2013年9月21日土曜日

三国志演義、三国志 蜀書 諸葛亮伝第五; 諸葛亮の友人(3)



前回の記事の冒頭で、三国志演義にでてくる諸葛亮と友人との関係について司馬徽の話を持ち出しましたが、その中で次の有名なくだりがあります。すなわち司馬徽は劉備に
「此四人務於精純、惟孔明獨觀其大略。嘗抱膝長吟、而指四人曰、「公等仕進可至刺史・郡守。」衆問孔明之志若何、孔明但笑而不答。每常自比管仲・樂毅、其才不可量也。」 と説明したのです。すなわち
“この四人(崔州平、石広元、孟公威、徐元直)は学問に精熟することに勤めたのに対し、孔明だけは大略に目をつけていた。嘗て膝を抱いて長吟しながら四人を指差していうことには、「貴公たちが仕官すれば刺史や郡守にはなれるだろうな。」と言った。みんなは孔明の志を聞いたが笑って答えなかった。常々管仲・樂毅に自らを比較しているがその才能は測り難い。” ということです。
これだと初めから諸葛亮は抜きんでていて、他の人をただ一生懸命勉強しているだけとみなし、諸葛亮は友人を侮っているようにも見えます。しかし、本当のところは違うようです。

諸葛亮が友人について語っている記述が、蜀書 董劉馬陳董呂伝 第九のうち董和伝の末にあります。
「昔初、交州平、屢聞得失。後、交元直、勤見啓誨。前、參事於幼宰、每言則盡。後、從事於偉度、數有諫止。雖姿性鄙暗不能悉納、然與此四子終始好合。亦足以明其不疑於直言也」
と諸葛亮は述べています。井波律子さんの訳では
“(私は)昔、初めは崔州平とつきあい、しばしば欠点を指摘され、後には徐元直とつきあい、何度も教示を受けた。先に董幼宰といっしょに仕事をしたが、いつも言いたいこと遠慮なしに言ってくれたし、後に胡偉度(済)と仕事にたずさわったが、たびたび諫言してまちがいをとめてくれた。(私の)性質は暗愚であり、すべてを受け入れることはできなかったけれども、しかしながらこの四人とは始終気があった。これもやはり彼らの直言をためらわない態度を証明するものである。”
となります。
この名前の挙がった人の中で同列の友人はおそらく崔州平と徐元直だったのでしょう。

いずれにせよ諸葛亮は、軽率に人を馬鹿にするような人ではなく、友人が注意してくれるような人間であり、かつそれを受け入れることのできる人だったと推察されます。






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2013年9月19日木曜日

三国志演義、三国志 蜀書 諸葛亮伝第五; 諸葛亮の友人(2)



さて、三国志演義では第三十七回で劉備を訪れた司馬徽が、孔明と崔州平、石広元、孟公威、徐元直が親友だったと話します。いずれも実在の人です。崔州平は仕官しなかったようですが、その他の三人は前回書いたように仕官しています。したがって崔州平以外の人は、諸葛亮も含めて世捨て人ではなく、学問をして仕官し、志を遂げようとしていた訳です。

ところで、三国志の中で石広元と、孟公威が田舎の居酒屋で歌をうたう場面は勿論虚構ですが、作り話にせよこの二つの歌は両人の本心とあっていないようです。
一人目が(上座の人が先にうたったと考えるなら石広元)

壯士功名尚未成、(壮士巧妙尚未ダナラズ)
嗚呼久不遇陽春。(嗚呼、久シク陽春ニ遇ハザリキ)
君不見、東海老叟辭荊榛、(君見ズヤ、東海ノ老叟ガ荊榛ヲ辞(サ)リテ)
後車遂與文王親。(後車(ニ乗リテ)遂ニ文王ト親シメルヲ)
八百諸侯不期會、(八百ノ諸侯、期セズシテ会シ)
白魚入舟涉孟津。(白魚、舟ニ入ッテ孟津ヲ渉リシコトヲ)
牧野一戰血流杵、(牧野ノ一戦ニ血ハ杵(武器)ヲ流シ)
鷹揚偉烈冠武臣。(鷹ノゴトク揚ガレルオオイナルイサオシハ武臣ニ冠タルオ)
又不見、高陽酒徒起草中、(又見ズヤ、高陽ノ酒徒ガ草中ヨリ起(タ)チ)
長揖芒碭隆準公。(芒碭ノ隆準公ニ長揖セシコトヲ)
高談王霸驚人耳、(王霸ヲ高談シテ人ノ耳ヲ驚カシ)
輟洗延坐欽英風。((足)洗フヲ輟(ヤ)メテ坐ニ延(ヒ)キ英風ヲ欽(シタ)イシヲ)
東下齊城七十二、(東ノカタ齊ノ城ヲ下スコト七十二)
天下無人能繼蹤。(天下ニ人ノ能ク蹤(アト)ヲ繼グモノナシ)
兩人非際聖天子、(両人ノ聖天子ニ際(ア)イシニ非ズンバ)
至今誰復識英雄?(今ニ至ルマデ、誰カ復(マ)タ英雄ヲ識(シ)ランヤ)

この歌は太公望が周の文王に巡りあい、その後武王の代に殷の紂王を征伐する手柄を立てたことを言い、次に、酈食其(レキイキ)が漢の高祖に遇って、高祖が足を女に洗わせていた非礼をなじり、詫びさせたこと。その後、酈食其は高祖のために斉の王を説いて七十余の城を高祖に献ぜしめたことを言っています。
でも兩人非際聖天子、至今誰復識英雄?というのは、なにを言いたかったのでしょう、もし二人(太公望と酈食其)が英明な天子に会わなかったならば、誰がこの二人を英雄を知る事があろうか、つまり運よく有能な天子がいて、使ってくれなかったらどうにもならなかっただろうに、ということなのでしょうか?

蛇足ですが、岩波文庫の小川環樹さんの訳では「東下齊城七十二」で戦国時代の楽毅が斉の城を五年間で七十余も落としたことを引用しています。しかしここは太公望と酈食其と二人の話をしているのだから、酈食其が斉王を説いた話が本筋で、楽毅の引用は間違いと思います。

次に一行の文が入って
「歌罷、又有一人擊桌而歌。其歌曰、」(歌い終わって、また一人(つまり二人目の男、孟公威?)が卓を敲いて歌う。その歌は)
と二人目が歌う内容が書かれます。

吾皇提劍淸寰海、(吾ガ皇ノ劍ヲ提(サ)ゲテ寰海(天下)ヲ淸メシヨリ)
創業垂基四百載。(業ヲ創メ、基ヲ垂ルルコト四百載)
桓靈季業火德衰、(桓・靈ノ季業(スエツカタ)ヨリ火德ハ衰ヘ)
奸臣賊子調鼎鼐。(奸臣賊子 鼎鼐(テイダイ)ヲ調(トトノ)フ)
靑蛇飛下御座傍、(靑蛇 飛ンデ下ル御座(ミクライ)ノ傍(カタハラ))
又見妖虹降玉堂。(又見ル 妖シキ虹ノ玉堂ニ降リシヲ)
羣盜四方如蟻聚、(羣盜ハ四方ニ蟻ノ如ク聚(アツマ)リ)
奸雄百輩皆鷹揚。(奸雄 百輩 皆 鷹ノゴトク揚(アガ)レリ)
吾儕長嘯空拍手、(吾儕(ワガトモガラ)大イニ嘯(ウソブ)キ空シク手ヲ拍ッテ)
悶來村店飮村酒。(悶來タラバ村店ニ村酒(イナカザケ)ヲ飮ム)
獨善其身盡日安。(獨リ其身ヲ善ニスレバ盡日(ヒネモス)安ラカナリ)
何須千古名不朽?(何ゾ須ヰンヤ千古ニ名ノ朽チザルヲ)

これはシンプルです。高祖が天下を統一し、四百年、桓帝、霊帝の代になって漢は衰え、悪い奴がのさばり始めた。でも自分達は手拍子で歌を歌い、酒をのみ、我が身を善に保てば満足、名を残す気などない、という世捨て人の歌です。齷齪と世の人に混じって出世競争などしない、というのです。

さりながらこの二つの歌はなんとなく精神的雰囲気は高雅で、天下国家を先に考えて我が身の利害損得など顧みず、という姿勢が窺われます。
こんな感じで世を見ている風流な人が今の日本でもおられれば会いたいものですね。





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2013年9月14日土曜日

三国志演義、三国志 蜀書 諸葛亮伝第五; 諸葛亮の友人(1)



諸葛亮の友人として正史の諸葛亮伝にまず出てくるのは崔州平と徐庶です。
「惟、博陵崔州平、潁川徐庶元直、與亮友善、謂爲信然。」
諸葛亮が自らを管仲、樂毅に擬していたのを、他の人は認めなかったけれど、崔州平と、徐庶、字元直は諸葛亮と親交があって、その通りと認めていたということです。

徐庶はまず劉備に仕えるのですが、正史ではなんで仕えるようになったかは書いてありません。
三国志演義では劉表を見限って立ち退いた徐庶が、司馬徽にさとされて劉備を訪れます。それが大道で歌を歌って劉備の気を引いて声をかけてもらうのです。(第三十五回)
その歌とは以下のようなものです。

天地反覆兮、火欲殂。(天地反覆(クツガエリ)テ、火(漢)ハ殂(ホロビント)欲ス)
大廈將崩兮、一木難扶。(大廈ノ将ニ崩レントスルヤ、一木デハ扶(ササ)エ難シ)
山谷有賢兮、欲投明主。(山谷ニ賢アリテ、明主ニ投ゼント欲ス)
明主求賢兮、却不知吾。(明主賢ヲ求ムレドモ、却ッテ吾ヲ知ラズ)

なんとまあ、直接的就職運動でしょう。

正史では事情は分かりませんが、徐庶は劉備から有能な人物と認められ、仕えるようになります。その徐庶が諸葛亮は臥龍だと言って推薦します。
劉備は、徐庶に連れて来てくれとたのみますが、無理に連れてこられるような人ではない、とこちらから訪問することを勧めます。そして有名な劉備の三顧の礼、孔明の天下三分の計を説く話に繋がって行きます。

徐庶は後に当陽の戦いの時に母が曹操軍の捕虜となり、やむを得ず劉備と別れて曹操に仕えるようになります。劉備は度量のある人間ですから、それを許しています。
徐庶はその後本気で曹操を輔佐しようと思ったのか、生活のためやむを得ず仕えていたのかはわかりません。

「魏略」には別の話が書いてあり、正史の裴松之註で引用されています。すなわち、
「遂與同郡石韜相親愛。初平中、中州兵起、乃與韜南客荊州、到、又與諸葛亮特相善。及荊州附、孔明與劉備相隨去、福與韜俱來北。」
です。井波さんの訳によれば、
“かくて同郷の石韜と親しく交際するようになった。初平年間、中原で戦争がおこったので、石韜とつれだって南方荊州に旅し、到着すると、さらに諸葛亮と特に親しくなった。荊州が曹操になびくと、諸葛亮は劉備とともに去ったが、徐福(徐庶)は石韜と一緒に北へ来た。”
となります。
これだと、徐庶は劉備に仕えていません。(もし仕えていたとしたら誠意のない臣下になります。)石韜と一緒に勢力の固まり安定しつつある北へ行って就職したことになります。
これは諸葛亮の態度とは大いに異なります。正史での諸葛亮の劉備に説いた三分の計の最後の言葉は
「誠如是則霸業可成、漢室可興矣」
です。井波さんの訳によれば
“まことにこのようになれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう”
です。漢朝の復興事業をしようと考えているのです。また、諸葛亮は劉備に説くなかで劉備を褒めて
「將軍、既帝室之冑、信義著於四海、總攬英雄、思賢如渴。」
“将軍は、皇室の後裔である上、信義が天下に聞こえわたり、英雄たちを掌握されて、のどの渇いた者が水をほしがるように賢者を渇望しておられます。”
と言っています。そのような人柄の人を諸葛亮は望んでいたわけです。彼は漢室の忠臣として、漢室を復興させたい思いがあり、人格も立派である人を支えて力を尽くしたかったことになります。

石韜はのちに郡守、典農校尉を歴任し、徐庶は右中郎将、御史中丞にまで登ります。諸葛亮がもらした感想は
「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」
“魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか?”
です。つまり慨嘆しております。
人の立身出世などは運不運もありますが、この二人は諸葛亮ほどには強い志は感じられません。






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