしこれはいかにも力不足の遊撃隊でした。ここでも袁紹は中途半端でした。曹操は曹仁を派遣して劉辟、劉備の軍を打ち破らせます。
しかし、全体としては曹操は背後を襲われないということについては運がよかったといえましょう。





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