2017年11月9日木曜日

論語(16); -君子と小人(i)-

論語では君子はどういうものかがしばしば述べられ、またよく小人と対比されています。わざわざ君子と断わらずとも、論語に書かれている、かくあるべし、という教えは君子たる者の為すべき振る舞いなのでしょうが、「君子」という言葉が殊更出てくるところを見ると、そんなに特別よいことを言っているようにも見えなかったりします。

学而第一の1にいきなり君子が出てきます。
「人不知而不慍,不亦君子乎?」
すなわち
“人が自分のことをわかってくれなくても不平不満に思わない。まことの君子ではないか。”
というのです。ここで”人”とは自分を登用してくれる君主、王侯なのだそうです。
これは論語の冒頭の文にあるので良く知られているの句の筈です。しかしこれは普通の人にとってはあまり関係ない話に見えるのではないでしょうか。自分の学問、抱負を君主が知って用いてくれないのを怨まないというのはそれほど立派な徳なのでしょうか。自分の境遇について、誰を怨んでも仕方がないと思うのは珍しくないのではないでしょうか。

また学而第一の14
「君子食無求飽,居無求安,敏於事而慎於言,就有道而正焉」
“君子は腹いっぱい食べることを求めず、安楽な家に住むことを求めない。為すべきことを速やかに為し、言葉を慎み、道義を身に着けた先輩に親しんでおのれの過ちを正していける”
と言っています。そしてこの文の最期に「可謂好學也已」(学を好むと言えるだろう)とくっついています。君子の説明をしたあとの末尾で”学を好むということができる”、というのは文の構成上ちょっと変です。
さて、その前段のはじめの部分は、贅沢な暮らしを求めない、といっています。これも腹一杯食べるとか、安楽な家に住むとかはレベルは問題ですが、凡人にとってもそう難しい要求ではないし、そうした心の持ち方も特別の人格者とも思えません
後段の「敏於事而慎於言,就有道而正焉」はこれまで述べてきたような普通の処世の術に見えます。

為政第二の12
「君子不器」
とあります。
“君子は(一芸一技ができるだけの)器であってはならない”、というのです。一役一職をなすだけで他のことに役立たない器物ではだめだ、というのはその通りかもしれませんが、これは漠然としていて器を超えてどうなっていればよいのかはっきりわかりません。
また、一役一職でもでもきちんとできれば上等という見方だってできます。
君子とはスペシャリストではだめで、有能なジェネラリストであるべきだ、というスタンスは今の人間がみれば学の考え方が古い所為なのではないかと思ってしまいます。





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