2017年12月25日月曜日

論語(20); -君子と小人(v)-

子路第十三の3に君子への言及があります。ただしこの文は正名(名分を正しくする)、すなわち名と実を一致させることを重視する儒家の政治思想を説くのが主眼の文です。君子のあり方を説くことが主題ではありません。

さて子路第十三の23に有名な言があります。すなわち
「君子和而不同,小人同而不和。
“君子は道理に従って和合するが、付和雷同はしない。小人は雷同するが、道理に従って和合することはない。”
というのです。
左伝の昭公二十年に、斉の大夫晏平仲が斉公に向かって和と同を説明している話が出てきています。狩りから帰って斉公が梁丘拠と自分は和した、と言ったのに対し、晏平仲はそれは和ではなく同です、と言います。和というのは羹(あつもの)のようなもので材料の味の調和したものです。君臣でも同じで、君主が可と言っても否の部分があれば臣下は否の部分を減らして可をなさしめ、逆に君が否と言っても可があれば臣下は可を献じた上で否の部分を止めます。梁丘拠は君主が可と言ったら可、否と言ったら否であります。
これはなかなかわかりやすい例えと言えます。

子路第十三の25になかなか含蓄のある言葉があります。
「君子易事而難說也:說之不以道,不說也;及其使人也,器之。小人難事而易說也:說之雖不以道,說也;及其使人也,求備焉。
これは
“君子は部下として仕えるのは易しいが喜ばせるのは難しい。喜ばせるに道義によって喜ばせなければならないし、一方君子は人を使うには器量に応じてやるからである。小人には仕えにくいが喜ばすのはやさしい。喜ばせるに正しい道によらなくても(へつらいや利益で)よいが、小人が人を使うにあたっては部下に完璧を求められるからだ。”
これは人を使う立場の人は心すべき言葉と思います。

子路第十三の26
「君子泰而不驕,小人驕而不泰。
とあり、また述而第七の36
「君子坦蕩蕩,小人長戚戚。
とあります。
前者は
“君子はおちついていて威張らない。小人は威張って落ち着きがない。”
であり、後者は
“君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもこせこせとしている。”
小人は名利にこだわり齷齪とすごしている。一旦自分に都合がよくなるとわずかなことにも尊大ぶる。これに対し君子は名利にこだわらずのびのびと過ごしている。謙虚さがあるので無暗に威張らない。ということなのでしょう。
威張るとか威張らないとかを別にしても、わずかな名利にこだわり、齷齪過ごすことは明らかに愚かであることは分かっているのですが、人というものはなかなか悟りきれず焦ったり苦しんだりするものですね。

そうした愚かな考えを離れたら君子の資格があるのでしょうが、君子たりえるのは大変だとわかります。





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2017年12月23日土曜日

論語(19); -君子と小人(iv)-

顔淵第十二の4には次の問答があります。
「司馬牛問君子。子曰:「君子不憂不懼。」曰:「不憂不懼,斯謂之君子已乎?」子曰:「內省不疚,夫何憂何懼?」
“司馬牛が君子のことを尋ねた。孔子は「心配せず、おそれもしない者である」と答えました。「心配せず、おそれもしないなら君子と言えますか。」と重ねて司馬牛が問うと、孔子は「心に反省してやましくなければ何を心配したりおそれたりするのか。」と答えました。”
これは司馬牛ならずとも、君子とはそんなことなのか、という印象を持ちます。朱子の論語集注に「向魋作亂。牛常憂懼。故夫子告之以此。」と説明があります。これはどうも司馬牛の兄(桓魋以下3人)が孔子に害を為そうとしたり、あるいは宋で亂を為そうとしていた。末弟の司馬牛がこれを気に病んでびくびくしていることが背景にあって、孔子が励ますために自分さえやましいことがなければよいのだと言った、という事情があるようです。

その次の顔淵第十二の5には次のような記述があります。
「司馬牛憂曰:「人皆有兄弟,我獨亡。」死生有命,富貴在天。君子敬而無失,與人恭而有禮。四海之內,皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也?」
の文があります。すなわち
“司馬牛が憂いて、「世人は皆兄弟があるのに、わたしだけにはない。」といったのに対し、子夏が、「私は先生(孔子)こういうことを聞いている。『死生も富貴も天命がある。』と。 (兄が悪人であってもどうにもならないことだ) 君子は身を持するに敬を以てして過失のないようにし、人との交際丁寧にして礼にあうようにすれば、世界中の人はみな兄弟となる。兄弟のないことをどうして気に掛けることがあろう。」
最後の言葉は、司馬牛に兄弟のことでくよくよするな、といっている意味があるようです。

ここは君子というものはこのように振る舞って落ち着いていればよいのだ、と言っていると思います。しかし一般論としてはそういうことなのでしょうが、司馬牛は兄が乱をなそうとして失敗して逃げているので、連座で処刑の危険もあるのですからこれで慰められたのかどうか

顔淵第十二の16
「君子成人之美,不成人之惡。小人反是。
すなわち
“君子は他人の善事、成功を成就するように願い、他人の悪いところはそうならないようにするものだ。小人はその反対だ。”
とあります。人のすぐれた点を認め、支援するのは難しいですね。そして一方、人の悪事を摘発して騒いでいるだけでは君子とはいえない、というのは大いに尤もなことと思います。

顔淵第十二の19の中に
「君子之德風,小人之德草。草上之風,必偃。
すなわち
“上にたつ君子の説くは風のようなもの、下にある人民の徳は草のようなもので、草は風にあたれば靡き伏すものです。”
です。しかしこの君子と小人は身分の上下のようです。
この句は有名になり、あとでは広く引用されたらしいですが、今時はあまり流行らないですね。

顔淵第十二の24では
「曾子曰:「君子以文會友,以友輔仁。」
とあります。
“君子は学問(詩書礼楽)をすることで友を集め、その友との交際を通じて仁徳の涵養の援助とする。”

これだと友達付き合いも堅苦しいものですね。





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2017年11月28日火曜日

論語(18); -君子と小人(iii)-

里仁第四の24には
「君子欲訥於言,而敏於行」
とあります。“君子は口を重くして実践では敏捷でありたい。”ということです。でも自分ひとりで修業しているならよいですが、世の中に出て、訥弁ではやりたいことの主旨、具体的に何をしてもらいたいかを人に理解してもらえるのでしょうか。必ずしも全面的には賛同し難いです。

雍也第六の13には
「子謂子夏曰:「女為君子儒,無為小人儒。」
“子夏に向かって言われた。「お前は君子としての学者になれ。小人の学者にならないように」”
儒は儒学者ではなく、学者を指すのだそうです。君子である学者になれ、と言っています。学者必ずしも君子ではなく、単なる物知りではなく、世を救うことを目指せと言っていると解釈されています。小人学者はわが身一つ心掛けのよい暮らしをする、といったことを考えているようです。子貢がやや単なる物知り学者の傾向があったから注意したのだと言われています。
しかし、これは君子の儒については論語を解釈した学者がいっているだけで、書かれていることだけで言えばここには君子の説明はありません。

雍也第六の18では
「質勝文則野,文勝質則史。文質彬彬,然後君子。」
という表現があります。
“質朴さが文化的要素よりも強ければ野人であるし、文飾、教養が質朴より強ければ文書係である。質朴さと文飾、教養がそろったのが君子だ。”
もっともに聞こえますが、文飾に長けた質朴な人というのは矛盾概念にも見えます。

雍也第六の27には
「君子博學於文,約之以禮,亦可以弗畔矣夫!」
とあります。
“君子は広く学問をし、教養を豊かにするとともに、礼の実践で引き締めていくのなら道に背かないであろう。”
ということで「博文約礼」の語はここからきているのだそうです。一所懸命学問するのは一応わかるとして、約礼(約之以禮)の方はどうしたらよいのかよくわかりません。しっかり勉強してあとは礼に悖る事のないようにすればよい、というのも変ですね。

子罕第九の14
「陋,如之何!……君子居之,何陋之有?
のやり取りがあります。
“(東方未開の地へでも行こうかといった孔子に対し、ある人が)野蛮で下卑ですがどうしますか、というと孔子は、君子がそこに住めばなんのむさくるしいことがあろうか。(と答えました。)”
ということです。自分(君子)が行って感化すれば風俗はよくなる、ということでしょうか。これは君子の説明とは言えません。

郷党第十の6に“君子は紺や赤茶色では襟や袖口の縁取りをしない、”の語がありますが、この場合の君子は、孔子で、孔子はそういう礼儀にかなわない服装をしない、という話に過ぎないようです。
先進第十一の1において“後進(今の人)の礼楽に対する態度は君子である”と言っていますが、ここは褒めている訳ではなく、紳士的で華美だといっているだけです。そしてここでは孔子は周の時代の素朴さに従おうと言っています。

先進第十一の21に君子はでてきますが、内容は、言論のもっともらしさを信じてこれに賛成すると、本当の君子なのかうわべだけの人かわからない、ということです。君子の内容の説明にはなっていませんが、むしろうわべの言論のもっともらしさだけでは言っている人の人格はわからない、というのは確かにその通りで気をつけるべきでしょう。ただしこうしたことへの対応が難しいですね。





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2017年11月19日日曜日

論語(17); -君子と小人(ii)-

以下引き続き君子を説明したもの、小人と比べて説明したものをピックアップします。前回の(i)で述べましたようにそう卓見あるいは警句を見いだせないとおもいます。

為政第二の13に君子について問われた孔子の答えとして
「先行其言,而後從之」
の言があります。すなわち
“言おうとすることをまず実行してから、あとからものをいうことだ”
偉そうなことを言っただけで実行が伴わないのは醜態ということになります。これは尤もなことですが、月並みな言にも見えます。
質問した子貢が口が達者だったので言に行いが伴わず、孔子はそれを注意しているのだそうです。

為政第二の14
「君子周而不比,小人比而不周」
とあります。
“君子は広く親しんで一部に阿ることはないが、小人は(利害や感情に制せられ)一部で阿り合って広く親しまない。
この小人で思い浮かべるのはむしろ女性の交わりでは、と思ったりします。感情に制せられ仲のよいものだけで徒党を組みやすいと思います。

里仁第四の5では
「富與貴是人之所欲也,不以其道得之,不處也;貧與賤是人之所惡也,不以其道得之,不去也。君子去仁,惡乎成名?君子無終食之間違仁,造次必於是,顛沛必於是
とあります。これは
“富と貴い身分はだれでも望む。しかし相当な方法で得たのでなければそこには君子は安んじない。貧乏と賤しい身分は誰でも嫌がる。しかし相当な振る舞いでをしているにもかかわらず陥ったならば君子はそれを避けない。君子は仁から離れたらどこで名誉を全うできよう。君子は食事の間でも仁から離れることはなく、危急の場合でも、ひっくり返った場合でも仁にとどまる。”
という意味です。
これは精神基調としては正しいのでしょうが、建前を述べているだけようにも見えてしまいます。

里仁第四の10には
「君子之於天下也,無適也,無莫也,義之與比。
とあります。すなわち
“君子が天下のことに対するには固執するところもなく断じてこうしない、と頑張ることもない。ただ義に従うだけだ。”
しかし、義に従おうとするならば、固執したり、これは駄目と頑張る必要があるのではないでしょうか?

里仁第四の11には
「君子懷德,小人懷土;君子懷刑,小人懷惠。
とあります。
“君子は道徳を思うが、小人は(安住の)土地を思う。君子は儀型礼法を思うが小人は温計を得ようと思う。”
これは月並みな比較にしか見えません。

里仁第四の16には
「君子於義,小人於利
とあります。
“君子は正義に明るく、小人は利益にあかるい。”

君子と小人の区別の良い例としてこの句は有名らしいですが、正義とわが身の利益の間での身の処し方はそんなにくっきりと分かれるものでなく、人により、場合により君子より、あるいは小人よりにふるまうのではないでしょうか。





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2017年11月9日木曜日

論語(16); -君子と小人(i)-

論語では君子はどういうものかがしばしば述べられ、またよく小人と対比されています。わざわざ君子と断わらずとも、論語に書かれている、かくあるべし、という教えは君子たる者の為すべき振る舞いなのでしょうが、「君子」という言葉が殊更出てくるところを見ると、そんなに特別よいことを言っているようにも見えなかったりします。

学而第一の1にいきなり君子が出てきます。
「人不知而不慍,不亦君子乎?」
すなわち
“人が自分のことをわかってくれなくても不平不満に思わない。まことの君子ではないか。”
というのです。ここで”人”とは自分を登用してくれる君主、王侯なのだそうです。
これは論語の冒頭の文にあるので良く知られているの句の筈です。しかしこれは普通の人にとってはあまり関係ない話に見えるのではないでしょうか。自分の学問、抱負を君主が知って用いてくれないのを怨まないというのはそれほど立派な徳なのでしょうか。自分の境遇について、誰を怨んでも仕方がないと思うのは珍しくないのではないでしょうか。

また学而第一の14
「君子食無求飽,居無求安,敏於事而慎於言,就有道而正焉」
“君子は腹いっぱい食べることを求めず、安楽な家に住むことを求めない。為すべきことを速やかに為し、言葉を慎み、道義を身に着けた先輩に親しんでおのれの過ちを正していける”
と言っています。そしてこの文の最期に「可謂好學也已」(学を好むと言えるだろう)とくっついています。君子の説明をしたあとの末尾で”学を好むということができる”、というのは文の構成上ちょっと変です。
さて、その前段のはじめの部分は、贅沢な暮らしを求めない、といっています。これも腹一杯食べるとか、安楽な家に住むとかはレベルは問題ですが、凡人にとってもそう難しい要求ではないし、そうした心の持ち方も特別の人格者とも思えません
後段の「敏於事而慎於言,就有道而正焉」はこれまで述べてきたような普通の処世の術に見えます。

為政第二の12
「君子不器」
とあります。
“君子は(一芸一技ができるだけの)器であってはならない”、というのです。一役一職をなすだけで他のことに役立たない器物ではだめだ、というのはその通りかもしれませんが、これは漠然としていて器を超えてどうなっていればよいのかはっきりわかりません。
また、一役一職でもでもきちんとできれば上等という見方だってできます。
君子とはスペシャリストではだめで、有能なジェネラリストであるべきだ、というスタンスは今の人間がみれば学の考え方が古い所為なのではないかと思ってしまいます。





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2017年10月24日火曜日

論語(16); -処世の心掛け(v)-

泰伯第八の14
「不在其位,不謀其政」
とあります。
“その地位にいるのでなければ、その政務に口出しすべきではない。”
です。ここで”政”は政治向きに限らず”職”に同じです。
まったく同じ句が憲問第十四の27にあり、さらに憲問第十四の28に曾子の言葉として
「君子思不出其位」
すなわち
“君子はその職分以上のことは考えない。”
があります。
自分の管掌していること、部下のことなら指示したり、意見を述べたりは当たり前ですが、そうでないこと、といえば同僚、上司の職分です。人のことに口を出さない、とは確かに礼にかなうことです。のみならずにこれは禍を避ける意味があると思います。要らざる口出しを同僚、上司にして、不愉快な思いをさせては人間関係によいことはありません。俗世で人に立ち混じって仕事をするならば、こうした注意は必要と思います。
しかしこの態度は、一方においては理不尽なことがあっても黙っている、という保身の臭いがしないでもありません。これが気になるところです。

ただしこの言葉(君子思不出其位)易経の艮( 上下とも 卦に対応)の象伝に出てくることばです。易経によれば艮は静止した山で、静止し安定した山の姿にのっとって君子はこころを落ち着け、自分の地位を超えた欲心を起こさないように心掛ける、ということだそうです。この考えだと礼の道に従う、という大義は見えず、本当にただの処世訓になってしまいますね。

郷党第十には孔子の立居振舞の記述がいろいろあります。
すなわち具体的に動作について細心に気をつかっている様子が記述されています。たとえば郷党第十の3では
君召使擯,色勃如也,足躩如也。揖所與立,左右手。衣前後,襜如也。趨進,翼如也。賓退,必復命曰:「賓不顧矣。」
“主君のお召しで接待役を仰せつかった時は顔つきは緊張し、足取りはきざみ足で進んだ。一緒に接待役をされている係に挨拶するため両手を組み合わせ左を向き右を向いて揖礼をするが、その時衣の前後が良くそろって乱れない。小走りに走る時は肘を張って両袖が翼のように広がって美しい。賓客が退出すると、主君に復命して「お客様振り返らず(満足して)お帰りになりました」と言った。”
 となっています。

当時はお客は会見が滞りなく終わって出る時は振り返らないのが礼だったそうです。
また当時は諸侯同士の付き合い、儀礼訪問が頻繁にあり、大切な行事であったとのことですが、そういう場で礼議にはずれることを決してせず、粗相もなく安心して接待役を任せられる、という孔子の様子が述べられています。
この記述を見れば外交相手に対して礼を尽くすのみならす、主君、同僚に対しても細心の注意を払っていたことが分かります。その細心の注意が害悪、恥辱を避けるのに必要なことなのだと読む方は感じます。

郷党第十の4においても孔子の王宮に行った時の振る舞いについて、王宮の門を入るとき恐れ謹んではいる。主君の道である門の中央には立たない、敷居は踏まない、(門内の)君主の立たれるところを通る時は、(そこに主君がおられなくても)顔つきは緊張され、足も小刻みとなり、その言葉遣いは舌足らずのようであった。・・・といった調子です。当時としては踏むべき礼なのでしょうが現代人からみれば遠慮しすぎに見えますが。

もっとも孔子の立場から言えば八佾第三の18にあるごとく、
事君盡禮,人以為諂也
すなわち
“主君に仕えて礼を尽くすと、人はそれを諂いだという。”
ということになり、あくまでも自分が大切に思っている礼を守るためのものということになります。

たしかに孔子の態度にはそういう礼を尽くすということを大切にするという側面もあるとは思います。





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2017年10月14日土曜日

論語(15); -処世の心掛け(iv)-

処世の術として読んであまり納得できない例もあります。

泰伯第八の13
「危邦不入,亂邦不居。天下有道則見,無道則隱。」
という記述があります。
“危うい国には行かず、乱れた国にはとどまらない。天下に道があれば表立って活動する。道のない時は隠れる。”
ということです。
処世の方法として勧めているのは、要するに“君子危うきに近寄らず”です。しかし乱れた、道のない国であるとどこから判定するかといえば、不当な冷遇にあい、左遷され、弾圧される人がいる、あるいは人民が満足に食べられない、刑罰が正しく行われない、重税である、などということなのでしょう。そしてそれは無能な君主がいること、あるいは君側の奸ともいうべき者の専横などが原因なのでしょう。

そういう状況で、不幸な目に遇う人々を見捨てて自分で畑でもやって静かに隠棲した方がよいというのでしょうか。

自分の振る舞いを注意して人の恨みを買うようなことをしない、敵を作らないというのは処世の道として理解できますが、安全第一で、人あるいは人々の難儀を見捨てることを奨励するとなると納得できません。

更に続きとして、
「邦有道,貧且賤焉,恥也;邦無道,富且貴焉,恥也。」
と書いてあります。
“国に道があるのに貧乏で、かつ身分が賤しいのは恥であるし、国に道がないのに金持ちで高い地位にあるのも恥である。”
これに問題を感じます。
この部分の後段はそうかも知れません。正義の通らず、悪人が勝手なことをしているような状況で、高位・高禄で安穏に暮らしているようでは良心に欠けるというものです。

前段はどうでしょうか。国に道義があって良い世の中なのに貧乏だったり、出世できなかったら恥ずかしいと思うべきなのでしょうか。

国がよく治まり道義が通っている状況なら、君主がしっかりしており、高位高官にはまともな人が就いて政務を処理しているのでしょう。そこで蓄えた学問を生かすために世にでて志を遂げよう、と活動を目指すのまではよいですが、それから先、本当に世に出られるかどうかは天命なのではないでしょうか。顔淵第十二の5の中で「富貴在天」、即ち富貴は天命で人力ではどうにもならぬものだ、と書かれていますが、こう考える方が真っ当だと思います。





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2017年10月8日日曜日

論語(14); -処世の心掛け(iii)-

公冶長第五の2に
「子謂南容,「邦有道,不廢;邦無道,免於刑戮。」以其兄之子妻之。」
とあります。
“孔子が南容の人物を評して「国に道のあるときはきっと用いられ、道がない時に刑死することはない。」と言って、兄の娘を嫁にやった。”
南容は、先進第十一の6において「三復白圭」していたから、即ち白圭の詩“白き玉のきずはなお磨くべし。言葉のきずはつくろいもならず。”の句を何度も繰り返していたから、兄の子をめあわせた、とあります。南容は言葉を慎しむ人間であったのです。
だからよく治まる世では重厚な人として用いられ、無道な人が権力を握っても人から怨まれることがないから、そう簡単に死刑にはならない、と孔子に判断された訳です。
慎重な言動が尊ばれるのはここでも勧められています。宮仕えで簡単に命を落とす危険がある時代ですから道徳的であるほかに、無駄に命を落とさないための知恵でもあるように思われます。

さらに公冶長第五の5に
或曰:雍也,仁而不佞。」子曰:「焉用佞?禦人以口給,屢憎於人。不知其仁,焉用佞?」
とあります。
“ある人が雍は仁者だが弁才がないと評した。孔子が「どうして弁がたつ必要があろうか。口達者で人にまくしたてれば人に憎まれがちなものだ。彼が仁者かどうかは知らないが、どうして弁が立つ必要があろう。”
とあります。これはよく言えば佞人を嫌ったということでしょうが、口が達者ということは人に憎まれ、陥れられる元をつくるかも知れないのです。用心深く振る舞えという意味も込められているのではないでしょうか。

泰伯第八の4
「動容貌,斯遠暴慢矣;正顏色,斯近信矣;出辭氣,斯遠鄙倍矣。」
という記述があります。
わが身の振る舞いである容貌を動かすにあたっては、荘重にして礼にかなえば他人の加える粗暴わがままから遠ざかることができる。顔つきに誠意をあらわして礼を失わないと人から欺かれないことになる。言葉遣いが礼から外れなければ、いやしい道理に背いた人の言葉を遠ざけることができる。
上記の解釈は古註で、新註では、全部の主体は自分で、荘重にすれば粗暴でなくなる、顔つきに誠意あれば、誠実に近づく、のように取ります。
しかし、論語の説く方向性からいえば、礼を尽くし、人から無用な侮りを受けず、人から無用の恨み、憎しみをかわない、ということですから、古註の方がしっくりします。

これらのような言説はこの後の方にもさらにあるのですが、そうでもない教えもあります。

公冶長第五の21
「子曰、甯武子邦有道則知,邦無道則愚。其知可及也,其愚不可及也。」
とあります。
(衛の) 甯武子(ネイブシ)は国に道が行われていれば知恵者の働きを表した。国に道の行われない時は馬鹿者のように見えた。智者ぶりは真似ができるが、馬鹿者ぶりは真似ができない。“
甯武子は暗愚である成公をよく助けて地位を守るようにしています。よってここで馬鹿者のように振る舞うというのは、韜晦して災難に会わないようにする、というのではなく、一身の危急不利を顧みず、愚者のごとくして責任を果たしたとのことです。それでもついに彼は害に会わなかったのです。
そういうことができるなら、その方が口を噤んで身を引いてしまうよりずっとよいでしょう。身を引くのは悪を見逃すのですから。とは言え、手を出してもどうにもならず、結果はわが身を害しただけで悪は除けず、というのはもっと惨めなので、どこまでできるかの明察力次第なのでしょうか。

しかし論語の勧める身の処し方は、概ね徒に敵を作って害にあっては徳を広げることもできないからよく身を慎む、ということだと思います。





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2017年10月1日日曜日

論語(13); -処世の心掛け(ii)-

学而第一の13
「恭近於禮,遠恥辱也;因不失其親,亦可宗也」
とあります。
“恭(うやうやしくすること)が礼に外れていなければ恥辱を受けない。親しむべき人を取り違えないならその人を尊敬してよい。”
というのも、処世のありかたとして尤もなことと思います。ただし日本語にしてみると少し変な文章です。前段は振る舞いに関する注意であり、後段は親しむ人を誤らない人を尊敬してよいといっていますので対応関係が悪いです。

馬鹿丁寧なだけではかえって礼にはずれ、人に侮られます。人から侮りを受けることをしてはならない、ということは論語の中でしばしば説かれます。
人を見る目がなくて人を選ばずに交際しては思わぬ災難に会うことがありえます。

為政第二の18の冒頭は興味深いです。
「子張學干祿」
です。子張が碌を得るにはどうしたらよいか聞いているのです。どうしたら俸給を貰える地位に就けるかとはきわめて世俗的な質問です。これに対する孔子の回答は、就職活動成功法ではなくて、むしろ地位を得たあとのふるまいに当てはまりそうなことを言っています。その回答は
多聞闕疑,慎言其餘,則寡尤;多見闕殆,慎行其餘,則寡悔。言寡尤,行寡悔,祿在其中矣」
です。
“沢山聞いて疑わしいところを除いて確かなことを慎重に言えば、過ちは少なくなる。多くのことを見て危ういことは避け、確かなことを慎重に行えば後悔は少なくなる。このようにふるまえば碌は自然に得られるものだ。”
です。内容は結局言動を慎重にせよ、ということになります。主君に疎んじられたり、上司、同僚から軽蔑されたり憎まれたりしないように、ということに尽きると思います。別に人としての振る舞いとして悪いことではないですが

里仁第四の12
「放於利而行,多怨」
とあります。自分の利益本位で行動すると人から怨まれることが多い、ということです。これは当たり前のことを一言述べたように見えますが、宮仕えの処世の重要な注意と読めないこともありません。即ち一時のわが身の私利私欲だけ考えて行動すると、人から怨まれて却って痛い目に遇いますよ、と聞こえます。
しかし動機はどうあれそれで私利私欲より正義、公正を目指せば人としてはそれでよいですが。

里仁第四の26
「事君數,斯辱矣,朋友數,斯疏矣
“君に仕えてあまりしつこくすると(うるさくすると)却って君から恥辱を受けることになる。友と交わってあまりしつこくすると却って疎んじ嫌われる。”

ここでは恥辱を受けるようなことを避けるべし、という論語の教えが出てきます。人とのつきあいの間合いを注意せよという教えで、尤もなことではあります。





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2017年9月3日日曜日

論語(12); -処世の心掛け(i)-

これからあと論語そのものについて書きます。

まず論語では一つのやり方を拳拳服膺していれば安心ということは勧めず、それだけでは不十分だ。何か整えるもの、制約するものが必要だ、という教えが出てきます。しかも制約するものと制約されるものが相互に依存しているような書き方で出てきます。
確かにものごとの二つの側面を知ってバランスをとるのは、中庸のとれた君子に値するふるまいができる、ということはあります。しかし自分はこうした主張のなかには(専門家はそうは言いませんが)、古代の些細なことで命を失う危険もある中での処世の術を感じます。

例えば為政第二の15に次の有名な言葉があります。
「學而不思則罔,思而不學則殆。」
本をよみ先生に教わっても自分で考えないならものごとははっきりしない。しかし自分で考えるだけでは(独断に陥って)危険である。
ということです。“学ぶ”ということと“思う”ということのどちらか一方に偏してはならないと説きます。
教わったことの意味を深く考えることもなく鵜呑みにしてしまう、ということはあり得ることと思います。しかし受動的ですからそれで“罔(クラ)シ”という状態になっても本人も自身の状態についてあまり自覚がなかったりします。もちろんこれでよい訳ではありませんが、これで本人にとって直ち危険を招くおそれは少ないと思います。
一方、自主的によく考える場合は、自分が考えるのですから自分の判断という自覚はあります。それで書物その他で多様な知見、人の意見を勉強しないまま自分の思い込みで発言、行動することになります。こちらの方は本当にわが身が“殆(アヤフ)シ”ということになりかねません。それでも大局的、あるいは長期的に正しい判断に基づく行動で難にあったなら、仕方がないでしょうが、考えが足りず愚かしい主張や行動で自分が破滅したら酷い事です。古代の処世としては(あるいは現代の処世でも)後段の「思而不學則殆」つまり、考えて結論を出すということは必ず「学ぶ」という制約を加えよ、という方が本当の注意なのだと感じます。

また学而第一の12
「禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。」
とあります。
礼は礼式すなわち礼儀にかなうマナーと思っております。和は他の人と調和しているということらしいです。
さて、この文の主旨を書いてみると次の通りです。
礼の運用では和が大事だ。和のよろしきを得て古の聖人のやりかたも美しかった。しかし人の和だけによっていくと、(礼式の実行が)うまく行われないことがある。礼で節度をあたえないとうまくいかない。
書き出しが礼の運用において和が必要だといっているのに対し、最後の方で、和だけだとうまくいかないから礼で節度を与えないといけない、というのは文の構成がおかしいです。この文章は変だと言った偉い先生がおられるかどうかは寡聞にして存じませんが、自分は変だとおもいます。

それはとにかくとして、大雑把に言えば和と礼はほどよく組み合わせよということです。しかし、礼式をきちんと行う、名分を正すというのは必要だけれども人に押し付けるようなことでは摩擦を招き、却ってうまくいかなくなるので、和という制約を加えよ、ということが一番大切な注意に感じます。あまりに和だけ大事にすると節度がなくなりいい加減に流れるので礼により整えるべしというのは、儒家的ではあるけれどつけたりのように思うのです。
摩擦を起こし人の恨みをかってしまったら、すぐには災難がこなくてもあとで思わぬしっぺ返しがあるともかぎらない、という処世の知恵が重要なのだと思います。





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2017年8月13日日曜日

論語(11);史記孔子世家 第十七 -(x)-

史記の孔子世家の最後の方で、孔子は史官の記録によって「春秋」を作った、とあります。魯の隠公から哀公十四年までの十二公の間の記述とされます。簡略な編年体の歴史で記した人(孔子)の意見を述べない形になっています。
しかし、史記の記述によれば、呉や楚の君主が自ら王と名のったのに、「春秋」では本来の爵位通り子()と書き、また諸侯が周の天子を召喚した会について、これをはばかり天子が河陽に狩りをした、と書いた、とあります。それなりに意見は籠められている訳です。将来「春秋」の義が行われるならば、史書になんと書かれるかを考えれば人に対する戒めになろう、ということです。この書き方は史書の作者としてはどうかと思いますが、筋を通すという点においては立派ともいえるかも知れません。

一方この春秋についての孔子の配慮を書いている司馬遷は、孔子を高く評価しています。しかし自分の史書(史記)では孔子のようなあるべき理想に沿う記述ではなく、実質(あるいは実力)を重んじています。帝ではない覇者の項羽の本紀を立て、漢の高祖の正当なる後継者である恵帝は名前だけの天子で支配者でなかったとして、呂公の本紀を立てています。本来あるべき姿ではないと司馬遷も思っているのかも知れませんが、扱いは実情に合わせた記述になっています。

そして孔子は病にかかり魯の哀公の十六年四月に73歳で亡くなります。
哀公が弔辞を送り、孔子なき今、法として従うべきものもない、と嘆きます。
しかし、孔子の弟子の子貢はこれに対して冷たいことを言います。哀公は孔子が生きている間には孔子を用いることができず、死んでから弔辞を賜ったが、これは礼ではない、また弔辞の中で自分のことを余といっているが、これは天子の自称で諸侯は使えないので名分が立たない、と言うのです。
これはいかにも堅物の儒者の言いぐさに聞こえます。哀公は孔子を尊敬しているから弔辞を贈ったのだし、過去において孔子に政治を問うたりもしていました。また、史記(あるいは論語)には孔子の上司や同僚への態度、公宮廷での立居振る舞いについての記述があり、孔子はまったく用いられず野にくすぶっていた訳ではありません。また余と自称したのが良くないといいますが、このころの諸侯は、おそらくは古来の礼式では天子の自称だったのを用いるようになっていたので、哀公もそれを使っただけで、これは時代の流れで仕方がないことだったのではないかと思います。

孔子は泗水のほとりに葬られますが、弟子はみな三年の喪に服します。子貢だけは六年の喪に服したそうです。さらに弟子や魯の人で家を冢(チョウ)の側に移すものが百余家もあり、そこが孔里と命名されたそうです。そのくらい尊敬され、人望があったということです。

こうしてみると孔子は個人としては徳の高い人であり、人望のある人だったといえましょう。そしてその説くところの道も個人の道徳としては立派なものだったと思います。人はどうあれ自分は自分の仁の道を追求するのだ、という生き方も個人の道としては成立すると思います。
しかし人の集まりである社会や国家を御するとなると、当たり前ですが、孔子のような人ばかりはいません。仮ににそれぞれが善意の人の場合であっても、それらの人をあつめて孔子の道に従わせればうまくいくとものでもありません。

孔子は、深い洞察のもとに人として正しく生きる道を説き、それは二千五百年後の今日でも聞くべきところの多い教えですが、それは個人の努力の範囲で個人の周囲に対して通用する話で、これを政治に適用するのはそもそも無理だったのでしょうか。そもそも無理だった正しい政治のあり方を実行できなかった故に格子は不満であったかも知れません。

それゆえに徒に古代のことを理想化し、不平を抱き、用いてくれるとことを求めて諸国を流浪したようにいう人もありますが、当時の人望をみても、後世における影響をみても、彼は人生の大成功者だと思います。





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2017年7月31日月曜日

論語(10);史記孔子世家 第十七 -(ix)-

孔子は衛を去って魯に行きます。
史記によれば、衛の卿である孔文子が太叔(タイシュク)を攻める策を孔子に聞いたのです。
衛孔文子將攻太叔,問策於仲尼」
孔子は策略を言うことなく衛を去ります。史記の書きぶりだと孔文子の質問が気に入らなくて立ち退いたようにとれます。孔文子という人は孔子を知っていたはずです。なぜこんなことを孔子に相談してよい策略を教えてくれると思うでしょうか。ちょっと不思議です。
魯の哀公が政治の要諦を孔子に聞きます。これに対し
「政在選臣」
と孔子は答えます。つまり“人材の選択にあり”、ということです。これは尤もなことです。しかし、季康子が盗賊の横行を憂慮し孔子に(策を)聞いたところ
「苟子之不欲,雖賞之不竊」
と答えます。即ち、“いやしくもあなたが貪欲でなければ、(盗めば)賞を与えるといっても盗まないでしょう。”ということで、表面上の論理だけからいえばただのきれいごとで、下々がなんでも上にならって振る舞ってくれるものではありません。しかもこの言葉の実質の内容は季康子を非難しているだけです。そうなると盗賊横行対策を聞かれている実務家の対応としてはどうかと思います。

このあと孔子が昔の礼を調べ、事績をまとめたことが書かれています。「礼記」は今知られている限り孔子の著作とは言えないですが、孔子の纏めたものの影響が強いのだろうと思います。
また古代からの詩を編集し、音楽に合うようにしたとも言います。また易をこのんでよく勉強したようです。
孔子は詩書礼楽を自身でまとめ、カリスマ性があって多くの弟子(三千人といいます。)を集めこれに自身の学を伝えました。これにより、これを研究し、論じる学者が後世に輩出し、古代の礼、詩などが今に伝わった訳で、この面では孔子の功績は偉大であると言えると思います。

それに引き続いては孔子の人柄、日頃の立居振舞などについて書かれていますが、多くは論語に記述があることです。
人格者であったこと。我を押し通すことなく、利を求めず、教育にあたっては相手の意欲努力を重視し、父兄長老を敬い、地位の上の人に対しては中正、下の人には和楽をたもち、等々です。
現代の日本人の考え方からすれば窮屈にすぎ、長幼、上下が強調されすぎということですが、現代でも年長者、目上の人に対して無礼な振る舞いが推奨されているわけでもないです。その他の個人のあり方についての記述は現代でも尤もなことと思います。

しかし、考えるに人格者であるのも一つの才能で、凡人には我をはったり、私利私欲を求めたりというのを抑え込むのは容易でないですね。凡人と諦めてだらしなく過ごせば孔子に軽蔑されるだけでしょうが





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2017年7月22日土曜日

論語(9);史記孔子世家 第十七 -(viii)-

このあと史記ではしばらく主旨の良く理解できない散漫なエピソードが続きます。

そして楚が人をやって孔子を招聘しようとした時、陳が妨害して動きが取れなくなったことが出てきます。論語衛霊公第十五にも出てくる話で、子路がこの事態に陥ったことに怒りを覚え「君子もまた窮すること有るか。」と孔子に問います。すると孔子が「君子もとより窮す。小人窮すればここに濫す。」と回答します。君子だって困窮するが、小人が窮すれば取り乱してでたらめをする、というのは名回答です。人は得意絶頂な時と同様に困窮した時も本性が出てしまいます。困窮しても浅ましい立居振舞をしない、というのは人としてそうありたい姿ですね。

この話のあとは、孔子は自分が世に容れられないことを弟子に嘆いて意見を聞く記述があります。子路、子貢、顔回に対し
「《》云『匪兕匪虎,率彼曠野』。吾道非邪?吾何為於此?」
すなわち
“詩に、野牛でも虎でもないのになぜ荒野にさすらうのだろうか、とある。我が道がいけないのだろうか、われわれはどうしてここに困窮しているのだろうか、”
と問いかけます。
子路は、われわれはまだ仁でも知でもないのではないでしょうか、と答え、子貢は、先生(孔子)の道は大きすぎて天下の人は理解して容れられないのです。すこし小さくできないでしょうか、と答えます。顔回は、大きすぎて天下の人容れられないが、容れられないで却って君子であることがわかります、と言います。
仁や知の不足との意見には、孔子は仁者、知者といえども不遇な目に遇わされる例を挙げこれを退け、道が大きすぎるから世間に合わせて小さくしろ、という意見には自分が志を低くして世間に容れられるようにするのは不可、と退けます。そして顔回の見解に賛意を表します。
人の道を極めるという目標に忠実ならば、権門にお世辞をつかい、話を合わせ、世間の風潮に合わせて生きるのは駄目でしょうから、確かに顔回の見解の通り、ということになります。しかし、現実の社会、政治に関わろうとするならば、綺麗事ばかり言ってもいられないでしょう。儒者はとても両立し難いものを両立させようと苦しむ人ということになります。

孔子は結局楚の昭王に助けてもらい、楚に行きます。昭王は孔子を七百里の地を以て封じようとします。しかし子西というものが反対して実現せず、孔子は用いられませんでした。

その後孔子は楚から衛に行きます。ここで子路が衛で政治をするにはどのようなことをするか、と質問する話が出てきます。孔子の回答は
「必也正名乎」
すなわち
“名を正すことだ”

といいます。このくだりは論語の子路第十三に出てきます。名と実が合っていることを大事だとしたのです。理屈ではその通りなのでしょう。しかしこれも実際の政治においては曖昧にして対応する必要が出てくることはいつの世でも変わらないでしょう。逆に名と実があっていない、と正義を振りかざして政敵を非難することが汚いやり方であることもあると思います。





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2017年7月7日金曜日

論語(8);史記孔子世家 第十七 -(vii)-

衛を去った孔子はさすらって鄭(テイ)へ行き、さらに陳にいたります。このころ呉が越王句践(コウセン)を会稽で破っています。孔子は陳に三年暮らしますが、当時の陳は晋、楚、呉の侵略を受けていました。
この事態に対して孔子はなすすべもなく、魯に帰ろうかといいます。陳を去り、蒲(ホ)を通ります。この時たまたま公叔氏が蒲に拠って衛に背きます。そして蒲の人は孔子をとどめました。弟子の公良孺(コウリョウジュ)というものがあり、すさまじく闘い、結局蒲の人は衛にさえ行かなければ出してやる、と言います。孔子はそうすると約束して出してもらいます。
ところが孔子は衛へ行ってしまいます。弟子の子貢が約束に背いてよろしいのですか?と聞くと、
「要盟也,神不聽」
すなわち、強要された盟いだから神は聞き入れていない、と言います。そういう理屈もあろうか、とも思ったりもしますが、これでは苦し紛れに約束をしてしたことを、自分の勝手な判断で約束を破る口実にも見えますね。

しかし衛の霊公は孔子が来たと聞いて、喜んで出迎えます。孔子にはそれだけの人徳と名声があるのでしょう。
霊公は孔子に蒲を伐ってよいか聞きます。孔子はよろしい、と言います。その理由として(この部分を読んだだけではなぜだかわかりませんが)蒲の男子は衛の為に死のうという志があり、婦人は西河の地にたてこもろうとのぞんで、(衛に背いている)公叔に従おうとは思っていない、と言います。恰も孔子が蒲に悪意を持って、あそこは攻めて構わない、と言っているように見えます。

霊公は結局孔子を重く用いることはありませんでした。孔子は自分の抱負、能力に自信があったので、用いられない衛を見捨てます。

ここで仏肸(ヒッキツ)なる者が晋の中牟(チュウボウ)の長官になります。
この時、晋の卿である趙簡子が晋公を引き込んで范氏、中行氏(いずれも晋の卿)を攻め、中牟を撃ちます。この時仏肸は孔子を招聘します。
子路がこれに反対します。子路によれば仏肸は中牟を率いて晋に背いているのだそうです。
しかしその直前には仏肸が晋に背いたとは書いてありません。趙簡子が中牟を攻撃したとだけ書いてあるのです。

孔子は仏肸が晋に背いたことを認めて、それでも反論します。
“至堅のものはいくら磨いても薄くならないというではないか。至白のものはいくら黒土の中で染めても黒くならないというではないか。”
と言います。志が堅固なら悪には染まらないということでしょうか?しかし現に仏肸が悪をなしているならばこれを何らかの形で補佐すれば悪に加担することになると思うのですが
さらにつづけて
“私は苦い瓜ではない。どうして一か所にぶら下がって、食用にならないまま捨てておかれてよいだろうか?”
と言います。

彼は仕官して腕を揮いたかったのでしょう。しかしどうも相手選ばずで処世が下手という印象がぬぐえません。





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2017年6月27日火曜日

論語(7);史記孔子世家 第十七 -(vi)-

孔子はまた魯から出て今度は衛へ行きます。衛の霊公は孔子に魯と同等の碌を与えます。しかし讒言する人がいて、孔子は罪に落とされるのをおそれて衛を去り陳へ行こうとします。

衛から陳へ行く途中の、匡を通った時に難に会います。
匡の人は孔子を、風貌の似ているかつて匡の人に乱暴をはたらいた陽虎と取り違え、何日も拘束します。このため食糧を絶たれ困窮します。

この事件のあと孔子は結局衛に引き返します。
霊公の夫人の南子という人が、人を孔子に遣わして、次のように言わせます。
「四方之君子不辱欲與寡君為兄弟者,必見寡小君。寡小君願見。」
野口定男さんの訳によれば
“四方の諸国の君子で、わが国の君主(霊公)と親交したいとのぞむことをいとわないものは、必ず君主夫人(南子)に謁見いたします。君主夫人はあなた(孔子)にお目にかかりたいと願っておられます。“
これを聞いて孔子は南子に謁見します。孔子はこれについて、やむを得ず謁見したと子路に言い訳しています。そして
「予所不者,天厭之!天厭之!
“わしに後ろ暗いところがあれば天がわしを見すてるだろう、天がわしをみすてるだろう。”
と言います。
何らかの行政上の地位を得ないなら、政治の抱負を実行できないでしょうから、一般論からいえば南子に会ったことが、悪いことであるとは言えませんが、あとに述べるように、すぐに衛を離れることになるのですからここで南子に会ったのは、処世の術としては先の見通しが悪いという気がします。
その事件とはこうです。
「靈公與夫人同車,宦者雍渠參乘,出,使孔子為次乘,招搖市過之
野口さんの訳では
“霊公は夫人と同車し、宦者の雍渠が陪乗して外出したが、その際、孔子を後車に乗せて行った。一行は市中を逍遥した。”
とあります。孔子は後ろの車に乗せられたのでしょうね。これで孔子は
「吾未見好德如好色者也。」
すなわち
わしはまだ色を好むように徳を好むものを見たことがない。“
と嘆いて衛を去ります。

この言葉は論語の子罕第九と衛霊公第十五と両方に出てきます。これは普通に健全な嘆きと思いますが、昨今の日本の風潮では、徳より色を好むのを非とも恥とも思わぬ人の方が人権尊重の精神に富んでいる、と言われそうですね。

2017年6月18日日曜日

論語(6);史記孔子世家 第十七 -(v)-

以下、史記の孔子世家は説明の十分でない話が続きます。

魯の国で孔子は政治をあずかり、国はよく治まったとあります。治まったのは分かりますが、それは結論であって、どういう施策をしたのかはわかりません。本当によく治まったのなら実務家として優れたところがあるはずですが、内容がわかりません。

しかしよく治まった結果、斉の人間がまた魯が強国になるのではないかと心配します。そこで踊りのできる着飾った美女を80人を、飾り立てた馬とともに魯の君に送ります。そしてその馬や女を魯の都城の南方の高門の外に連ねた、とあります。
そもそもこれが不思議です。魯の君に贈るというのだから連絡して魯の王のもとに送ればよいだけなのに、城門の外に連ねたのです。なぜそんなことを勝手にできたのでしょう?

これからあとの史記の内容も納得いかない話です。
「季桓子微服往觀再三,將受,乃語魯君為周道游,往觀終日,怠於政事。」
となっており、野口さんの訳によれば
“季桓子(季孫氏の当主で魯の宰相)が人目につかない服装で再三でかけて見物し、それを受け入れようとして、魯君に告げて、ともに都城の内外をあまねく巡遊し、それにかこつけて終日女楽を見物し、政事を怠った。”
です。季桓子に、ではなく、君主に贈られたもので、季桓子が下手に追いかければわが身を危険にさらしそうなのに、付きまとっているわけです。そして女楽を楽しんで政事を怠った、とされるのも君主でなく季桓子なのです。
なぜこんなことがまかり通っているのでしょうか。

子路が嘆いて職を辞すべき、と孔子に進言すると、孔子の答えが、「魯は郊祭(天地を祭る行事)を行おうとしている。その時、(ひもろぎ、お供えの肉)を礼式通り大夫におくるようなら留まろう。」です。どうしてそんなことが重要な判断基準になるのかよくわかりません。しかし結局、お供えの肉は配られなかったので孔子は諦めて辞職します。

ところで、ここでまた女楽を受け、三日の間政(まつりごと)を聞かず、と前と同じ話を述べられ、さらにお供えの肉を配らなかったのも魯の君主の話ではなく、季桓子なのです。
魯の定公は何をしていたのでしょう?この辺の事情がまったく分かりません。

さて音楽官が立ち去る孔子を送って行って「罪のないのにどうして」と聞いたところ、孔子は女楽にかこつけて季桓子の行いを謗った歌を歌います。季桓子はあとからその歌を聞いて、孔子に罪せられたことを嘆いたとあります。

季桓子にその程度の良識があるのなら、政を怠ったのも三日ですし、孔子は去らずに季桓子を諫めたらよかったのに、と思うくらいです。
孔子はあっさり身を引いて、魯の政治を混乱させる、という斉の企みは取り敢えず成功させてしまったのですから。





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