2013年9月7日土曜日

三国志 三国志演義 趙雲(3)



三国志演義の記憶に残る場面の一つに孫夫人(孫権の妹)が阿斗をつれて呉に帰ろうとするところを趙雲が追いかけて取り戻す話があります。すなわち、「第六十一回の趙雲截江奪阿斗 孫權遺書退老瞞」(趙雲江を截(さえぎ)って阿斗を奪い 孫権書を遣して老瞞を退(しりぞ)く)のところです。   劉備が蜀(当時劉璋が治めていた)へ入った隙に、呉は荊州を奪ってしまおうと考えますが、孫権の妹が劉備に嫁しているので彼女の身に危険が及ぶ可能性があります。そこで母親が病気だと偽りの情報を伝えて、孫夫人を呉に連れ帰ることにします。孫夫人は当時7歳の阿斗を抱いて迎えの船にのりこみますが、見回りから帰った趙雲が、四、五騎の供だけつれて急追し、声をかけて止めようとします。しかし、迎えの使いの周善は耳をかしません。そこへ来た釣り船に趙雲は只一人飛び乗って、孫夫人の舟を追い、相手が矢を射かけたり、槍ぶすまで防ぐのをものともせず、向こうの舟に飛び移り、阿斗を奪い取ります。しかし、ただ一人なので船を向こう岸に着けさせないようにするのも難しく、立場に窮します。そこへ、あとから張飛が船十数艘で追ってきて、槍を引っ提げて孫夫人の舟に飛び移り周善を斬り、張飛と趙雲は無事阿斗をつれて帰ります。帰る途中で孔明が多数の舟を率いて応援にくるところに出会います。

正史にはこの逸話はありません。正史の趙雲伝の註に引かれる「趙雲別伝」によれば、このあたりの経緯は以下のように説明されています。
「此時先主孫夫人以權妹驕豪、多將吏兵、縱橫不法。先主以雲嚴重、必能整齊、特任掌事。權聞備西征、大遣舟船迎妹、而夫人欲將後主還、雲與張飛勒兵截江、乃得後主還」
“このころ先主の孫夫人は孫権の妹なのを鼻にかけ驕慢で、大勢の呉の官兵を率いて、したい放題をやって法を守らなかった。先主は趙雲が厳格であるために、引き締めることができるに違いないと判断し、特に任命して奥むきのことを取り仕切らせた。孫権は劉備が征西の途にのぼったと聞くと、妹を迎えるためにたくさんの舟を派遣してきた。孫夫人のほうは内心、後主(劉禅)をつれて呉に帰りたいと願っていたのであるが、趙雲が張飛とともに兵を指揮して長江をさえぎったので、なんとか後主をとり戻すことができた。”
とあります。
この話を潤色して三国志演義は出来たのだと思います。しかし、雲與張飛勒兵截江(趙雲が張飛と共に)という言い方ですと、(三国志演義であとから諸葛亮が追いかけてくることを考え合わせて、)全体が諸葛亮の指示であることを窺わせます。

なお、趙雲は人柄が厳格にして細心な人柄で奥向きのこともきちんと取り締まれると期待されたことが分かります。

さて、この話については二主妃子伝第四の穆皇后伝の註の中に「漢晋春秋」に書いてあることが引用されています。
夫人欲將太子歸、諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子、乃得止」
です。
“孫夫人は太子をつれて呉に帰ろうとした。諸葛亮は趙雲に兵を指揮させ、長江を遮断して太子を留めさせたので、ようやく留めることができた。”
となります。
これだとはっきり諸葛亮が命令したことになります。ただし命令されたのは趙雲だけです。この当時は諸葛亮はまだ荊州にいたはずです。また三国志演義でも孔明があとから出動したことになっています。

実相としては諸葛亮の命令で趙雲(と張飛)が派遣され、阿斗が取り戻されたのでしょう。三国志演義にあるようなドラマはなく、趙雲(と張飛)が船隊を出動させて、呉の使いの舟を捕捉し、阿斗を取り返したのだと思います。





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